しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年9月19日金曜日

説教#50:「主イエスを見つめ続けて歩む共同体」(日大KGK夏合宿#3)

主イエスを見つめ続けて歩む共同体(日大KGK夏合宿#3)
聖書 創世記11:1-9、ヘブライ人への手紙12:1-3、13:1-8
日時 2014年9月2日(火) 日大KGK合宿
場所 奥多摩バイブルシャレー


【ルーツを知る】
すべてのものごとには、始まりがあり、終わりがあります。
それは、私たちがそのすべてを知ることの出来ないものに関しても、言えることです。
そして、私たち人間の誰もが、始まりと終わりを経験します。
この始まりに関係するものを、私たちはルーツと呼びます。
物事の起源や、先祖、故郷を指す言葉ですね。
ルーツを知ることは、人や物事を理解するときの大きな助けとなります。
誰もがルーツをもつように、すべての教会もルーツをもちます。
今日、この場にいるメンバーは、様々な教団・教派から集まっています。
洗礼や聖餐についての考え方、礼拝の持ち方、
宣教についての考え方、強調点など、その歴史的、信仰的背景は実に様々です。
このような多種多様な教団、教派の垣根を越えてもつ交わりを、
私たちは、超教派の交わりと呼んでいます。
このような交わりをもつとき、教会は常に課題を覚えてきました。
それは、お互いの違いを知りながらも、ひとつでいることは出来るのか、ということです。
それは教会を越えた交わりだけでなく、
教会の中でも起こり続けてきた問題でした。
いつの時代も、教会は悩み続けてきました。
初代教会の時代も、宗教改革の時代も、そして今の時代も。
お互いの違いを知りながらも、ひとつでいることは出来るのか、と

【教会が抱え続けてきた悩み】
このような悩みを抱え続けてきた教会でしたが、
悩みを抱えながらも、常にひとつの答えを持ち続けていました。
ヘブライ書の言葉を借りて言うならば、このように言えるでしょう。
教会は、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめることにおいて、一致している、と。
様々な違いを持ちながらも、イエス様を見つめ続けて歩むという点で、私たちはひとつの共同体となれるのです。
とてもシンプルなようで、実はこれはとても難しいことです。
私たちの救い主であるイエス・キリストを一緒に見つめ続けて歩むことができず、
イエス様以外のものを見つめてしまう。
それは、お互いの欠点であったり、考え方の違いであったりします。
もっともっと些細なことにばかり気に留めて、イエス様から目を逸らしてしまうことだってあります。
他の物事に心を奪われて、イエス様を見つめられない共同体は、簡単に出来上がります。

【信仰のルーツを辿る旅への招き】
ヘブライ人への手紙を読んだ、当時の人々が、まさにそのような状態でした。
現在、ヘブライ人への手紙は、紀元80-90年頃に、ユダヤ人キリスト者に宛てて送られたものだと考えられています。
この手紙の読者であるユダヤ人キリスト者たちが、心を奪われていたこととは、一体何だったのでしょうか。
それは、破壊されたエルサレム神殿です。
紀元66年から74年に行われたユダヤ戦争で、ローマ軍によってエルサレム神殿は破壊されました。
エルサレム神殿は、ユダヤ人にとって、信仰の拠り所であり、
礼拝をする場所であり、民族の存在のシンボルともいえる場所です。
そのため、エルサレム神殿の崩壊は、ユダヤ人たちに大きな衝撃をもたらしました。
それは、既にキリスト者になったユダヤ人たちにとっても変わりませんでした。
というのも、エルサレム神殿は、彼らの信仰のルーツのひとつだったからです。
ですから、神殿の崩壊は、ユダヤ人たちに大きな悲しみと、嘆きをもたらしたことでしょう。
エルサレム神殿崩壊の記憶に、彼らは心を奪われていたのです。
そんなユダヤ人キリスト者たちに、著者は、この説教を語ったのです。
著者は語ります。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。(ヘブライ12:1-2)
「こういうわけで」と、著者は語っています。
ということは、これまで語ってきた言葉を受けて、著者はこの言葉を語っているわけですね。
この箇所は、特に、11章からの流れの中で読むのが適切な言葉です。
ヘブライ人への手紙の11章は、信仰者の系図としてよく知られている箇所です。
ここでは、旧約聖書に登場する信仰者たちの名前が多く記されています。
11章は、まさに信仰のルーツを辿る旅です。
著者は、この章の前半では、
アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、
ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブと、
信仰者たちの名前を挙げ、彼らの信仰の歩みについて、丁寧に物語っています。
そして、後半に近づくほど、著者は語り口を早めていくのです。
32節では、名前のリストのみになっています。
そして、33節から先は、信仰者の名前が挙げられず、かつての信仰者たちが経験した出来事のみが物語られています。
誰のことを語っているのか、ある程度予測することはできますが、
著者は、敢えて名前を出さないのです。
それは、名前を記さないことによって、この手紙を読む読者の名前がそこに加えられる余地を生むためです。
この信仰者の系図を読んでいる者たち自身が、この系図に記される信仰者の群れの一員として加わるようにと、招かれているのです。
だから、著者は、12章でこのように告げるのです。
「こういうわけで、私たちもまた」と。
信仰を抱いて死んだ者たちと、同じ旅をするように、私たちは招かれているのです。
旅には目的地があります。
最終的に辿り着くべき場所があります。
11章の系図に記されている信仰者たちが目指した場所とは何処だったでしょうか。
それは、天の故郷。神のいる場所でした。
すべての信仰者たちは、天の御国を目指す旅人なのです。
ですから、この11章の系図は、これを読むすべての者に語りかけてくるのです。
あなたも旅人である。
天の御国を見つめて歩む旅人である、と。
この旅のメンバーに加えられる時、読者が見つめるものは変わります。
旅人は、たとえそれが見えなくても、目的地を見つめて歩むからです。
著者は、当時のユダヤ人キリスト者に、自分たちは天の御国を目指して歩む旅をしているということを、必死に伝えようとしたのです。
もはや崩壊して、失われた地上の神殿を見つめる必要はないんだ。
天の故郷に、天の聖所があるんだ。
そこにこそ、私たちの希望がある。
だから、失われた地上の神殿ばかりを心に留めて落胆してはいけない、と。
そうやって、彼らの目を来るべき未来に向けさせようとしたのです。
天の御国を目指す旅。
著者によれば、それは、イエス・キリストを見つめ続ける旅です。
彼を通して、私たちは、天の御国を見つめるように招かれているのです。
イエス様こそ、私たちよりも先に、天の御国へと行かれた方なのですから。
私たちはその後を追って、定められている競争を走り抜くように招かれているのです。
そう、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
このように、私たちすべてのキリスト者は、イエス・キリストを見つめて歩むということにおいて、一致することができるのです。
まさに主イエスは、私たちの信仰のルーツなのです。

【何もかも、全く異なる者たちが呼び集められた交わり】
イエス様が、すべてのキリスト者の信仰のルーツ、
そして、すべての教会のルーツといえるならば、
主イエスによって、教会はひとつである、ということができます。
たとえ目に見えなくても、全世界の教会はキリストにあってひとつである、と。
私たちは、神から遣わされた場所も、出会う人々も、普段生活する環境も、
考え方も、好みも、何もかも、全く異なる存在です。
年齢も異なれば、職業も違う、生まれた場所も、民族も、
髪や目の色も、社会的な地位も、家族構成も、何もかも違います。
一致できないものばかりです。
しかし、そんな多種多様な人々がいるにもかかわらず、
キリストにあって、教会はひとつなのです。
イエスを見つめることにおいて、私たちは一致することができるのです。
ですから、教会の存在自体が、神の恵みのわざなのです。
私は確信しています。
神が結び合わせなければ、教会は、ひとつとなることはできないのです。
神が、キリストにあって、ひとつとしてくださるから、
私たちはひとつの交わりを持ち続けることができているのです。
それは神の恵みのわざであり、
私たち人間の側から見えれば、奇跡としか言いようがありません。
罪赦された人間が、呼び集められ、
それまで全く関わりのなかった者であるにも関わらず、
キリストにあって、ひとつの交わりに加えられる。
私たちは、そのような交わりの中に招かれ、生かされているのです。

【「愛さない」という問題を抱える私たち】
しかし、このような神が結び合わせてくださった交わりを、
私たちはある意味で、簡単に壊すことができます。
創世記11章に記されているバベルの塔の物語が、良い例です。
当時、時の権力者は、人々を権力によってひとつにまとめようとしました。
彼らは言いました。
「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)
人々は「散らされること」を恐れ始めたのです。
何とかして、ひとつになろうと考え、
権力の象徴である、高い塔を建てようとしたのです。
しかし、このような形で人々がひとつになることは、神が望まれたことではありませんでした。
創世記1章を見てみると、神はこのような祝福の言葉を被造物全体に与えています。
産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。(創世記1:28)
地に満ちること。
これが、神が、造られたすべてのものに対して望んだことでした。
もちろん、人間に対しても同じように望まれました。
人間が地上に増え広がっていくことは、神の祝福であり、神の望むことなのです。
しかし、人々は神の思いに反抗し、天まで届く高い塔のある町を建てて、
ひとつの場所に集うことを望んだのでした。
神は、塔のあるこの町を見たとき、こう言われました。
「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」(創世記11:6-7)
神の思いに反抗する人々に対して、神がとった手段は、言葉を混乱させることでした。
お互いの言葉を聞き分けられないようにしたのです。
その結果、彼らは全地に散り、塔のある町の建設は中止されたと、記されています。
言葉が通じなくなったから、人々は散っていった、と聖書は語ります。
しかし、言葉が通じなくなったことが、人々が散っていった原因だったのでしょうか。
そもそも言葉が通じなくなったら、人々は散って行ってしまうのでしょうか。
もちろん、人々が散っていく原因をつくったのは、神でした。
そしてそれは、元を正せば、神の言葉を聞かないことから起こった出来事です。
「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)という、
祝福の言葉を無視して、自分の好きなように生きた結果でした。
神の言葉よりも、自分の思い、自分の言葉を大切にした結果です。
それと共に大きな原因となったのは、人々がお互いの言葉を聞かなくなったことでした。
7節で「お互いの言葉が聞き分けられぬように」と訳されている言葉は、
「お互いに言葉を聞かないように」とも訳すことができます。
確かに、人々の言葉は混乱し、人々はお互いの言葉を理解できなくなりました。
しかし、相手に自分の思いを伝える手段は、言葉以外にもあります。
身振り手振りで、何とかして自分の思いを伝えることだってできます。
地面に絵を描いて、伝えることだってできたでしょう。
しかし、それにも関わらず、人々は散っていったのです。
時間を掛ければ、コミュニケーションを取ることができたのにも関わらず、
彼らは、お互いの言葉を聴くことを諦めて、散っていったのです。
お互いの言葉を聞かないこと。
そして、目の前にいる相手を理解するのを諦めたこと。
これがバベルの塔の物語で問題になっていることなのです。
聞かないこと、それは愛することができていない状態ともいえるでしょう。
そう、愛さないという問題は、様々な形で出てくるのですから。

【兄弟姉妹として愛し合う】
ですから、ヘブライ書の著者は、倫理的な勧めの言葉のその初めに、このように語るのです。
兄弟としていつも愛し合いなさい。(ヘブライ13:1)
正直、愛するって本当に難しいことだと思うんです。
本当に色々な人がいます。
すべての人を心から愛そうと思えば思うほど、
私たちは、愛することができない自分がいる、ということに直面せざるを得ません。
教会をクリスチャンの集まりだからといって、理想化することはできません。
私たちは、罪深い人間の集まりなのですから、
どんな教会にも傷があります。
愛し合うことができないという問題は、
常に教会が抱え続けている問題なのです。
それでも著者は語るのです。
兄弟としていつも愛し合いなさい。(ヘブライ13:1)
兄弟として、と著者は語ります。
もちろん、教会に集うすべての人々の血がつながっているわけではありません。
私たちがお互いを兄弟姉妹と呼べるのは、
イエス様によって罪赦され、神の子とされたからです。
ですから、「兄弟として」というとき、
イエス様が私たちを愛してくださったという事実が、前提としてあるのです。
イエス様が愛してくださった者として、いつも愛し合いなさい、と。
しかし、愛しなさいと命令されて、愛する心が芽生えることはないでしょう。
感情をもって愛するということは、命令されてもできることではありません。
しかし、行ないによって愛を示すことならばできるはずです。
イエス様がこの人を愛してくださったのだから、
イエス様に愛されている人を、行動をもって愛する。
やがて愛する感情が伴ってくるようにと祈りながら。
旧約聖書の雅歌に、このような言葉があります。 
エルサレムのおとめたちよ野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください愛がそれを望むまでは愛を呼びさまさないと。(雅歌2:7)
愛することを、急ぎすぎてもいけないんですね。
キリストが愛してくださったように、愛したいと願う。
愛とは、行動をもってあらわすもの。
その行動の先に、愛する思いが呼び覚まされると願いながら、
愛のある行動をし続けていく。
やがて、本当の意味で愛し合うことができる日が来ることを待ち望みながら、私たちは交わりを持ち続けるのです。
そのような意味で、「愛せない」ということに直面することが問題なのではありません。
「愛さない」と決断して、愛のない行動を、目の前にいる兄弟に対して続けることこそが、問題なのです。
そのような交わりの持ち方をするのではなく、
イエス様が愛してくださったように、互いに愛し合おうと、著者は招き続けているのです。
兄弟としていつも愛し合いなさい。(ヘブライ13:1)
これが、主イエスを見つめ続けて歩む共同体の生き方です。
愛せない人を排除するのではなく、
それでも愛したいと願いながら受け入れて、共に歩んでいく。
困難を覚えながらも、キリストのもとに集い、一つとなり続けようと願い続ける交わりが、教会なのです。
やがて天の御国に辿り着く時、
心から愛し合う交わりを持つことが出来る日が来ることを願いながら、
待ち望みながら、私たちはこの旅を続けるのです。

【福音に生きる】
さて、今回、3回にわたって「Let us FIX」というテーマで、ヘブライ人への手紙を見てきました。
FIX。
それは、見つめること。
まさに、私たちが見つめるべきなのは主イエスです。
しかし、忘れてはいけないことがあります。
初めに、神が、私たちを見つめてくださったこと。
私たちが神を見つめるよりも先に、神が私たちを見つめてくださいました。
だから、イエス様が私たちに与えられたということ。
神が私たちを見つめ続けてくださったから、
私たちと神との関係がFIXされた、修復されたということ。
それはまさに、和解の福音です。
イエス様によって、私たちと神の壊れた関係は、回復されました。
そして、私たち人間同士の壊れた交わりにイエス様は和解をもたらしてくださいます。
まさに、私たちが受け取っている福音というものは、
私たちの内に和解を、平和をもたらすものなのです。
この和解の福音を携えて、私たちは生きるのです。
ヘブライ書の著者は言います。
自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ12:1)
私たちが歩むように定められている道を歩む時、
私たちは様々な出来事と直面することでしょう。
もしかしたら、苦しみや困難を覚えることの方が多いかもしれません。
にも関わらず、私たちは、なぜ忍耐強く歩んで行くことの出来るのでしょうか。
それは、イエス・キリストに希望をもっているからです。
この方にこそ救いがある。
この方が私たちのためにとりなし続けてくださる。
この方が、私たちを神のもとへと導いてくださる、という希望です。
だから、私たちはイエス様を見つめ続けるのです。
イエス様について、著者は13章でこのように述べています。
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。(ヘブライ13:8)
そう、キリストのみが永遠に変わらない御方なのです。
だから、私たちは神の恵みにすがりながら生きることができるのです。
それに信頼して、希望をもって、生きていくことができる。
イエスを見つめ続けるということは、
変わらない神の恵みに、すがりながら生きるということです。
イエス様は、きのうも今日も、永遠に変わらない方です。
多くの困難が押し寄せてきても。
どんなに打ちひしがれたとしても、
私たちの希望であるイエス・キリストは、永遠に変わらない御方です。
ですから、私たちは、主イエスを見つめ続けて歩み続けていきましょう。
それが、私たちが呼び集められた、教会という交わりなのですから。
そして私たちは、この学生時代に、
共に主イエスを見つめ続ける交わり、日大KGKという交わりが与えられました。
この信仰を共有する仲間と共に、私たちは旅を続けていきましょう。
私たちの救い主であり、私たちの変わらぬ希望である、主イエスを見つめながら。