しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年10月16日木曜日

説教#53:「安息日が告げる祝福」

安息日が告げる祝福
聖書 出エジプト記20:8-11、マルコによる福音書3:1-6
日時 2014年9月21日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【安息日における生命の保護】
イエス様は、安息日によく人々の病を癒していました。
人々は、イエス様が病人を癒すその姿に驚き、
また、イエス様の語る言葉を権威ある新しい教えだと言って、喜んで聞いていました。
しかし、ファリサイ派の人々は、イエス様のことを快く思わなかったようです。
というのは、イエス様が病人を癒やす行為は、安息日に禁じられている労働に含まれていると彼らは考えたからです。
もちろん、ファリサイ派の人々にとっても、安息日における生命の保護は重要なものと考えられていました。
しかし、医療行為に関しては、命の危機がある時にのみしか、許されていなかったようです。
つまり、命の危険がない病だと判断されたならば、
その病の癒やしは律法違反だから、安息日以外の日にすべきだと言われたのです。
イエス様が安息日に行った癒やしは、命の危険にある人だけが対象ではありませんでした。
ですから、ファリサイ派の人々はイエス様の癒しの行為を非難し、イエス様を敵視するようになっていったのです。

【人々の注目が集まる】
今日の箇所に記されているこの安息日にも、
イエス様は癒しの行為を行っています。
この日の出来事について、マルコはこのように書き始めています。
イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。(マルコ3:1-2)
「片手の萎えた」と表現されていますが、これは麻痺している状態のことを指す言葉です。
当然、片手が麻痺しているのみですから、命の危険はありません。
ですから、イエス様がこの人を癒やしたら、安息日に禁じられている労働をしていることになるわけです。
イエス様は、安息日の戒めを破るのか?
それとも、この病人を放っておくのか?
今日は安息日で労働は禁じられているから、明日また来なさい。
そうすれば癒してあげよう、とでも言うのか?
人々の頭には、様々な憶測が飛び交ったことでしょう。
そう、イエス様が片手の萎えた人を癒やすかどうかに、人々の注目が集まったのです。
その場の緊張が伝わってきます。

【「真ん中に立ちなさい」】
イエス様は、その場の異様な雰囲気や、人々の思いを感じ取り、
片手の萎えた人に言われました。
「真ん中に立ちなさい」(マルコ3:3)
イエス様は、その場にいる人々が、この人を十分に見ることができる位置に立たせました。
それは、人々の注目を自分にではなく、この人に集めるためでした。
イエス様が安息日に何をするのかではなく、
この人に、人々の注目を集めたのです。
一体なぜイエス様は彼を真ん中に立たせて、
自分にではなく、この人に注目を集める必要があったのでしょうか。
それは、この片手の萎えた人が、人々に利用されていたからです。
イエス様がこの人を癒やし、安息日の戒めを破るのであれば、イエス様を訴える口実になるかもしれません。
ですから、人々は、特にその場にいたファリサイ派の人々は、
この人を利用して、イエス様の行動を見ていたのです。
その意味で、この人の癒やしを心から期待していた人はいなかったのでしょう。
人々の興味は、イエス様の癒やしと安息日の掟に集中してたのですから。
その場にいた、片手が萎えたこの人の苦しみに共感する人は、イエス様以外、誰一人としていなかったのです。
彼は、この会堂において、イエス様を訴えるための道具としてしか見られていなかったのです。
そのことに気付いたから、イエス様は彼を人々の真ん中に立たせて、
この人の存在に注目させたのです。
安息日の掟が守られるかどうかに注目するのではなく、
今苦しみを覚えている、この人にあなたがたの目を向けなさい、と。

【沈黙という反応】
イエス様は、片手の萎えた人を真ん中に立たせた後、その場にいた人々に向かって問い掛けました。
「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」(マルコ3:4)
当然、その答えは、善を行うこと、命を救うことでしょう。
それは安息日でなくても、当然すべきことだと誰もがわかっていたことでしょう。
しかし、この問いかけに答える者は、誰一人としていませんでした。
人々は黙り続けたのです。
ファリサイ派の人々にとって、善を行うこととは、律法を守ることでした。
特に、この日は安息日を守るということこそが善でした。
ですから、彼らは不用意にこの質問に答えることができなかったのです。
「善を行うこと」「命を救うこと」と答えれば、
なぜこの人を気にかけ、彼を助けないのか?という話になりかねません。
ですから、彼らは沈黙によって、イエス様の言葉に答えたのです。
律法が命じることに私たちは従う、と。
この沈黙に対するイエス様の反応を、マルコはこのように記しています。
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。(マルコ3:5)
【安息日の告げる祝福】
イエス様は、片手の萎えた人を真ん中に立たせて、人々に問い掛けてから、彼を癒しました。
このような過程を踏まなくても、イエス様はこの人を癒やすことは出来たことでしょう。
それにも関わらず、イエス様はなぜこのような行動をとったのでしょうか。
それは、安息日が告げる祝福を忘れてしまっている人々の現実を暴き、
彼らに安息日の告げる祝福を伝えるためでした。
そう、安息日とは、創造のわざを喜ぶ日である、と。
出エジプト記に記されている安息日に関する掟には、
安息日を守る理由について、このように記されています。
六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。(出エジプト記20:11)
ここでは、安息日と天地創造が結び付けて語られています。
その意味で、安息日の戒めは、この世界を創造した神のわざを思い起こすようにとの、神からの招きなのです。
神は、この世界のすべてのものを造られた方です。
神は空も、海も、私たちが踏みしめる大地も、そこに生える植物も造られました。
犬や猫、空を飛ぶ鳥たちなど、様々な動物も神が造られました。
そして、私たち人間も、神に造られた存在です。
そう、私たちは神に造られた存在です。
神はこの世界とそこに住むすべての被造物を造られた後、それを見て、言われました。
それらのものはすべて、極めて良い。非常に良かった、と。
そう、神に造られたすべてのものは、神から「良い」と言われている存在なのです。
神は私たちにも語りかけておられます。
あなたは良い、と。
私たちは神の前に良い存在であり、神に愛されている存在なのです。
その事実を受け止めて、喜びと感謝のうちに過ごすように、安息日の戒めは与えられたのです。
安息日がそのような喜びに満ちた日であるにも関わらず、
この片手の萎えた人は、人々からイエス様を訴えるための道具として扱われていたのです。
道具として扱われる彼は、安息日の喜びや感謝を人々から奪われていました。
人々は沈黙することによって、彼に死を宣告し続けました。
イエス様を訴えるための道具として扱うことによって、彼の存在を押し殺していたのです。
ですからイエス様は、この一連の出来事を通して、彼を癒されたのです。
この癒しを通して、 この人の、一人の存在としてのあり方そのものを回復されたのです。

【神が安息日に労働を禁じた理由】
私たちは、あまりにも簡単に道具のように扱われます。
単なる労働力としてのみ見られて、働き続けなければならない環境に置かれる時もあります。
私たちの側が、自分は社会の歯車にすぎないと錯覚してしまう時だってあります。
労働は、神が私たちに与えたこの世界での使命ですが、
働き続けるときに、一人の人間としての存在を喜ぶことを忘れてしまうことが、私たちにはあるのです。
ですから、神は安息日に労働を禁じる命令を私たちに与えられたのです。
私たちが、私たち自身の存在を喜ぶためです。
与えられている仕事を手放し、抱えているものを神の御手に委ねて、休む。
そのとき、私たちは、一人の「私」という存在を確認できるのです。
「何かをする」、「何かができる」ということによって評価されるのではなく、
「あなた」という存在がここに居る、そのことそのものが素晴らしい、と伝えられる日が安息日なのです。
私たちは、安息日の告げる祝福を、日曜日の礼拝において毎週確認しています。
神に愛されている、「私」という存在を喜び、感謝するのが礼拝のひとつの側面です。
そして、自分自身の存在を喜ぶとともに、
隣にいる人、礼拝堂にいる人々の存在を喜ぶようにと招かれています。
あなたの存在そのものが素晴らしいんだ、と。
それは、この礼拝堂だけに留めておくべきものではありません。
ですから、この喜びと感謝を携えて、私たちはこの礼拝堂を出て行きましょう。
そして出会う人々に、安息日が告げる祝福を告げ知らせようではありませんか。

あなたは良い存在だ。神に愛されている存在なのだ、と。