しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月18日木曜日

説教#49:「礼拝者として生きる」(日大KGK夏合宿#2)

礼拝者として生きる(日大KGK夏合宿#2)
聖書 創世記16:1-16、ヘブライ人への手紙4:14-16、10:19-25
日時 2014年9月2日(火) 日大KGK合宿
場所 奥多摩バイブルシャレー


【問い掛ける神~私たちはどのような存在なのか】
「あなたは誰ですか?」
このように問い掛けられた時、皆さんは、どのように答えるでしょうか。
きっと、殆どの人が、自分の名前を伝え、自分の職業や所属を答えることから始めるでしょう。
それらのものは、自分というものの一つの側面なのですから。
神は聖書を通して、常に私たちに語り掛けてきます。
「あなたは誰なのか?」と。
私たちの信じる神は、私たちに語り掛け、問い掛ける方です。
旧約聖書の時代、女奴隷ハガルに神は問い掛けました。
「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」(創世記16:8)と。
神はこのように問い掛けることによって、彼女が過去にどのような者であったのか、
そして、これからどうありたいと願っているのかを尋ねました。
そう、神は彼女の存在そのものについて、問いを投げ掛けたのです。
「あなたは何者なのか。
あなたは一体どのような存在なのか」と。

【祭司として生きる】
このような神の問い掛けに、ヘブライ人への手紙の著者はどのように答えるでしょうか。
彼はきっとこのように答えることでしょう。
「あなたたちは、祭司である」と。
キリストを信じる者たちは、祭司として生きるように招かれている、と。
というのも、4章16節で、著者はこのように語っているからです。
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブライ4:16)
著者は、「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」と勧めています。
ここで「近づく」と訳されている言葉は、
祭司が礼拝のために、聖所に向かって進んでいくことが背景にある言葉です。
ですから著者は、祭司の行為を意識しながら、「恵みの座に近づこうではありませんか」と勧めているのです。
では、祭司とは一体どのような者なのでしょうか。
旧約聖書を読むと、祭司は、神と人間の仲介をする重要な職務を持っていることに気付きます。
祭司とは、神と人間との間に立って、罪のとりなしをする者です。
罪を犯した人間が、神との交わりを回復することができるように祈る、それが祭司の職務です。
私たちキリスト者が祭司であるならば、
私たちも、とりなし祈る者として召されているといえます。
では、祭司として、私たちは何を祈るべきなのでしょうか。
それは、目を上げて、私たちがこの世界を見渡す時に、私たちの目に写る物事です。
私たちの目には、一体何が見えるでしょうか。
人間の罪によって壊された、神と人間との関係。
人間の罪によって傷付き、うめき声を上げるこの世界。
人間の罪によって、互いに傷つけ合う、私たち人間。
このようなこの世界の現実を知るとき、私たちは、神の前に立つ祭司として祈らざるを得ません。
神が創造されたすべての被造物が、神から「良い」と言われたあの時のように、神の前に「良い」存在として回復されるようにと。
傷ついたこの世界が、神と人間との関係がFIXされることを私たちは祈り求める祭司なのです。
ですから著者は言うのです。
恵みの座に近づこうではありませんか、と。
「恵みの座」、つまり恵み深い神のもとへ行き、祈るようにと、私たちは招かれているのです。

【祭司として遣わされていく】
さて、私たちは祭司の側面をもっている存在であったとしても、
当然、四六時中、教会の礼拝堂にいて、祈り続けているわけにはいきません。
私たちには日々、やるべき多くの物事があります。
行くべき多くの場所があり、出会うべき多くの人々がいます。
しかし、場所が変わると、私たちは祭司ではなくなる、というわけではありません。
私たちは、礼拝堂を出た後も、祭司として、様々な場所へと神に遣わされていくのです。
私たちは日々、どこへ遣わされていくのでしょうか。
誰と出会うのでしょうか。
たとえそこがどこであっても、出会う人が誰であっても、
私たちは、そこで、その場所で、祭司として生きるように召されているのです。
大学や、バイト、サークル、家庭など。
そこで、私たちが見つめたもの、出会った人々のために祈るように、私たちは召されているのです。
私たちはどのような人々と出会うのでしょうか。
罪によって傷付いている人々がいます。
経済的な苦しみや災害による被害などで苦しむ人々がいます。
様々な不幸が重なり、悲しみを覚える人々がいます。
経済的な繁栄のみを追い求め、心にやすらぎのない人々がいます。
祭司である私たちキリスト者は、彼らのために、傷ついたこの世界のために、
神の前に出て行くように召されているのです。
   
【大祭司イエス】
このように、私たちは祭司として生きるようにと召されていますが、
私たちが祭司として生きるよりも先に、私たちのために神にとりなしをしてくださった方がいます。
それが、イエス様でした。
著者は、イエス様が「大祭司」であると、ヘブライ人への手紙全体を通して強調しています。
大祭司とは、祭司の最高の職位に就いている者のことです。
私たちの行う、不完全で、ぎこちない、祭司として行うとしなしの祈りを、
完全な形で神に聞き届けてくださるのが、大祭司であるイエス様なのです。
著者は14-15節で、大祭司であるイエス様について、このように述べています。
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。(ヘブライ4:14-15)
著者は、明らかに、イエス様の地上での生涯を意識して、この言葉を語っています。
「わたしたちの弱さに同情できない方ではない」。
「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」。
「もろもろの天を通過された」。
これらの表現は、すべて地上での人間イエスの歩みが前提となっている言葉です。
イエス様は、地上での生涯において、肉体をもって生きる上で感じる弱さを経験されました。
ここで「弱さ」と訳されている言葉は、複数形です。
それは、肉体的な弱さ、病気、道徳的な弱さ、宗教的な弱さです。
イエス様は罪を犯すことはありませんでしたが、
私たち人間が抱える弱さを、私たちのすぐそばで経験されたのです。
だから、イエス様は、私たちの抱える弱さに「同情できない方ではない」と語られているのです。
「同情」すると訳されている言葉は、ギリシア語で「共に苦しむ」という意味をもつ言葉です。
他者の苦しみをただ外側から眺めて同情するのではなく、その苦しみの直中に自ら入り込んでいき、相手の苦しみをそのまま自分の苦しみとして背負う。
大祭司であるイエス様は、十字架に架かり、自らを犠牲として捧げ、
神と人間との交わりを回復してくださったのです。
ですから、私たちは、「大胆に」祈ることができるというのです。
「大胆に」という言葉は、「遠慮無く」、「確信を持って」という意味のギリシア語の訳です。
私たちは、祭司としての行為を、神の憐れみと全能なる神の力を信頼して、
大胆に祈ることができるのです。

【礼拝者として生きる】
さて、私たちキリスト者が祭司である、という話をここまでしてきましたが、
祭司として生きることは、礼拝をすることが前提となっています。
つまり、こう言い換えることができるでしょう。
私たちは、礼拝者として生きている、と。
これが、神の私たちに対する招きです。
祭司としての生き方が、場所や時間を問わないように、
礼拝者としての生き方も、日曜日、教会の礼拝堂だけで行うものではありません。
礼拝は、私たちの全存在、全生活を通して、なされるものです。
このことを、宗教改革者である、ジャン・カルヴァンはこのように表現しました。
「この世界は神の栄光が示される劇場である」と。
この世界のすべての場所が、神を礼拝する場所だと、カルヴァンは確信していたのです。
そして、神を礼拝するのは、私たち人間だけではありません。
世界のすべての被造物が、その存在を通して、神を賛美しているのです。
ですから、カルヴァンは宣言したのです。
「この世界は神の栄光が示される劇場である」と。
劇場には、大きく分けて二つの場所があります。
そう、舞台と客席です。
私たちは普段、神を礼拝する時、舞台の上と客席、どちらにいるでしょうか。
客席から舞台の上に立つ神を見ている、という印象を覚えている方が多いかもしれません。
しかし、カルヴァンの言葉によれば、私たちは舞台の上にいるということができるでしょう。
神が造られたすべての被造物とともに、私たちは神を礼拝するのです。

【現在の召し~学生として遣わされている】
さて、私たちが生きるこの世界が、神の栄光が示される劇場ならば、
私たちは、この世界で、神を礼拝する奉仕をしている、というわけです。
礼拝ならば、様々な奉仕者がいますね。
みことばを語ること、
奏楽をすること、
賛美を歌うこと、
掃除をすること、
新しい人を迎えること、
他にも色んな奉仕があります。
同じように、この世界で生きる私たちにも、様々な役割が与えられています。
私たちキリスト者は、誰もが祭司として立てられ、礼拝者として生きています。
その意味で、同じ招きを神から受けています。
しかし、私たちが生きるそれぞれの場所で担う役割は、それぞれ全く異なるのです。
そのような中、皆さんには、今、学生という職業が与えられています。
4年間、ひとつの学問を学ぶという職です。
学ぶことを通して、神の栄光をたたえる。
学ぶことを通して、この世界をつくられた神の創造の素晴らしさを知る。
学ぶことを通して得た知識によって、人に仕える。
皆さんが具体的にどのような学生時代を今過ごしているのか、私にはわかりませんが、
もちろん、学ぶことだけが学生のすることではないでしょう。
恋愛もするし、バイトもする。色々な奉仕もする。
そして、様々な人と出会います。
私たちは、自分の存在そのものを通して、神を礼拝するのです。
与えられた様々な役割、委ねられている仕事など、
様々なことを通して、私たちは神を礼拝する礼拝者なのです。
その意味で、私たちが祭司として、神の前に捧げるいけにえは、自分自身なのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙で、このことについて書いています。
こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1)
では、私たちが神に喜ばれる聖なるいけにえであり続けるためには、どのようにしたら良いのでしょうか。
それは、どのような時も、どのような場所でも、どのような人の前でも、
私たちが神の言葉を聞いて、それを受け取り、従い続けることです。
神の言葉を携えて、私たちが生きることこそ、
私たちの存在を通して、神を礼拝するとなるのです。
それが、私たちに与えられている神からの召命なのです。
そう、学生である、あなたがた自身が、
学生として、神の言葉に聞き従い続けることです。

【現在の苦しみ】
しかし、今、自分に与えられていることを喜んで受け取れるならば良いのですが、
それが出来ないときが、時にはあります。
今自分に与えられている環境に苦しみ、
正直、これを自分のものとして受けとりたくない。
逃げ出したいと思うことが、時にはあることでしょう。
創世記16章に登場する、女奴隷ハガルが、まさにそのような経験をしました。
彼女は、神から与えられる子を待ち望み続けた老夫婦、アブラムとサライの奴隷でした。
アブラムとサライは子どもが与えられるのを待ち続けましたが、一向に与えらませんでした。
苦肉の策として、思いついたのが、アブラムが女奴隷のハガルとの間に子どもをもうけることでした。
しかし、ハガルが身ごもると、女主人のサライから不当な扱いを受けるようになりました。
もちろん、ハガルの態度に問題があったから、サライとの間に問題が起きました。
しかし、サライが辛く当たってくることに強いストレスを感じたのでしょう。
耐え切れなくなって、彼女はサライのもとから逃げ出しました。
しかし、彼女には何処にも行く当てがなかったのです。
きっと、途方に暮れたことでしょう。
そんな彼女に、神はこのように語られました。
「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」(創世記16:8)
彼女は、サライのもとから逃げてきて、何処にも行く当てがない。
その事実を痛感したことでしょう。
神は続けて言いました。
「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」(創世記16:9)
神が彼女に語り掛けた言葉は、戻りたくないところ、つまりサライのもとへ戻りなさいというものでした。
そこで、従順に仕えなさい、と。
しかし、神は彼女に、希望の言葉もあわせて語ったのです。
「その子をイシュマエルと名づけなさい」という言葉です。
その意味は、「神は聞かれる」です。
神が、彼女の悩みや苦しみの声を聴いて、顧みてくださるという慰めの言葉を、約束の言葉を与えてくださったのです。
彼女は、この約束の言葉にすがりついて生きたのです。
私たちも、ハガルと同じように、逃げ出したいことだってあります。
しかし、逃げられない時が、この先、あるかもしれません。
そのような時、「神が聞かれる」ということが、私たちの慰めとなるのです。
私たちの叫びや、苦しみ、悩みを聞いてくださる方は、大祭司であるイエス様です。
イエス様は、私たちの弱さを十分に知っている方です。
ですから、私たちは、今、苦しみの時も、悩みの時も、大胆に神に祈ることができるのです。
だから、ヘブライ人への手紙の著者は、語るのです。
さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。(ヘブライ4:14)
信仰をしっかりと保つ。
これは、信じている内容を十分に把握して、しっかり保ちなさいという教えではありません。
信じている内容よりも、いかに私たちが神の約束にしがみついて生きていくかに重点が置かれている言葉です。
たとえ頭でわかっていても、私たちは簡単に押し流されてしまうし、
簡単に神の約束の言葉を手放してしまいます。
簡単に、神を礼拝することを、祭司として生きることをやめてしまいます。
そのことを十分わかった上で、著者は、
「信仰をしっかり保とうではないか」と招くのです。

【揺るがぬ希望を抱いて歩む交わり】
私たちから希望を奪うものは、本当に数多くあります。
ですから、著者は、しきりに「励まし合おうではないか」と激励するのです。
10章24-25節をお読みします。
互いに愛と善行に励むように心がけ、ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう。かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのですから、ますます励まし合おうではありませんか。(ヘブライ10:24-25)
私たちは、どのような形で励まし合うことができるのでしょうか。
著者によれば、それは集会を怠らないこと。
つまり、集まることをやめない、ということです。
集まって何をするのかというと、私たちは祈り合うのです。
祭司である私たちキリスト者にとって、祈り合うというのは、とても積極的な行動です。
全能の神に助けを求めるのですから。
私たちは、互いに祈り合って、励まし合うことを通して、
神の約束に信頼し、しがみついて生きていこうではありませんか。
大祭司であるイエス様を、私たちは共に見つめ続けて、
互いに励まし合いながら、歩んでいくのです。
喜びのときも。
苦しみのときも。
悲しみ、涙するときも。
成功したときも。失敗したときも。
弱さを覚え、立ち尽くすときも。
どのような時も、どのような場所にいる時も、
今日、という日にいる、その場所で、
私たちは神に祈る祭司であり続けましょう。
神の言葉に従う、礼拝者であり続けましょう。