しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月7日日曜日

説教#42:「主の弟子たちは、神の言葉に聞き従う」

主の弟子たちは、神の言葉に聞き従う
聖書 エレミヤ書1:4-8、マルコによる福音書1:16-20
日時 2014年7月13日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【なぜ弟子たちはすぐに従ったのか】
私たちの日常には、実に多くの言葉が溢れています。
人の集まるところでは、多くの言葉が交わされます。
家庭でも、職場でも、教会でも。
また、テレビ、ラジオ、インターネット、新聞など、
様々なメディアを通して、私たちのもとに言葉は届きます。
私たちの周りばかりではなく、私たちの内にも言葉は溢れています。
それは、自分の考えや思いであったり、誰かが語った言葉だったりします。
様々な言葉が私たちの内にも、外にも、溢れているのです。
それは、イエス様の弟子たちも、同じでした。
彼らは、いつものようにガリラヤ湖で仕事をしていました。
仕事中や、またその休憩中に、様々な話をしていたことでしょう。
天気の話、最近の仕事の状況、家庭のこと、兄弟のことなど、
そこにも言葉は溢れていたはずです。
そのような日常の中で、彼らはある言葉を聞いたのです。
「わたしについて来なさい」(マルコ1:17)
突然このような言葉を投げ掛けたら、私たちはどのような反応をするでしょうか。
見知らぬ人だったら、無視するかもしれません。
無視をしなかったとしても、相手の言葉を遮って、
なぜそのようなことを自分に言うのか、その動機を尋ねることでしょう。
そして、その動機を聞いた上で、自分に掛けられている言葉が受け入れられるものなのか、拒絶すべき言葉なのかを考えます。
私たちは日頃、見知らぬ人からこのような問い掛けを受けることはないでしょう。
しかし、自分に向かって語り掛けられる言葉が、どのようなものなのかを常に判断しながら、
私たちはそれらの言葉を聞いているのではないでしょうか。
その判断の結果、その言葉を受け入れたり、拒絶したり、聞き流したりするのです。
ですから、今日の箇所での4人の弟子たちの行動に、私は驚きを覚えます。
シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、
「わたしについて来なさい」(マルコ1:17)とイエス様から声を掛けられた時、
すぐにイエス様に従った、というのですから。
従う動機も、従うことに対する戸惑いも、ここには記されていません。
一体なぜ、弟子たちはイエス様にすぐに従うことが出来たのでしょうか。

【神の言葉により、弟子とされる】
この疑問について考える時、私たちは、弟子たちが従った動機について、
福音書記者マルコが、沈黙している理由を考えるべきなのでしょう。
つまり、ここで弟子たちが従った動機が記されていないという事実に、意味を見出すべきなのでしょう。
マルコはなぜ弟子たちが従った動機を書かなかったのでしょうか。
彼らの動機をマルコが知らなかったわけではないでしょう。
どのようにしてイエス様と出会い、イエス様の弟子として生きるに至ったのかについて、弟子たちが話さなかったわけはないでしょうから。
私たちだって、どのようにしてイエス様と出会い、イエス様を自分の救い主として信じるに至ったのかを話すことがあるのですから。
弟子たちがイエス様に従った動機をマルコが書かなかった理由。
それは、主イエスの弟子となることは、
私たちの側の動機を必要としないということを伝えるためだったからでしょう。
私たちが抱く動機が、私たちを主の弟子にするわけではないのです。
神が私たちを主の弟子として生きるように招いている。
主イエスが私たちに向かって、声を掛けている。
神の言葉によってのみ、私たちは主の弟子となるのだと、
マルコはこの物語を通して主張しているのです。
主イエスの弟子とは、神の言葉に聞き従う者なのです。

【どのような者が声を掛けられるのか】
では、イエス様に声を掛けられたこの4人は、一体どのような人々だったのでしょうか。
イエス様は、どのような人々に声を掛けたのでしょうか。
シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人は、ガリラヤの漁師でした。
ガリラヤ湖周辺に住んでいる人々にとって、漁師という職業は何も特別なものではありませんでした。
ガリラヤ湖周辺の地域の主要な産業は、塩漬けの魚を売ることでした。
そのため、ガリラヤに住んでいた彼らにとって、
漁師として生活していることは、とても普通のことだったのです。
そう、つまり、この4人はとても普通の人だったのです。
由緒正しい家に生まれたわけでもなければ、
特別な教育を受けたわけでも、
何か際立って良いことをしたわけでも、
お金持ちであったわけでも、
優れた能力があったわけでもありませんでした。
ガリラヤに住む普通の人たちにイエス様は声を掛けられたのです。
弟子にして、神の福音を伝えるという大切な使命を与えるならば、
優秀な人のほうが良いと考えるのが普通でしょう。
しかし、イエス様はそのようには考えませんでした。
神の前には、すべての人が尊い存在だからです。
優秀な者か、劣っている者か。
特別な人か、普通の人か。
お金持ちか、貧乏人かなど関係ないのです。
弟子とされた人々がどのような存在であったかが重要ではないのです。
重要なのは、神が「あなたを用いたい」と願って、
この4人の弟子たちに声を掛け、彼らを主の弟子とされた、という事実です。
そう、救いは神のわざなのです。
神が私たちを招き、恵みによって、私たちを主の弟子としてくださるのです。
救いは神のわざなのだから、私たちは何もしなくて良いのではないか、と思うかもしれません。
しかし、決してそのようなことはありません。
イエス様が「神の国は近づいた!悔い改めて福音を信じなさい」と言って宣教を始めた後、彼がすぐにしたこととは、一体何だったでしょうか。
そう、彼は弟子たちを立てられたのです。
主の弟子たちを通して、神を信じる者を通して、神は宣教を行うのです。
弟子たちと共に、イエス様は宣教を行うのです。
私たちを通して、神は神の言葉を伝えようとしています。
私たちが神の言葉を受け取り、従うその姿を通して、神は宣教を行うのです。
福音を携えて、日々、主イエスの弟子としてこの世へと遣わされている、この私たちを通して。

【聞き従うことの難しさ】
シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ。
この4人の弟子たちは、イエス様にすぐに従いました。
イエス様の言葉を聞いて、神の言葉を聞いて、それを受け入れて、すぐに従うことができました。
しかし、私たちはどうでしょうか。
日々、神の言葉に聞き従うことの難しさに直面させられています。
神の言葉を聞く時、私たちは様々な反応をします。
ありがたい言葉だ、これは良い言葉だ、と神の言葉を聞いたその時だけ喜ぶ姿。
この言葉の要求には、とても応えられない、と拒絶する姿。
わかってはいるけどできないと妥協したり、言い訳する姿。
そのような自分の姿に直面させられます。
常に神の言葉に従うのは、とても困難なことです。
私たちはいつも悩みながら、葛藤しながら、苦しみながら、神の言葉を聞くのです。
預言者エレミヤもそうでした。
彼は、預言者としての召命を受けた時、神に対してこのように言いました。
 「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)
そう、彼は言い訳をしたのです。
自分は若いから、そのようなことはできない、と。
他にふさわしい人がいるだろうという思いもあったかもしれません。
しかし、彼は神の言葉を聞いた時、神に祈ったのです。
自分は相応しくないから、このような言葉を聞く必要はないといって、神の言葉を無視することはありませんでした。
神の言葉に従えない言い訳を述べるような祈りでしたが、
それでも彼は祈ったのです。
 「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ1:6)
それは神の言葉との格闘、神の思いとの格闘でした。
神の言葉を受け入れられない自分がいるという現実を素直に受け止めて、
神にありのままの自分をさらけ出して、彼は祈ったのです。
このような神の言葉との格闘は決して悪いわけではありません。
寧ろ、このような祈りを神は喜ばれるでしょう。
この格闘を通して、神は私たちをより弟子に相応しく変えようとしているのですから。
問題は、神の言葉を聞かないことです。
聞いたのに、無視をすることでしょう。
それは神との交わりを拒んでいるのですから。
私たちは神の言葉を聞く時、自分の思いを神に伝えると良いのです。
エレミヤのように、祈りを通して、
神の言葉と、神の思いと格闘することが許されているのですから。
祈りの結果として、エレミヤには彼を支え続ける言葉が与えられました。
恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す(エレミヤ1:8)
祈りの中で与えられた神の言葉に支えられながら、エレミヤは歩み始めたのです。
神の約束に信頼して、彼は預言者としての道を歩み始めたのです。
このように、主の弟子とは、神の言葉に従い続けて歩む者です。
すぐに従えるとは限りませんが、
神の言葉を真摯に受け止めて、祈りの中で、信仰の葛藤の中で、
神の言葉を受け入れ、従っていく者なのです。
私たち一人ひとりも、そのような者として生きるように、
主の弟子として生きるようにと、神から招かれているのです。

【主の弟子として生きる】
神は、主の弟子である私たちに日々語りかけてきます。
「わたしについて来なさい」と。
そして、従ってくるすべての者たちに語り掛けるのです。
わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(マルコ8:34)
主イエスに従う弟子たちの生き方とは、
自分の十字架を背負って従うことだとイエス様は言うのです。
それは、自分の与えられている命をかけて神に従うということです。
神の言葉に従うとは、日曜日限定の生き方ではないのです。
全生涯をかけてするように招かれている歩みなのです。
それは、主イエスと苦しみを共にすることです。
それは、すぐ側で悲しんでいる人に手を差し伸べ、祈ること。
「人間をとる漁師」として、喜びの福音を伝えること。
人の罪に支配されている場所に、神の愛をもたらそうとすること。
憎しみのある場所に、和解と平和をもたらそうとすること。
そして、神の御心を祈り求めることです。
神の言葉が私たちを促して、どのような形で従うべきかを示すことでしょう。
どうか、その時が来た時、神に示されたものを自分の十字架として受け取って、
神に従って歩むことができますように。