しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月13日土曜日

説教#48:「きょう、神の言葉に聴き従う」(日大KGK夏合宿#1)

きょう、神の言葉に聴き従う』(日大KGK夏合宿#1)
聖書 創世記1:1-2:3、ヘブライ人への手紙1:1-4, 3:7-15
日時 2014年9月1日(月) 日大KGK合宿
場所 奥多摩バイブルシャレー


【導入:聖書は、神の言葉「である」 / 「となる」】
毎週日曜日、世界の各地で必ず読まれる書物があります。
それは、聖書と呼ばれる、このぶ厚い書物。
イスラエルという小さな民族の歴史と信仰が記されている旧約聖書と、
2000年前のイエス・キリストの出来事と、その後の教会の歩みが記されている新約聖書。
教会はこの書物を「Holy Scripture」、「聖なる書物」と呼び、
今日まで、読み続けてきました。
私たちは、この書物を一体なぜ読むのでしょうか。
ためになることが書いてあるからでしょうか?
教養としてですか?
何かよくわからないけど、かっこいいから?
親がクリスチャンで、小さな頃から読めと言われているから?
きっと様々な答えが返ってくるでしょう。
しかし、この問いに対して、教会はひとつの確固たる答えを持ち続けてきました。
「聖書は神の言葉である」と。
そして、信仰者たちは、聖書の言葉が、神の言葉となる経験をしてきたのです。
私たち人間がわかる文字で書かれ、人間の言葉で記されているこの聖書の言葉が、
神の言葉となり、神の声となる。
そのような経験を積み重ねてきた教会は、今日も、確信をもって宣言するのです。
「聖書は神の言葉である」と。

【語り続ける神】
ヘブライ人への手紙は、このような言葉から始まります。
神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:1-2)
ヘブライ書の1:1-4は、新約聖書の中でも特に優れた文体で書かれています。
そして、1ー4節をギリシア語で読むと、ひとつの文になっていることがわかります。
とても長い文ですが、その中心となっているのは、「神は私たちに語った」という言葉です。
「神は私たちに語った」というこの言葉を軸に、
著者は、実に見事に、聖書の描く救いの歴史をコンパクトにまとめています。
著者は旧約聖書の時代について語ることによって、神がどのような御方なのかを示すことから始めます。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られた」と。
そう、著者によれば、神は語り続ける御方なのです。
そして、かつて先祖たちに様々な方法で語られたこの神が、私たちに語ったのです。
旧約聖書の時代、様々な方法で人々に語ったこの神が、
今も私たちに語り続けていることを示すことから、ヘブライ書は始まるのです。

【神の言葉を聞く存在】
では、なぜ神は語り続けたのでしょうか。
それは、私たち人間が、神の言葉を聞く存在として造られたからです。
創世記1章は、その事実を詩によってうたうことで、神の創造のわざを高らかに賛美しています。
私たち人間だけでなく、この世界のすべてのものは、
神が語り掛けることによって、存在するようになったと、聖書はそのはじめに語るのです。
神が語りかけた最初の言葉は、創世記1章3節に記されています。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。(創世記1:3-4a)
「神が語りかけると、そのようになる」。
そして、神が造られたそのすべてが「良かった」、ということが、
創世記1章で繰り返し語られています。
神が、「光あれ」と語り掛けると、光が存在するようになり、
「地は草を芽生えさせよ」と語り掛けると、草花が地に広がる。
また、「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」と語ると、
その通りになりました。
神の語り掛けによって、それまで存在していなかったものが、存在するようになったのです。
まさに、神の言葉がすべてのものの存在の根拠である、と創世記1章は宣言しているのです。
そう、それは神の言葉を聞く存在としての招きです。
私たち人間も、神の言葉によって創造されました。
神から語り掛けられる存在として、私たち人間は造られ、神に「良い」と言われる存在として造られたのです。
ですから、神は人々に語り続け、今も聖書を通して語り続けておられるのです。

【神は様々な方法で愛を伝える】
しかし、旧約聖書の時代に神が語り続けた理由は、
私たち人間が神の言葉を聞く存在として造られたから、という理由だけではありませんでした。
神は、預言者たちによって、さまざまな方法で語られた、とヘブライ書の著者は語ります。
時に、直接語り掛け、
時に、預言者を通して語り掛け、
時に、天使や幻、夢によって啓示を与え、
また時に、動物の犠牲という象徴を通して、神は人間に語り掛けました。
なぜ、神はこのような様々な方法で、人間に語る必要があったのでしょうか。
その理由は、言葉にしてみると非常にシンプルなものです。
神が私たち人間を愛しているから。
私たち人間を愛しているから、実に様々な方法を用いて、神は人々に語り掛けたのです。
私たちも、愛する人には様々な方法で愛を伝えようとすることでしょう。
この口で「愛してるよ」と語るだけでは満足できません。
表現を変えてみたり、贈り物をしたり、時間を割いたり、
どこか素敵な場所へ連れて行ったりと、
実に様々な方法で、私たちは愛する人に、愛する思いを伝えようとします。
今の自分に出来る限りの方法で、精一杯、伝えようと願うことでしょう。
神は私たちと同じように、いや私たち以上に、様々な方法で語り掛け、愛を伝える方です。
神は私たちに対する愛に溢れる方です。
ですから、神は様々な方法で私たちに語り掛けたのです。

【「聞かない」という罪】
しかし、神が愛なる方である、ということのみが、理由ではありません。
神がこれほどまでに多くの方法で語られたのは、
私たち人間が深刻な問題を抱えていたからです。
それは、私たちが神の言葉を聞かないから。
私たちが、神の言葉を、神の言葉として聞かないから、神は語り続けたのです。
「聞かない」ということは、なぜ深刻な問題なのでしょうか。
「聞かない」ということ。
それは、相手の存在を無視すること、否定することです。
語りかけてくる相手の言葉を聞かないことによって、
私たちはその人の人格を否定することが出来てしまうのです。
「聞かない」ことは、相手の存在をむなしくする宣言なのです。
「聞かない」ということによって、私たちは目の前にいる相手を否定しているのです。
ですから、神の言葉を「聞かない」ということは、神との交わりを拒否する姿といえるでしょう。
神の言葉を聞く存在として造られた、私たち人間が抱える深刻な問題。
それは、神の言葉を「聞かない」という罪なのです。
しかし、そんな私たち人間を見て、神は交わりを諦めることはありませんでした。
神は、それでも愛そうと決断し続けてくださったのです。
それでも神は私たち人間を愛し、私たちと関わりを持とうとし続けたのです。
だから、神は、様々な方法で語り続けたのです。
神の語り掛ける言葉のその背後には、私たちに対する神の愛があるのです。
たとえ、それが厳しい裁きを含む言葉だったとしても、
その根底には、神の愛が豊かに溢れているのです。
しかし、旧約聖書に記されている歴史が示しているのは、
神がどれほど語り掛けても、神の言葉を聞かず、
他のものにばかり耳を傾け、心を奪われ、罪を犯し続ける人間の姿でした。
神がいくら語り掛けても、人々に真の救いをもたらすことができなかったのです。
私たちはこのような現実に絶望しなければならないのでしょうか。
そんなことは決してないと、ヘブライ書の著者は確信しています。
絶望的な状況の中に、確かに希望の光が有る。
「光あれ」とこの世界に語りかけた神は、救いを与えてくださったと確信しているのです。

【主イエスが遣わされた】
では、救いはどのような形で私たちのもとに来たのでしょうか。
著者は語ります。
(神は、)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。(ヘブライ1:2)
御子とは、イエス様のことです。
神は、イエス様によって語ることで、真の救いを私たちにもたらした、と著者は語るのです。
ここで、「この終わりの時代」という表現があります。
これはイエス様がこの世に来られた後の時代を示す表現です。
初代教会の人々の確信が、この表現には込められています。
イエス様が世に来られたことによって、世界の転換期が始まったという確信です。
イエス・キリストこそ、私たちの救いであると告白するすべての人々にとって、
イエス様が来られたその時が、時代の転換点となったのです。

【御子とは、どのような方なのか】
では、私たちに救いをもたらした方は、どのような方なのでしょうか。
著者は、この疑問に答えるように、2節の後半から、キリスト論を展開しています。
神の御子、イエス・キリストがどのような方なのかを示すのです。
彼はこう語ります。
神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました。御子は、天使たちより優れた者となられました。天使たちの名より優れた名を受け継がれたからです。(ヘブライ1:2b-4)
4節は、御子と天使を比較しています。
天使も、御子も、どちらも神から遣わされる者です。
ここでは、神の子であるイエス様こそ、私たちに救いをもたらす方であるという確信を、
天使と御子を比較することによって、強調しているのです。
ヘブライ書の序文である1-4節を丁寧に見ていくと、
この序文の構造そのものが、神が遣わされた御子なる「主イエスを見つめよ」と語っていることに気付きます。
「Let us FIX our eyes on Jesus」。
私たちの目をイエスに固定し続けようではないか、と。
主イエスを見つめ続けることによって、私たちはこの世界の歴史の中に、ひとつの放物線を描くことができます。
それは、このようなものです(スライド参照)。
2節後半から3節で、イエス様がどのような方であるかを紹介することによって、
著者は、読者の頭の中にひとつの大きな放物線を描くのです。
御子とは、誰なのか。
彼は、神のもとにいる者。
彼によって、世界は創造された。
神は、彼を天から地上へと遣わした。
そして、御子は、「人々の罪を清め」るために、十字架に架かり、
復活した後、「天の高い所におられる大いなる方の右の座に」座る。
御子である、イエス様を見つめ続けることによって、歴史の中にひとつの大きな放物線がこのように引かれるのです。
イエス様を見つめ続けることによって、私たちは、神の創造のわざを思い起こし、
自分がどのような存在として造られたのかを思い起こすのです。
イエス様の地上での生涯、そして十字架と復活の場面を思い起こし、
イエス様がどのようにして私たちに救いをもたらそうとされたのかを思い起こすのです。
神の言葉を聞かない私たちのために、イエス様は十字架にかかり、私たちの罪を赦し、
私たちと神との交わりを回復してくださいました。
そして、イエス様は天に昇ったのです。
私たちの目を神へと向けるために。
どこへ向かって歩んでいるかを示すために。
そう、私たちが天の御国へと向かう旅人であることを思い起こすために。
ヘブライ書の著者は語るのです。
この方を見つめ続けなさい、と。
主イエスを通して、神の語り掛ける声を聞きなさい、と。

【きょう、神の言葉に聞き従う】
しかし、ただイエス様を見つめ続ければ良いわけではありません。
ただ、神の言葉を聞けば良いわけではありません。
私たちは神との関係を、心の問題におさめるわけにはいかないのです。
ですから、著者は3:7-8で詩編95篇を引用することによって、警告するのです。
だから、聖霊がこう言われるとおりです。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない。(ヘブライ3:7-8) 
イスラエルの人々は、荒れ野の旅において、神の声を聞いて歩みました。
神の声を聞くことは、彼らの生活のすべてと結びついていました。
ですから、「きょう」、神の声を聞くようにと招かれているのです。
「きょう」、神の声を聴いて歩むことは、詩編がうたわれた時代も、
ヘブライ書が語られた時代も、
今の時代も、そう、いつの時代も変わることなく、重要な問題です。
イスラエルが約束の地を目指して旅を続けたように、
私たちも、天の御国を目指す旅を続けているのですから。
ですから、聖霊は、「きょう」、神の声に聴き従えと言われるのです。
それは、どのような時も、どのような状況の中にあっても、神の言葉に聞き従うようにとの、神の招きです。
神の声を聞くのは、礼拝のときだけではありません。
聖研の時だけでも、祈り会の時だけでもありません。
生きる限り、私たちは神の言葉を聴いて生きる存在です。
ですから、きょう、私たちは神の言葉に聞き従うように招かれているのです。

【神の言葉に聴き従う群れ】
しかし、時に、神の言葉に従うことが難しいこともあるでしょう。
神の声を聞くよりも、自分の思い通りに生きる方が遥かに楽なのですから。
神の言葉を無視して、自分に都合の良い声に耳を傾ける方が、
自分にとって良い結果をもたらすかのように見えるのですから。
神の言葉に聞き従い続けることは、とても難しいことです。
様々な困難や苦しみが伴うことです。
しかし、私たちにとっての励ましは、
「神の言葉に聞き従う」という歩みを一人でするわけではないことです。
これは、決して孤独な歩みではないのです。
著者はそのことを十分知っているから、このように語るのです。
兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、「今日」という日のうちに、日々励まし合いなさい。(ヘブライ3:12-13)
兄弟たち、「きょう」という日のうちに、日々励まし合いなさい、と。
神の言葉を聞き続ける「私」がいると共に、
神の言葉を共に聞き続ける「私たち」という群れが私たちには与えられているのです。
それは、私たちが教会と呼ぶ群れです。
神に語り掛け、招かれた群れです。
そして、この学生時代、皆さんには、この日大KGKに集められたメンバーが与えられています。
お互いに励まし合うことをゆるされた信仰者の群れです。
互いに励まし合いながら、神の言葉に聞き従い続けていきましょう。