しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月12日金曜日

説教#47:「喜びの食卓への招き」

喜びの食卓への招き
聖書 マルコによる福音書2:13-17、ホセア書1:1-2:3
日時 2014年8月31日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【取税所に座るレビ】
「わたしに従いなさい」(マルコ2:14)。
イエス様は通りがかりに、収税所に座る男を見つめ、彼に声を掛けました。
声を掛けられたその男の名前は、レビ。
彼は徴税人として働いていました。
イエス様の時代の徴税人は、不正にお金を取り立てていたため、人々から嫌われていました。
それだけでなく、彼らは職業上、異邦人と接する機会も多かったため、
汚れた者とみなされ、人々からのけ者にされていたのです。
そんな彼が、イエス様から声を掛けられたのです。
「わたしに従いなさい」と。
なぜレビは、イエス様に従ったのでしょうか。
その理由について、福音書記者マルコは何も書いていません。
というのは、この場にいた多くの人々にとって、それよりも重要な問いがあったからです。
それは、「なぜ徴税人のような罪人にイエス様は声を掛けたのだろうか」というものでした。
あんな奴ではなく、イエス様の弟子としてもっと相応しい人間がいるではないのか。
徴税人レビが声を掛けられる光景を見た人々は、そのように考えたことでしょう。

【ファリサイ派の律法学者たちからの批判】
イエス様は周囲の声など気にすることなく、
弟子となったレビの家へと行き、一緒に食事をします。
この食事の席にいた人々について、マルコはこう記しています。
多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。(2:15)
徴税人や罪人と一緒に食事をする。
イエス様のこの行動は、ファリサイ派の律法学者たちの批判の的となりました。
イエス様がレビの家で罪人や徴税人たちと食事をしているのを見て、
彼らはイエス様の弟子達に尋ねたのです。
「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マルコ2:16)
そう、彼らにはどうしてもイエス様の行動が理解できなかったのです。
というのも、誰かと一緒に食事をするということは、
自分が一緒に食事をする人々と同じ者になるということを意味していたからです。
つまり、徴税人や罪人と一緒に食事をすると、
一緒の食事をした者まで、そのような者とみなされるわけです。
あいつは、神の律法を守ることのできない、徴税人や罪人たちの仲間だ、といったように。
イエス様のとった行動は、ファリサイ派の律法学者たちにとって理解できないものだったのです。

【イエス様は罪人を招くために来た】
このような疑問をもつ律法学者たちに、イエス様はこのように答えました。
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
医者を必要とするのは、病人である。
これは当然のことです。
イエス様は、「医者を必要とするのは、病人である」という言葉を、
あからさまに応用して、言われたのです。
「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために私は来た」と。
そう、まさにイエス様が一緒に食事をしている人々に救いをもたらすために、イエス様は来られたのです。
しかし、ひとつの疑問が残ります。
イエス様はここで、罪人を招くために来た、と言っています。
ということは、神の律法を守って生きる正しい人々は、イエス様から招かれていないのでしょうか。
神の律法を守り、自分たちは正しいと思っていた律法学者たちは、
イエス様から招かれていなかったということなのでしょうか。
「あなたたちのために私は来たのではない」とイエス様は彼らに向かって言っているのでしょうか。
いえ、決してそうではありません。
イエス様はそのようなことを伝えるために、このように言ったのではありません。
イエス様は、ファリサイ派の律法学者たちの考え方を批判しているのです。
それは、正しい者と、罪人という線引きをして人を見ることです。
ファリサイ派の律法学者たちは、自分たちは正しい者たちで、徴税人たちは罪人だと考えていました。
しかし、このような線引きをすることこそ、彼らの問題でした。
だからこそ、イエス様は彼らにこのように語り掛けたのです。
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ2:17)
この言葉を通して、イエス様は私たちに語り掛けてきます。
一体何処にすべての点で正しいと言える人がいるのか、と。
そう、そのような人はいません。
「正しい者はいない。一人もいない」(ローマ3:10)のです。
律法学者たちは自分たちは正しいと思っていました。
しかし、確かに彼らの内にも罪があったのです。
人を差別し、軽蔑する心。
そして、排除する言葉や行動。
それらのものが、彼らの内に渦巻いていたのです。
だから、イエス様は来られた、と言うのです。
罪人を招くために。罪に苦しむ、すべての人々を招くために。
イエス様は私たちに向かってこのように言われるのです。
あなたを招くために、私は来た。
あなたのために、私は来たのだ、と。

【どんな席に座っているか?】
そんなイエス様が、レビに言われたのです。
「わたしに従いなさい」と。
この言葉を聞いて、イエス様に従ったレビに注目して、この物語を読み返す時、
レビが座っている席が違うということに気付かされます。
そう、レビは取税所の席から立ち上がり、イエス様のいる食卓の席に座っているのです。
レビは取税所の席に座っていました。
彼が座っていた席。
そこは自分の利益のために、人々からお金をだまし取るようなところでした。
そして、そこは人々から罪人と見倣され、人々から嫌われて生きるところでした。
そのようなレビが、イエス様に声を掛けられ、イエス様のいる食卓の席に座ったのです。
ここに劇的な変化があります。
レビは、自分の利益のために収税所の席に座るのではなく、
他の人々と食事を分かち合い、共に喜ぶ食卓の席に座っているのです。
それは「わたしに従いなさい」という、イエス様の招きによって起こりました。
彼が座っている食卓の席は、彼がかつて座っていた収税所の席のようなものではないのです。
取税所に座っている時、レビは人々から罪人と呼ばれ、人々からのけ者にされていました。
しかし、イエス様に招かれて食卓の席に座っている今、レビは罪人とは呼ばれないのです。
その食卓は、義人や罪人という区別のない席なのです。
自分の置かれている立場など関係なしに、共に食卓での交わりを喜べる席にレビは招かれたのです。
そして、レビがこの食卓に招かれたように、ファリサイ派の律法学者たちも招かれているのです。
自分の基準に合わない人たちを排除するような食卓ではなく、
すべての人々と食事を楽しめる、イエス様のいる食卓に、彼らも招かれているのです。
イエス様からの招きを受ける時、私たちはその存在のあり方を新しくされてます。
ホセア書で、「ロ・アンミ」=「わが民でない者」と呼ばれていたイスラエルの人々が、
「アンミ」=「わが民」と呼ばれるようになったように。

【私たちが座るべき席~喜びの食卓】
この物語を通して、私たちはどの席に座るのかを問われています。
あなたは今、どの席に座るのですか、と。
他者から奪い、自分の利益を追い求めて座る収税所の席でしょうか。
人々を排除し続ける、ファリサイ派の律法学者たちの席でしょうか。
そこは、徴税人や罪人たちをのけ者にし、自分たちが「正しい」と呼べる人とだけ一緒に食事をする席です。
それとも、他者と共に分かち合って生きるイエス様のいる食卓の席でしょうか。
イエス様は「わたしに従いなさい」と言って、私たちを招き続けておられます。
そうやって、私たちはイエス様の食卓へと招かれているのです。
そこには喜びがあります。
この世の価値観に左右されない自由があります。
自分が手にしたものを独り占めをするのではなく、それを分け与える愛情がそこにはあります。
そして、そこはこの世が設ける様々な線引きを乗り越えていく場所です。
そのような食卓へと私たちは招かれているのです。
そのような食卓は不完全かもしれませんが、
教会というかたちで既に私たちのものとして与えられています。
そして、これに勝る喜びのある食卓が、将来私たちに与えられるのだと約束されています。
その希望を望み見て、私たちは歩んでいきましょう。
この食卓での生き方が、教会の中だけのものではなく、
私たちが遣わされていく場所においても実現されることを願いつつ、
それぞれの場所へと出て行きましょう。