しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年5月15日木曜日

説教#31:「私たちが携えるのは、希望の言葉」

私たちが携えるのは、希望の言葉
聖書 イザヤ書25:6-9、ヨハネによる福音書20:11-18
日時 2014年4月27日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【私たちが流す涙】
どのような時に、私たちは涙を流すでしょうか。
私たちは日々、様々な涙を流します。
悲しみを覚えた時。
感動した時。
目にゴミが入った時。
誰かに失望した時。
誰かの話に共感を覚えた時。
現実を突きつけられて、落胆した時。
悔しさがこみ上げてきた時。
かけがえの無い人を失った時。
このように、私たちは日常の中で、様々な涙を流します。
いつか泣き止むことは、経験上わかっています。
しかし、失望や落胆、そしてかけがえのないものを失ったときに流す涙は、
なかなか止むことがありません。

【マグダラのマリアの涙】
今日、与えられたテキストを見る時、一人の女性が泣いている場面に出くわします。
11節を見てみましょう。
マリアは墓の外に立って泣いていた。(ヨハネ20:11)
墓の前で泣いていた女性の名前は、マリア。
1-10節を見てみると、彼女は空っぽの墓を見つめたとき、
急いで、弟子たちのもとへ行ったことが記されています。
彼女は弟子たちのもとへ行き、彼らにこのように報告しました。
「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」(ヨハネ20:2)
それは、愛するイエス様の亡骸がなくなってしまったという、嘆きの報告でした。
弟子たちに報告した後、どうやら彼女はまた墓に戻ってきたようです。
そして、墓を見つめて、彼女は涙を流し続けたのです。
彼女の泣いている理由は、13節に記されています。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(ヨハネ20:13)
弟子たちに報告した時と同じことを、彼女は言っています。
「主が取り去られた」(20:13)、と。
この事実を、彼女は最初のうちは受け止めきれなかったのでしょう。
しかし、弟子たちにこのことを報告して、また墓の前に戻ってきた時、
自分の語った言葉の意味が、次第にわかってきたのです。
そう、イエス様がいないという現実を、彼女は知ったのです。
イエス様の遺体は、盗まれたわけではありませんでした。
弟子たちに報告をして戻ってきた今も、その行方はわかりません。
愛するイエス様が、何処にもいないのです。
イエス様を失ったことに対する悲しみが込み上がり、マリアは涙を流し続けたのです。
「マリアは墓の外に立って泣」(ヨハネ20:11)き続けたのです。
彼女のこの姿を通して、彼女がイエス様をどれほど愛していたかが伝わってきます。
この時、マリアはイエス様のいない墓を見つめながら、
イエス様と交わした言葉や、イエス様が行ってきたことを思い起こしたことでしょう。
しかし、イエス様のことを思い出せば思い出すほど、涙は溢れてきます。止まりません。
何より、イエス様がどのようにして死なれたかを思い起こすと、
胸が締め付けられる思いだったでしょう。
なぜ。なぜイエス様は死ななければならなかったのか、と。
様々な感情が溢れ、墓の前で、マリアは泣いていたのです。

【気づかないマリア】
イエス様の墓を見つめ、マリアは悲しみを覚え、泣き続けていました。
そんなマリアに語り掛ける声が聞こえたのです。
「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20:13)
彼女の前には、二人の天使が見えました。
二人の天使。それは、イエス様の復活を予感させる存在です。
しかし、マリアは気づかないのです。
イエス様の復活に気付くことができないのです。
その予感を感じる取ることができなかったのです。
弟子たちに報告したように、マリアは彼らに答えます。
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 (ヨハネ20:13)
こう言いながら、後ろを振り返った時、そこに立っていたイエス様を見ても、
マリアは、すぐ側にいるのがイエス様だと気付かないのです。
イエス様がよみがえり、そこに立っていることに気づかないのです。
イエス様を園丁だと思い込んで、彼女は、また墓の方を向いてしまうのです。
そこに、彼女が捜しているイエス様がいたのにも関わらず、
彼女は、墓の方に目を注いで、泣き続けるのです。
マリアは、悲しみに囚われていました。
すぐそこに、すぐそばに、希望があるのにも関わらず、
目の前にある出来事に心奪われてしまっていたのです。
このように、悲しみや嘆きは、私たちの目を希望から逸らさせるのです。
本来私たちが見つめるべき希望を諦めさせ、また時には気付かせないようにするのです。

【主イエスの語り掛け】
そんな悲しみに囚われていたマリアに対して、イエス様は一言、こう言ったのです。
「マリア」(20:16)
それはマリアの聞き慣れた声でした。
聞き慣れた呼び掛けでした。
これまで何度も、何度も、自分の名前を呼んでくださった方の声でした。
このたった一言で、マリアは目の前にいるのが誰なのかに気付いたのです。
目の前にいるのは、イエス様だと。
死んで復活した後も、イエス様は変わることなく、マリアに呼び掛けられたのです。
死は、イエス様とマリアの関係を変えることがなかったのです。
イエス様のこの語り掛けが、悲しみに囚われていたマリアに希望を与えたのです。
そして、復活の主イエスとの出会いを通して、マリアの目から涙は拭い去られ、
彼女は、顔を上げることができたのです。

【嘆きではなく、希望の言葉を携える者になる】
もはや、彼女は「わたしの主が取り去られました。
どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 (ヨハネ20:13)
という嘆きの言葉を語る必要はありません。
嘆きの言葉の代わりに、新たな希望の言葉が彼女に与えられているのです。
彼女は、嘆きの言葉を携えて、人々の前に出て行く者ではなく、
希望の言葉を携えて出て行く者へと、変えられたのです。
彼女は、「わたしの主が取り去られました」(20:13)とはもう言いません。
彼女はこう言うのです。
「わたしは主を見ました」(ヨハネ20:18)
この喜びの言葉を、マリアは希望として携えて、弟子たちのもとへと向かったのです。
私は主を見ました。
イエス様が復活されたのをこの目で見ました、と。

【希望の言葉を携えて歩む】
イエス様の死の前に、何も為す術がなく、
ただ泣き続けるしかなかったマリアの前に、イエス様は現れました。
イエス様は復活したのです。
この事実は、私たちにとっての希望です。
悲しみや嘆きのただ中にある私たちに、神は語り掛け、希望を与えてくださるのです。
マリアの涙が拭い去られ、彼女の嘆きが希望へと変えられたように。
イエス様の復活を通して、私たちは確信することができます。
悲しみや絶望、落胆は、私たちの永遠の運命ではない、と。
確かに私たちはこれからも、嘆くでしょう。悲しむでしょう。涙を流すでしょう。
しかし、神が私たちに語り掛けて、希望を与えてくださっているのです。
どんなに深い絶望の淵にあっても。
神は、私たちの名前を呼び、私たちに語り掛け、
私たちに希望を与え続けてくださるのです。
主イエスはよみがえられた、という希望です。
この希望の言葉を知っているから、私たちはこう確信することができるのです。
私たちが日々抱える嘆き、悲しみのただ中に、神は働く、と。
私たちが打ち勝つことのできない死に打ち勝ち、勝利された復活の主と、私たちは出会っているのですから。
この希望の言葉を携えて出て行きましょう。
悲しみや嘆きを覚える中に、主が確かに光を投げかけてくださるのですから。
復活の主が、私たちの涙を拭い去ってくださると信じて、歩んでいきましょう。