しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年10月20日月曜日

説教#55:「境を打ち破る、神の国の福音」

境を打ち破る、神の国の福音
聖書 出エジプト記19:20-25、マルコによる福音書3:13-19
日時 2014年10月5日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【主イエスのもとにやってくる人々】
イエス様のもとには、毎日のように、様々な人々が集まってきました。
祭司やファリサイ派の人々、漁師、徴税人、病を抱えた人、悪霊にとりつかれた人など、
実に様々な人々が、イエス様のもとにやってきたようです。
ある人は、病気を癒してもらうために。
ある人は悪霊を追い払ってもらうために。
ある人は、神から与えられた律法について議論するために。
また、ある人は、その律法についての議論を通して、イエス様を貶めるために。
イエス様のもとに集まった人々は、イエス様の噂を聞いて、集まってきました。
イエスという人が、病を癒やした。
悪霊を追い払った。
律法をこのように解釈した。
イエスの語る教えは、権威ある新しい教えだ、などといったような噂を聞いて、
毎日のように、人々はイエス様のもとにやって来たのです。

【主イエスが人々を呼び集める】
しかし、この日はいつもと違っていました。
その時の様子を、マルコはこのように記しています。
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。(マルコ3:13-14)
イエス様が、これと思う人々を選び、その選んだ人たちを呼び集めた、とマルコは報告しています。
そう、イエス様の側から人々を招いたという点で、この日は普段と異なっていたのです。
イエス様が特定の人々を招いたことは、
マルコによる福音書では、これまで2回ありました。
漁師であるシモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人に声を掛け、彼らを弟子としたとき。
そして、徴税人レビに声を掛け、レビがイエス様に従ったときです。
彼らのように、イエス様に直接声を掛けられて従って来た人もいれば、
自ら進んで、イエス様についてきた人たちもいたことでしょう。
そのようにして、自分に従ってきた人々の中から、
イエス様は、12人を選び、彼らを呼び集められたのです。
それは、彼らを「使徒」として任命するためでした。

【主イエスと共に生きる召し】
この12人の任命には、3つの目的がありました。
それは、14-15節に記されています。
彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。(マルコ3:14-15)
そう、彼らが十二使徒としてイエス様から選ばれた目的は、
イエス様と共にいるため、
イエス様から派遣されて、イエス様が伝える「福音」を一緒に伝えるため、
そして、悪霊を追い出す力が与えられるためでした。
ここで重要なのは、「イエス様と共にいる」ということが、一番最初に記されていることです。
イエス様の弟子とされた者は、イエス様と共にいるようにと招かれているのです。
これが、他の何よりも大切なことなのです。
イエス様が、この12人を選んだのは、
彼らの宣教の働きを通して、人々がイエス様を信じるためでした。
そして、イエス様を信じた人々が、この12人と同じように、イエス様の弟子になるためです。
その意味で、この12人だけがイエス様と一緒にいれば良い、というわけではないのです。
イエス様と共にいることは、すべての人々に与えられている、神からの招きなのです。

【主イエスと共にいるとは、どういうことか?】
では、イエス様と共にいるとは、一体どういうことなのでしょうか。
それは、イエス様と同じように行動する、ということです。
それが、弟子と先生の関係でしょう。
弟子たちは、イエス様の行動を見て、それが一体どういった意味なのかを考え、
自分のものとして受け止めて、行動します。
こんな時、イエス様ならどうするだろうか。
イエス様はどのように考えるだろうか。
イエス様ならば、何を語るのだろうか、と。
イエス様と一緒にいることを通して、私たちは、イエス様の弟子となるのです。
それは、時や場所を問いません。
そう、この礼拝が終わった後にこそ、イエス様の弟子としての生き方が問われるのです。

【選ばれた12人】
ところで、イエス様と共に過ごし、イエス様のことを人々に伝えるという、
この重要な役割を担った最初の12人のメンバーに、
イエス様はどのような人々を選んだでしょうか。
16節以降に記されている、12人のリストを見ると、実に様々な人が選ばれたことに気付かされます。
ペトロやアンデレのように、漁師として生きてきた者もいれば、
熱心党といわれる、極端なユダヤ民族主義に立つ者もいました。
マタイが、2章で出てくるレビと同一人物ならば、
当時の社会で、罪人と言われ、のけ者にされていた徴税人も、この12人の中にいることになります。
また、彼らの性格も様々です。
イエス様から「雷の子」というあだ名をつけられるほど、激しい性格の者たちもいれば、
疑い深いトマスも、
リーダー気質だが、思いつきで行動しやすいペトロもいました。
そして、実際にイエス様を裏切るユダも、その中にいたのです。
イエス様は、実に様々な人々を選び、ご自分のもとに集め、
十二使徒として任命されたのです。
この十二使徒の任命に関して、注目すべきことがあります。
それは、彼らが、能力や影響力によっては選ばれていないことです。
この世界に神の福音を伝え、広めたいと願うならば、
出来る限り優秀で、影響力のある人を選びたいと考えるのが自然でしょう。
しかし、イエス様はそのような人々を選びませんでした。
そして、それでいて、多様性に富んだ人選をされたのです。

【神の国とは、境界線を打ち破る交わり】
イエス様は、この12人を任命し、彼らと一緒に過ごすことを通して、
「神の国」の現実を人々に伝えようとしているのです。
神の国。
そこは、優秀な人や影響力のある人だけのものでは決してありません。
弱い者が尊重され、彼らに助けが与えられる場所。
社会的な地位も、置かれている環境も、財産も、
与えられている能力も、性格も、
何もかもが違う人々が、ひとつの場所に集うことの出来る場所です。
私たちの日常には、地位や、好み、能力、生まれなどによって、見えない境界線が引かれていることがあります。
それは簡単に乗り越えることのできないものです。
しかし、神の国は違う、とイエス様は宣言されているのです。
イエス・キリストに呼ばれ、彼のもとに集められた交わりには、境界線などないのです。
私たちの日常の中にある、地位や、好み、能力、生まれなど、交わりの中に引かれている見えない境界線さえも、打ち破り、
そこに、真実な交わりを築く、神の力がそこにあるのです。
そう、「神の国とは、境界線を打ち破る交わりである」とイエス様はこの12人の任命を通して、私たちに伝えているのです。
そのような交わりは、いくら努力しても、人の力によって築くことの出来るものではありません。
ただただ神の力によって、神に依存して、築かれていくものなのです。
そして、神は、私たちをこの神の国の交わりへと招いているのです。
そう、神の国の交わりは、完全な形ではありませんが、
教会を通して、既に私たちに与えられているのです。

【神の愛と赦しに基づく共同体】
しかし、神の力によって、神の国の交わりが築き上げられていくと言いつつも、
私たちは、この十二使徒のリストの最後に記されている名前を見る時、
私たち人間の抱える罪によって、交わりが阻害されているという現実に気付かされます。
そこにはこう記されています。
イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。(マルコ3:19)
イスカリオテのユダが、イエス様を裏切り、
イエス様を十字架に架けるきっかけとなったというのは有名な話です。
しかし、私たちはユダにばかり目を向けては、この十二使徒のリストを正しく読み取ることができないでしょう。
この12人のリストは、ペトロで始まり、ユダで終わっています。
そう、イエス様のことを、三度「知らない」と言って、否定したペトロからこの名簿は始まり、
イエス様を裏切ったユダで終わるのです。
ペトロとユダだけではありません。
他の弟子たちも、イエス様が逮捕されたとき、逃げ出しました。
ですから、この十二使徒のリストは、弟子たちの裏切りを見据えていると言えるでしょう。
イエス様は弟子たちの抱える弱さも、彼らがこれからする裏切りも、何もかも知りながら、彼らを十二使徒として選ばれました。
イエス様は、彼らがこれから犯すであろう罪も、過ちも、すべて赦し、
彼らを愛し続けるという決断の心をもって、彼らを選んだのです。
ですから、この十二使徒という共同体は、イエス様の赦しによって選ばれた人々なのです。
努力したからでもなく、優秀だからでもなく、完璧な人間だからでもなく、ただ神の愛と赦しによってです。
神に招かれているのは、十二使徒だけではありません。
私たちも神から招かれ、教会へと呼び集められました。
それは、私たちが努力したからでもなく、優秀だからでもなく、完璧な人間だからでもなく、ただ神の愛と赦しによってです。
私たちが自分の力ではどうしようもない弱さや罪を抱えながらも、
神は、愛と赦しをもって、私たちを招き続けてくださるのです。
その意味で、教会とは、神の愛と赦しに基づく共同体なのです。

【愛と赦しに根ざす交わりを目指す】
私たちが、神の愛と赦しによって、この場所へと呼び集められているのであれば、
私たちの行動原理は、神の愛と赦しに基づいてなされるべきでしょう。
しかし、どうでしょうか。
私たちはあまりにも簡単に、憎しみや妬みに心を支配されます。
自己中心的な思い、高慢な心、誰かに向ける敵意、批判の思いなどが、
私たちの行動原理になることがあります。
それが、私たちの罪の現実でしょう。
しかし、だからといって落胆してはいけません。
私たちは、そのような自らの性質に押し流されてはいけません。
神が私たちを愛し、赦しを与えてくださったのですから、
私たちは、常に、神の愛と赦しへと立ち帰っていきましょう。
この神の愛と赦しの下に、私たちは様々な境界線を乗り越えることができると約束されているのです。
争いや差別によって引かれている境界線も。
憎しみや妬みによって引かれている境界線も。
立場の違い、考え方の違いなどから引かれてしまっている境界線も。
様々な境界線を乗り越え、打ち破る。
これこそ、主イエスが約束された神の国の福音なのです。
私たちには、神の愛と赦しが常に与えられているのですから、
様々な境界線を乗り越えていくことができるはずです。
神が、ここに、この地上に教会を建てた。
それこそ、神の国の福音が様々な境界線を打ち破るという希望のしるしです。