しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月8日月曜日

説教#43:「主イエスがもつ権威」

主イエスがもつ権威
聖書 エレミヤ書1:4-8、マルコによる福音書1:16-20
日時 2014年7月20日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【イエスの教えに対する驚き】
イエス様は、他のユダヤ人たちと同じように、旧約聖書に記されている律法を守っていました。
ですから、安息日になると、イエス様は会堂へ行き、神を礼拝していました。
今日の箇所で、イエス様は会堂で人々に聖書を教えています。
当時、成人した男性であれば誰でも、会堂で聖書を説き明かす資格があったようです。
そのため、他のユダヤ人男性と同じように、イエス様にも会堂で聖書を説き明かす機会が与えられたのです。
イエス様が教え始めると、それを聞いていた人々は驚きを覚えたそうです。
他の人々の語る教えとは異なる、イエス様の教えに、その場にいた人々は驚いたのです。
その様子をマルコはこのように記しています。
人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。(マルコ1:22)
イエス様の教えが、他のユダヤ人男性の教えと異なっていた点は、
「律法学者のようにではなく、権威ある者として」、人々に教えたことでした。
権威とは、何かをするための権利や力のことです。
人々は、聖書の博士や、専門の解釈者である律法学者のように、会堂で聖書を教えていました。
彼らが律法学者のように語ったのは、神の言葉である聖書に権威を認めていたからです。
聖書の権威によって、彼らは会堂で教えたのです。
それに対して、イエス様は「律法学者のようにではなく、権威ある者として」教えた、というのです。
神の言葉である聖書に、イエス様は権威を認めていなかったというわけでは決してありません。
イエス様は神の子ですから、イエス様の語る言葉は、神の言葉です。
ですから、彼が権威ある者として教えたということは、とても自然なことでしょう。
しかしこの当時の人々は、まだイエス様が神の子であるという認識はありません。
だからこそ、人々はイエス様の教えを聞いて、驚いたのです。
イエス様の教えは、権威ある者が、権威をもって語っているように聞こえたのですから。

【汚れた霊につかれた男の叫び】
しかしこの時、それ以上に驚くべき出来事が起こりました。
その出来事は、ある一人の男性がこのように叫ぶことから始まりました。
「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」(マルコ1:24)
この男性の叫び声は、イエス様の教えを中断させました。
人々の目は、叫んでいるこの男性に向けられました。
この男性について、マルコは「汚れた霊にとりつかれた男」と書いています。
この当時、汚れた霊は、人々を支配し、気を狂わせると考えられていました。
このような「汚れた霊」にとりつかれた人々は、通常、会堂での礼拝に参加することは許されていませんでした。
ですから、この男性も当然、礼拝に加わることが許されていませんでした。
それにも関わらず、彼は会堂に入って来たのです。
しかし、神を礼拝する場所である会堂に入れたのは良かったのですが、
汚れた霊が、彼を神との交わりから遠ざけたのです。
それだけでなく、この汚れた霊は彼を苦しめ、彼の気を狂わせていたのです。
このような彼の姿を見て、そこに居合わせた人々の内に混乱が生じたことでしょう。
心配するどころか、彼を煙たがり、彼を拒絶した人々もいたことでしょう。

【安息日の喜びと正反対の出来事】
ところで、この出来事はいつ起こったのかと、マルコは書いているでしょうか。
21節を見てみると、この出来事は、安息日に起こった、ということがわかります。
安息日とは、神から与えられている平安を喜ぶ日です。
その日は、日常的なわずらいと心配から解放され、安息を許される日です。
この世界を造られた神のわざを思い起こし、
神に造られた一人の人間としての存在を喜ぶ日です。
そして、エジプトにおける奴隷状態からの解放を思い起こし、感謝をする日です。
神に愛されている者として、互いに愛しあい、この日を、安息日を喜ぶように私たちは招かれています。
しかし、神から与えられている安息を思い起こすように招かれているこの日に、
神の言葉が語られている会堂で、
この男性は、汚れた霊に取りつかれていたため、安息を失い、苦しんでいたのです。
安息日の喜びとは、正反対の状況に彼は追い込まれていたのです。
そして、人々は汚れた霊に取りつかれた男性のために何もできず、
そこには平安はありませんでした。
人によっては、彼を拒絶し、彼を煙たがっていました。
苦しんでいるこの人を愛せない。
この人のために祈れない。
そのような人々の姿が、その背後にあったことでしょう。
マルコがそのようなことを書いていないことからすると、
その場にいた人々は、汚れた霊に取りつかれたこの男性にたいして、
無関心でいたのかもしれません。
自分とこの人とは関係ない。
早く出て行ってくれ、といった具合に。
まさに、安息日に、この会堂で起こった出来事は、
神が願う安息日のあり方とは、正反対のあり方だったのです。
神との交わりがない。平安がない。
安息がない。解放がない。
喜びがない。愛がない。という具合に。

【私たちを神との交わりから遠ざけるもの】
この男性に起こったこと、そしてこの会堂に起こったことは、
何時の時代にも起こり得ることである、ということを忘れてはいけません。
そう、今の時代にもです。
もちろん、汚れた霊に取りつかれることは、ないでしょう。
しかし、この出来事は、私たちに起こり得ることなのです。
汚れた霊によって、この男性の身に起こったこと。
それは、神との交わりから、彼を遠ざかることでした。
彼は、安息日を喜べず、安息を失い、苦しんでいたのです。
人々から拒絶され、愛を受けることができませんでした。
これらのことは、汚れた霊のみが起こすことではありません。
原因は様々です。
私たちの罪が原因となることも、私たちの弱さが原因となることもあります。
また、置かれている環境に原因があることもあれば、
病気や怪我をしたり、時には原因がわからないこともあります。
私たちの身に起こる多くのことは、自分の力ではどうしようも出来ない物事の方が多いことでしょう。
何とかしたいとはわかっていても、
神との交わりから、遠ざかる自分。
安息日を喜べず、安息を失い、苦しむ自分がいるのです。
そしてそれは神と自分との関係だけに留まりません。
会堂の中の人々との関係にも広がっていくのです。
自分の周囲の人々を愛せない。
自分に都合の悪い人は拒絶する。
当時、この会堂の中で起こったことは、
私たちの日常にも、確実に起こり得ることなのです。

【「黙れ。この人から出て行け」】
イエス様は、このように苦しむ私たちの姿を見て、私たちを放っておく方でしょうか。
そのような方では決してありません。
イエス様は、汚れた霊に取りつかれて、目の前で苦しんでいる男性を見つめて、
彼の抱える問題に向き合われたのですから。
イエス様は、それまで語っていた教えを中断して、
彼に取りついている「汚れた霊」に向かってこう言われました。
「黙れ。この人から出て行け」(マルコ1:25)
すると、どうでしょうか。
「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」(マルコ1:26)というのです。
イエス様の取られた方法とは、彼を叱ることだけでした。
「黙れ。この人から出て行け」(マルコ1:25)
この出来事は、イエス様の教え以上に、人々に驚きを与えました。
というのも、イエス様は、言葉だけで、汚れた霊を追い出したのですから。
人々は互いに論じ合いました。
「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」(マルコ1:27)
その場にいた人たちの驚きが伝わってきます。
まさに、この出来事を通して、イエス様に権威があるということが、人々の前に明らかになったのです。
このように絶対的な権威をもつイエス様が、私たちの歩みを導いておられるのです。
イエス様は、私たちを見捨てず、私たちに関わり続けてくださるのです。

【主イエスがもつ権威】
イエス様が私たちに関わる方法とは、時に優しく、また時に厳しくもあります。
「黙れ。この人から出て行け」(マルコ1:25)
というイエス様の言葉は、とても厳しい言葉です。
この言葉は、神と私たちの交わりを遠ざけるものに対して向けられています。
私たちは、神と私たちを遠ざけるものにこそ、愛着を示すことかがあります。
だからこそ、イエス様は強く、権威を持ってこの言葉を語るのでしょう。
イエス様のもつ権威は、かつて神が、預言者エレミヤに与えた権威以上のものです。
神は、エレミヤにこのように語りました。
見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊しあるいは建て、植えるために。(エレミヤ1:10)
イエス様のもつ権威は、まさに諸国民、諸王国に対する権威でした。
イエス様はこの権威を神から委ねられたのではなく、
神の子であるイエス様自身が持っていました。
イエス様は、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」、
権威をもって人々に語り、そして行動されたのです。
「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために」、
イエス様はこの世に来られ、宣教されたのです。
人々の罪やこの世界の悪を「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」するために。
それは、この世界に神の国を建て、
人々の心に、互いに愛し合う心を植えるためでした。
私たちには自分の力ではどうしようも出来ない問題が数多くあります。
私たちが抱える様々な問題に対して、イエス様は権威をもって関わってくださいます。
ですから、イエス様に信頼しましょう。
イエス様は、権威をもって、私たちを導こうとされているのですから。
神が私たちに権威をもってなさろうとしていることを、素直に喜んで受け止めましょう
それは、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊」するものかもしれません。
しかし、本質的には、私たちを「建て、植えるために」なされることであると信頼しましょう。
私たち一人ひとりを「建て、植えるために」。
私たちの教会という交わりを「建て、植えるために」。
主イエスは権威をもって、今も私たちに語り掛けておられるのです。
ですから、喜びをもって、主イエスの言葉に従いましょう。