説教#51:「キリストにある新しい生き方」

キリストにある新しい生き方
聖書 マルコによる福音書2:18-22、ホセア書2:14-25
日時 2014年9月7日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会


【人々の批判:「なぜ断食をしないのか?」】
ある日、イエス様は人々から尋ねられました。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マルコ2:18)
律法によれば、断食は、特別な機会にするものでした。
「贖罪の日」という、1年に1度だけ、強制された断食の日があったため、
すべてのユダヤ人たちは、その日に断食をしていました。
人の死を悲しむときも、哀悼のしるしとして。
また、神に祈るとき、その願いが切実なものであると、人々は断食をしました。
そして、悔い改めや、罪の告白と祈りのときに人々は断食をしました。
このようなときに断食をするようにと、律法には示されていました。
しかし、当時の敬虔なユダヤ人たちは、律法で定められている以上に断食をしていたようです。
そのため、当時のユダヤ人たちにとって、断食は、敬虔さの表れだったようです。
ですから、イエス様とその弟子たちにも、
ファリサイ派の人々やヨハネの弟子たちと同じように、敬虔であることが人々から求められていたのです。
しかし、どうやら、イエス様の弟子たちは、断食をしていなかったようです。
もちろん、律法に定められていることは守っていたのでしょうが、
律法に定められている以上に断食を守ることはしなかったのです。
そのため、「なぜあの男の弟子たちは断食をしないのか?」と、人々は考えたのです。
イエス様の弟子たちは、敬虔さの表れとして、断食をしていないと、
人々の批判が弟子たちに向いたのでした。
「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」(マルコ2:18)
【イエスが共にいる喜び】
この問いに対する、イエス様の答えは、このようなものでした。
花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。(マルコ2:19)
イエス様は、断食の問題と婚礼とを結びつけています。
そうすることによって、断食の必要がないことを伝えるのです。
ユダヤ教のラビの規則には、このようなものがあります。
「花婿につきそうものはすべて、彼らの喜びを少なくするすべての宗教上の慣例から解除されていた」と。
つまり、結婚式の客は、断食をする必要がなかったのです。
実際、花婿が一緒にいる時、つまり結婚式の時、当時の人々は断食をしなかったようです。
イエス様は、「花婿」を自分と結びつけ、「婚礼の客」と人々を結びつけています。
そうすることによって、今、花婿である自分が一緒にいるこの時は、
婚礼のときに味わう喜び以上の喜びがある、とイエス様は語るのです。
イエス様は花婿であり、イエス様が来られたことに喜びがある、と。
イエス様が一緒にいる時が、他のどんな時よりも、喜び、感謝、幸福に溢れるときである、と。
だから、花婿である自分が一緒にいるこの時、断食をする必要はない、とイエス様は言うのです。
イエス様はこの世に来られた時、神の国の到来を宣言されました。
「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)
そう、神の国という、喜びと平和に溢れる神の支配が、私たちのもとにやってきたのです。
イエス様が一緒にいるということは、そのような喜びが今、ここに溢れているということを意味するのです。

【花婿が奪い取られる日が来る】
しかし、この喜びが奪い取られる日が来る、とイエス様は続けて語ります。
イエス様は言われました。
しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。(マルコ2:20)
その日、花婿であるイエス様が取り去られる日とは、いつのことでしょうか。
それは、イエス様が死を迎える日のことを指しています。
そう、イエス様が十字架に架かって死なれる日です。
そのとき、喜びは奪い去られ、その悲しみのゆえに断食をする日がくるだろう、とイエス様は語るのです。
イエス様の死は、断食をもたらすというのです。
事実、イエス様の死は、断食が求めることを私たちの内に起こします。
そう、それは罪の悔い改めです。
なぜ、イエス様が死ななければならなかったのでしょうか。
それは、私たちの罪のためです。
神に背く生き方を続ける私たちが、神との交わりを回復するために、
イエス様は私たちの罪を背負って、十字架に架かってくださったのです。
ですから、私たちは、イエス様の十字架の死を思い起こす度に、自分の抱えている罪を思い起こすのです。
イエス様を十字架に架けて、殺さなければならなかったほどの罪を、自分が抱えているという事実を思い起こすのです。
そして、神の前に、悔い改めるようにと導かれるのです。
しかし、イエス様の十字架上での死は、私たちに悔い改めのみを与えるものではありませんでした。
悔い改めと共に、私たちに救いと、それに伴う喜びを与えるためでした。
神と人との間に平和を築くため、イエス様は十字架に架かられたのです。
あなたは、神の愛されている。神の子である、とイエス様は私たちに語り掛けるのです。
その意味で、イエス様の死に対する人々の反応は、断食で終わるねきものではありませんでした。
イエス様はよみがえり、弟子たちの前に現れたのですから。
それによって、死に対する勝利を宣言されたのですから。
十字架の死と復活によって、神は、真の救いを私たちに示してくださったのです。
ですから、イエス様が、「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。
その日には、彼らは断食することになる」(マルコ2:20)と言うとき、
それは、イエス様が死なれて、復活されるまでの期間を指しているのです。
しかし、イエス様は復活後、天に昇り、神のもとへ行きました。
そういう意味で、今、イエス様は目に見える形で私たちのもとにいません。
ということは、今の時代の私たちは、断食をするべきということなのでしょうか。
イエス様を、この目で見ることはできないのですから。
「そうではない」と、イエス様は言うでしょう。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)
と言ったではないか、とイエス様は私たちに語り掛けることでしょう。
そう、たとえ目には見えなくても、私たちひとりひとりに与えられた聖霊を通して、
イエス様は私たちと共におられるのです。
ですから、花婿であるイエス様が一緒におられる今、
私たちは、主にある喜びに支配されて生きるように招かれているのです。
それはまさに、イエス様が来られたことによって、新しい生き方がもたらされた、ということです。

【キリストにあって、新しくされた】
ところで、イエス様はなぜ21-22節の言葉を一緒に語ったのでしょうか。
イエス様は言われました。
だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。(マルコ2:21-22)
古いものよりも、新しいもののが良いと、イエス様はここで伝えようとしているのでしょうか。
決して、そうではありません。
イエス様は、ここで古いものを否定してはいません。
古いものにだって、良いものもあるということを、私たちも十分知っています。
ここでイエス様が問題としているのは、福音を受け入れた者の生き方です。
福音を受け入れた者は、全く新しい生き方をするように求められています。
全く新しい存在として生まれ変わっていると、宣言されているのです。
そう、古い生き方を温存しながら、主イエスにある新しい生き方は出来ないのです。
イエスの教えを、古い革袋を保持したままでは受け止めることは出来ないのです。
使徒パウロの言葉によれば、こうです。
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Ⅱコリント5:17)
イエス様が、特にここで問題としているのは、当時のユダヤ人たちが行っていた断食の仕方です。
そう、自分が敬虔な者だと、人々に見せびらかすように断食をしている、その姿です。
自分の栄光を人に見せびらかすこのような生き方を、イエス様は批判しているのです。
私たちに求められている生き方とは、人に自分の栄光を見せる生き方ではありません。
神の栄光を讃える生き方こそ、私たちに求められていることです。
自分の栄光と神の栄光、それが両立できるはずがありません。
イエス様が私たちの内に来られたことによって、新しい生き方は、既に訪れています。
イエス様を信じ、受け入れたことを通して、洗礼を通して、
私たちはキリストと結ばれました。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者」です。
そう、神によって新しくされた者です。
ですから、私たちは、古い自分の罪深い性質に従って生きるのではなく、
キリストと結ばれて新しくされた者として、主イエスに従う生き方をしようではありませんか。
それが、神が私たちに与えてくださった新しい生き方です。
憎しみ合うのではなく、愛し合うことを、
争い合うのではなく、赦し合うことを、神は私たちに求めています。
簡単に、古い罪人としての性質を捨て去って、新しくされるわけではないでしょう。
しかし、神が働かれる時、私たちは、新たにされます。
神が、私たち一人一人を日々新たに造り変えてくださることを信じ、祈り求めていきましょう。

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