しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月9日火曜日

説教#44:「その背後に主イエスの祈り」

『その背後に主イエスの祈り
聖書 マルコによる福音書1:29ー39、イザヤ書55:8ー9
日時 2014年7月27日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【多忙な安息日】
この日は、イエス様にとって、とても忙しい一日でした。
というのは、21節から34節の出来事が、
朝起きてから、夜眠るまでの間に起こったのですから。
イエス様と弟子たちは、カファルナウムに向かい、会堂で神を礼拝しました。
イエス様はそこで、聖書を教えるように頼まれたので、会堂に集まった人々に聖書を教えました。
汚れた霊に取りつかれた男性が会堂に入ってきたのを見ると、イエス様は汚れた霊を彼から追い出されました。
礼拝が終わると、イエス様は弟子たちと一緒にすぐに会堂を出て、
シモンとアンデレの家へ向かいました。
家に着くと、シモンの姑が熱を出して寝込んでいたので、
イエス様は彼女の病気を癒します。
その後、熱がひいたシモンの姑や弟子たちと一緒に夕飯を食べながら、その日に起こったことを振り返り、
イエス様は充実感と心地よい疲れを感じたことでしょう。
しかし、この日、イエス様はこのまま眠るわけにはいかなかったのです。
日が暮れると、たくさんの人々がイエス様を訪ねて、シモンの家にやってきたのです。
その様子を、マルコはこのように記しています。
夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。(マルコ1:32)
会堂でイエス様が起こした奇跡の噂を聞いて、人々はイエス様を尋ねてきたのです。
安息日に労働をすることは禁止されていたので、
人々は罪に定められることのないように、日が暮れてからイエス様のもとへ行きました。
当時は、日が沈んでから一日が始まったからです。
つまり、日が沈んで、安息日の翌日になってから、人々はイエス様を訪ねたのです。
早く癒されたい、早く悪霊から解放して欲しいという思いから、
日が暮れたらすぐ、イエス様のいるシモンの家を目指して人々は出かけたことでしょう。
まさに、癒しを求める、町中の人たちが、家の前に集まったのです。
自分を尋ねてきた人々に向かって、イエス様は、
「今日はもう疲れたから休ませてくれ」などとは言いませんでした。
イエス様は集まった人々と誠実に向き合い、
彼らの病気を癒し、悪霊を追い出されました。
ですから、イエス様はこの日、相当疲れを覚えたはずです。

【主イエスの祈り】
そんなイエス様が翌朝取った行動は、
疲れたからゆっくり身体を休めることでも、
今日もたくさん来るであろう人々を家の前で待つことでもありませんでした。
イエス様は、翌朝まだ暗いうちに起きて、人里離れたところへ出て行き、祈ったのです。
今、自分に一番必要なことは祈りである、とイエス様はわかっていたのです。
祈りは、父なる神との対話です。
ですから、祈りは、イエス様の生涯とその働きににおいて、最も重要なものでした。
イエス様は、神の力と導きを求めて祈ったのです。
ストレスを感じるときも、誘惑を受けたときも、喜びのときも、
悲しみのときも、決断のとき、どのようなときも、
イエス様は神の力と働きを祈り求めたのです。
すべてを知り、すべてを支配しておられる神に対する、絶対的な信頼をもって、
イエス様は祈り、この日の働きを始めようとしたのです。
イエス様は、様々なことを祈ったことでしょう。
神への感謝や賛美。
一緒に宣教活動を行っている弟子たちのために。
そして、これまで出会った人たちや、
これから出会う人たちのためにも祈ったことでしょう。
祈っているものごとを、すべて神の御手に委ねて、
神が正しく導いてくださると信じ、祈りを捧げたのです。
まさにイエス様と弟子たちの、日々の働きの背後には、イエス様の祈りがあったのです。

【「みんなが捜しています」】
このように、イエス様が祈っていると、シモンが他の弟子たちと一緒にやってきました。
彼らはイエス様を見つけると、イエス様に向かって言うのです。
「みんなが捜しています」(マルコ1:37)
福音書を読むと、人里離れたところへ行って祈るイエス様の姿が度々描かれています。
ですから、このように早朝に祈ることは、イエス様の習慣だったのでしょう。
そのため、イエス様と一緒に過ごしていた弟子たちは、イエス様のこの習慣を知っていました。
ですから、ここで言われている「みんな」とは、イエス様の噂を聞いて集まってきた人々のことです。
一夜明けても、イエス様の宿泊していたシモンの家に集まって来る人々はまだいたようです。
イエス様に悪霊を追い出して欲しい人々、病気を癒して欲しい人々が、まだたくさんいたのです。
ですから、シモンは急いでイエス様を呼びに来て、言ったのです。
「みんなが捜しています」(マルコ1:37)
これは、「癒されるべき人はたくさんいるのに、あなたはなぜここにいるのですか?」
という意味が込められた言葉でしょう。
そう、イエス様に対する批判のこもった言葉です。

【私たちから祈りを取り去るもの】
これは、イエス様にとって、実に、誘惑の伴う言葉でした。
というのは、祈ることよりも、彼らの言葉に応えることを優先する方が、
人々から好感を得ることが出来るし、
目に見えて、自分の働きの成果を実感できたからです。
しかし、イエス様はきっと、こうなることはわかった上で、早朝から祈りに行ったのだと思います。
宣教のためには、祈りが必要だと知っていたから、イエス様は祈りを優先させたのです。
イエス様のこのような姿勢から、私たちは、まず優先すべき物事が何なのかを知ることができます。
それは、私たちの歩みを日々導いてくださる、主なる神に祈ることなのです。
それは、神の働きに目を向けて、神のなされるわざに期待することです。
しかし、私たちの周りには、私たちから祈りを奪おうとするもので溢れています。
私たちは、あまりにも簡単に神から目を背けてしまうのです。
目に見える物事のみを見つめて、目に見えることにばかりに時間を割く誘惑が、常にあります。
神との交わりを第一とせず、今目の前に起きていることのみに集中してしまうのです。
しかし、私たちは知るべきです。
祈りをやめるということは、神の思いは何なのかを問うことをやめることである、と。
祈らないことは、神との交わりを拒絶していることである、と。
それは、今、目の前に起きている出来事に、神の計画があるという事実に目を背け、
全ての物事を自分で支配しようとする姿なのです。
旧約聖書のイザヤ書に、このような言葉があります。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているようにわたしの道は、あなたたちの道をわたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。(イザヤ書55:8ー9)
これはこうあるべきだ、と思うことは数多くあると思います
しかし、私たちがこうあるべきだ、と思うことが、
一体どれほど正しいといえるのでしょうか。
パウロは言います。
「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)と。
完璧な人間などいませんから、私たちはあまりにも簡単に過ちを犯します。
失敗を繰り返します。勘違いだってよくあります。
だからこそ、神が私たちを正しく導いてくださることを祈り求めるべきなのです。
主は言われます。
わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる(イザヤ55:8)
このように言われる神の前に、ひれ伏し、祈るようにと招かれています。
イエス様は、神の導きを求めて祈りました。
ですから、私たちが祈りを必要としないわけがないのです。

【その背後に、主イエスの祈り】
しかし、そうはいっても、いつも祈れるわけではないでしょう。
祈れないときもあれば、祈れない事柄もあります。
ストレスを感じるときも、誘惑を受けたときも、喜びのときも、
悲しみのときも、決断のとき、どのようなときも、
神の力と働きを祈り求めたいという気持ちがあったとしても、
それが出来ない弱さを誰もがもっています。
そんな私たちの弱さを知っているから、イエス様は私たちのために祈られるのです。
イエス様は私たちのために祈り続けておられるのです。
そう、私たちの日々の歩みのその背後に、イエス様の祈りがあるのです。
イエス様は、私たちの言葉にならない思い、うめき、叫びを聞いてくださいます。
そして、苦しみを知っていてくださいます。
その上で、私たちが、神の計り知れぬ計画へと導かれるように願い、
私たちのために、イエス様はとりなしの祈りをし続けているのです。
私たちの歩みの背後に、主イエスの祈りがあるのです。