しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年5月17日土曜日

説教#33:「見えないものを、見つめて歩む」

見えないものを、見つめて歩む』
聖書 創世記12:1-4a、ヨハネによる福音書20:24-31
日時 2014年5月11日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【疑いを抱く時】
疑い。
それは、とても日常的な問題です。
自分にとって何が良いもので、何が悪いものなのか。
それを選択するためにも、一度疑うということは必要になってきます。
「これは良いものだ」と言って、すべてのものを受け入れるわけにはいかないからです。
ですから、私たちは目の前にあるものは本当に必要なのだろうか、と疑うのです。
そのような意味で、私たちは、日常で絶えず疑い続けています。
しかし、人間関係ついては、少し違ってくるようです。
人間関係において、疑いは、持てば持つほど、相手を信じられなくなっていくものです。
特に、自分が信用出来ない人に対してならば、より懐疑的になってしまいます。

【トマスの抱いた「疑い」】
今日与えられたテキストは、イエス様の弟子のひとりであるトマスが、疑いをもった場面です。
他の弟子たちがイエス様と出会った時、トマスはその場にいなかった、
とヨハネは記しています。
ですから、トマスは弟子たちのもとに帰ってきた時、
他の弟子たちから、彼らがイエス様と出会ったという報告を聞いたのです。
彼らは、しきりに言うのです。
「わたしたちは主を見た」(ヨハネ20:25)
イエス様は十字架に架かって、死んだはずです。
ですから、トマスは彼らの言葉を信じられず、疑いを持ち、こう言うのです。
「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」(ヨハネ20:25)
トマスは、自分も他の弟子たちと同じように主を見なければ信じない、とは言いませんでした。
彼は、それ以上のことを要求しています。
実際にこの目で見て、イエス様の傷跡に触れなければ、絶対信じない、と。

【トマスに対する、弟子たちの関わり方】
そんなトマスに対して、弟子たちはどのようにして関わったのでしょうか。
ヨハネは、この直後に起こったことについては、何も書いていません。
トマスの語った言葉の後、直ちに「さて八日の後」と、話は展開しています。
ですから、どのように弟子たちがトマスに関わったのか、細かなことはわかりません。
しかし、注意深く聖書を読んでみると、この約1週間の間に、ひとつの変化があったことに気付かされます。
24節にはこのように書かれています。
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。(ヨハネ20:24)
そして、26節には、このように記されています。
さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。(ヨハネ20:26)
この1週間の間に起こった変化を、「トマスも一緒にいた」という言葉から知ることが出来ます。
弟子たちの前にイエス様が現れた時、トマスは弟子たちと一緒にいませんでした。
彼は、弟子たちの交わりから離れていました。
しかし、「わたしたちは主を見た」という報告を聞いたトマスは、少し違ったようです。
彼は、他の弟子たちと一緒にいるようになったのです。
どちらが寄り添ったのかはわかりません。
しかし、トマスはまたひとりにならなかった、ということは確かなことです。
トマスは、信じることができないという理由で、交わりから出て行くことはしませんでした。
また、弟子たちは、トマスが信じることが出来ないという理由で、
彼を交わりから追い出すことはしませんでした。
信じられない者がそこにいたから、弟子たちはトマスのそばにいたのです。
彼らは、一緒にいることを諦めなかったのです。
そして、時間を掛けて、トマスにこの事実を共有したのです。
イエス様が復活したという事実を、トマスが確信することが出来るように。
彼が確信することが出来る日を、共に待ち望み、
弟子たちは、彼のために祈り続けたのです。

【交わりを諦めない】
弟子たちがトマスに関わったこの姿を通して、「一緒にいることを諦めない」という励ましを私たちは与えられます。
教会には様々な人がいます。
それぞれが、全く違う環境に置かれ、全く違う経験をしています。
日常の様々な経験の中で、神を信じて歩むことが出来なくってしまう時に直面することもあるでしょう。
なぜ私がこのような苦しい目に遭わなければならないのか。
神は本当に私を愛しているのか、と。
そのような疑いを持つことも、十分にありえます。
私たちが自分の力では決して打ち勝つことのできない「死」に対して、勝利された方が、
私たちの日々の歩みには全く介入できないなどということは決してない、
と私たちは信じています。
しかし、現実の苦しみが大きすぎて、その希望が見えない時は、時としてやってきます。
神が与えてくださる希望を、確信することができない時です。
目の前の現実に心を支配されて、神の与える希望が、約束が見えない。
神の介入を待ち望むことができない。
このような時、私たちはどうするべきなのでしょうか。
弟子たちとトマスの交わりは、私たちがあるべき姿を教えてくれます。
それは、一緒にいるということです。
交わりを続け、諦めない、ということです。
そして、交わりの中で神の介入を、共に待ち望むのです。
一人では、霞んでしまう希望を、交わりの中で共有し続けることによって、
私たちは強く、強くその希望を持つ者へと変えられていくのです。
そして、共に祈りながら、神の介入を待ち望み続けるのです。

【待ち望み続けた末に、イエスと出会う】
弟子たちはトマスと共に、待ち望んだことでしょう。
「わたしたちは主を見た」という言葉を、トマスも語ることが出来る日がくることを。
共に祈り、待ち望み続けた末に、彼らは八日後に、再びイエス様と出会ったのです。
イエス様は、彼らの祈りを聞き入れ、
彼らの交わりの真ん中に現れてくださったのです。
そして、イエス様は丁寧にトマスに応えたのです。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(ヨハネ20:27)
イエス様は、トマスが求めたことを、ひとつひとつ応えていくのです。
ひとつひとつ、確認するかのように。
イエス様は決してトマスを責めているわけではないと思います。
トマスが信じる者へと変えられることを願い、彼に正面から向き合ったのです。
トマスのすべての要求に応え、彼が信じることができるように。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」(ヨハネ20:27)
そして、イエス様はトマスに優しく語りかけたのです。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)
【トマスの信仰告白の背後にあったもの】
トマスの内には、もう疑う心はありません。
目の前にいるイエス様は、トマスの知っているイエス様でした。
そして、十字架に架かって死なれた方でした。
トマスのために十字架に架かったイエス様です。
人の言葉を疑い、心から信じることができないトマスのために死なれたイエス様です。
その十字架の死は、トマスだけではなく、私たちのためでもありました。
人を心から信用できず、交わりを持つことができない私たちに、
イエス様は十字架の死を通して、語り掛けられたのです。
私は、あなたの罪をすべて背負って十字架に架かる。
人を心から愛して、交わりを持つことが出来ないあなたのために。
イエス様は、十字架の死を通して、私たちに愛を示してくださったのです。
トマスは、イエス様のその傷に触れて、イエス様から与えられた愛を強く、強く知ったことでしょう。
ですから、彼はイエス様にこう言います。
「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)
トマスの信仰告白です。
この言葉を直接引き出したのは、イエス様です。
しかし、その背後に他の弟子たちとの交わりがあったことは明らかです。
トマス一人では、イエス様の復活を確信することはできませんでした。
弟子たちを通して、交わりの中に迎え入れなれなかったら、
復活されたイエス様と出会わないままだったかもしれません。
弟子たちがトマスを交わりへと招き続けたから、トマスは弟子たちと共にいることができたのです。
そして、その交わりの中で、弟子たちの祈りが彼を支え、
弟子たちとの交わりが彼の目を、イエス様に向かわせたのです。
そして、トマスは、強い確信を持って、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する者へと変えられたのです。

【私たちは、神の約束を「共に」見つめる共同体】
「わたしたちは主を見ました」という弟子たちの言葉を、トマスは信じることができませんでした。
トマスは、弟子たちと共に主イエスを見ていなかったからです。
新約聖書の時代から、2000年もの時が経っている時代に生きている私たちも、トマスと同じ問題を抱えています。
この目では、イエス様を見ることができない、という問題です。
そして、神の約束を見つめることができない。
神の介入を確信して、それを希望として見つめることができない、という問題です。
しかし、弟子たちとトマスの交わりを通して、私たちは確信するのです。
私たちは「イエスは主である」と告白する教会というこの交わりの中で、
共に主イエスを見つめるのだ、と。
私たちはそれぞれが、様々な形でイエス様と出会っています。
祈りの中で、聖書の言葉を通して、そして、日常の中で、礼拝の中で、私たちはイエス様と出会っています。
目には見えませんが、私たちは、様々な経験を通して確信するのです。
「私は、主を見た」と。
そして、そのようにイエス様と出会っている者たちが、
この場所に、教会に集められて、共に神を礼拝しています。
私たちは、主イエスと出会っている人々の集まりです。
ですから、私たちは、この交わりを通して、イエス様を見つめることができるのです。
イエス様と出会っている人々との交わりを通して、私たちは主イエスを知り、主イエスと出会うのです。
そして、この群れと共に、希望を見つめ、
この群れと共に、約束を信じる者として私たちは召されているのです。
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。(ヘブライ人への手紙11:1)
【見えないものを、共に見つめて歩む】
旧約聖書の時代、アブラハムは神の言葉を聞きました。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」(創世記12:1)
彼はこのとき「わたしが示す地に行きなさい」と言われましたが、
何処へ行くかは示されませんでした。
しかし、神を信じる信仰によって、彼は神が約束された地を見つめたのです。
信仰によって、目には見えない、神の約束を確信したのです。
しかし、彼は一人で神の約束を見つめたわけではありませんでした。
彼は、家族と共に出て行きました。
家族と共に、神の約束を見つめて、旅をしたのです。
私たちもアブラハムと同じように、
神の約束を見つめて歩む旅人として、召されているのです。
「私」という個人が、ただ一人で旅をするのではありません。
教会という群れが、「私たち」として召されているのです。
教会という群れで、私たちは、見えないものを見つめて歩んでいるのです。
神が示される、天の御国を目指す旅人として、私たちは日々歩み続けています。
それは、教会が2000年前から、今日に至るまで続けてきた旅です。
互いに支え合いながら、教会はその日々を歩み続けてきました。
私たちの教会も同じように、歩み続けてきました。
今日までそうであったように、これからも、私たちは神の与えてくださる約束の地を、共に見つめて歩んで行きましょう。
弟子たちが、トマスと寄り添って歩んだように、
弱さを覚えるときも、喜びのときも、
苦しみを覚えるときも、病のときも、
絶望するときも、涙を流す時も、
そして、死に直面するときも。
どんな時にも、私たちは共にいることを諦めず、
互いに励まし合いながら、神の約束を見つめ続けて歩んでいきましょう。
私たちは、見えないものを、共に見つめて歩む群れなのです。