しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年10月21日火曜日

説教#56:「あなたたちが宝の民だから」

あなたたちが宝の民だから
聖書 マラキ書3:16-18、マルコによる福音書3:20-30
日時 2014年10月12日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【悪い噂が広まる】
イエス様が宣教の働きを始めてから、各地にイエス様の噂は広まっていきました。
しかし、どうやら、その噂は良いものばかりではなかったようです。
イエス様の行動を見て、
「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)と言う人々もいたのです。
当時、気が変になっていると思える行動をする人は、
悪霊の支配下にあると人々から考えられていました。
そのため、身内の人たちがイエス様を取り押さえに来た、とマルコは報告しているのです。
この悪い噂がこれ以上広まる前に、
身内の人々は、イエス様の宣教の働きをやめさせようとしたのかもしれません。

【エルサレムから来た律法学者たちの主張】
しかし、身内の人々がイエス様を取り押さえに来るよりも前に、
イエス様についての悪い噂を聞きつけてやって来た人々がいました。
マルコは、彼らを「エルサレムから下って来た律法学者たち」(マルコ3:22)と紹介しています。
エルサレムは、ユダヤ教の中心地です。
そのエルサレムから、宗教的指導者である律法学者たちがやってきたのです。
それは、悪い噂が流れているイエス様について、調査をするためでした。
その調査の結果、彼らはしきりに言うのです。
「あの男はベルゼブルに取りつかれている」「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」(マルコ3:22)
イエス様がこれまで行ってきた、病の癒やしや悪霊追放は、
悪霊の頭であるベルゼブルの力によるものだ、と彼らは言うのです。
イエス様は良い力ではなく、悪の力を用いている、悪の代理人だ、という訴えです。
もちろん、そのようなことは決してありません。
イエス様は、そのような方では決してありません。
しかし、いつものように人々の病を癒し、悪霊を追い出したとしても、
イエス様は、自分が悪の代理人ではないということを証明することはできません。
そのため、イエス様は、たとえを用いることによって、
自分が悪の側にではなく、神の側に立っているということを証明したのです。

【主イエスが語られた譬え話】
イエス様が語られたたとえは、このようなものでした。
どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。(マルコ3:23-26)
もしもイエス様が悪の代理人で、悪霊の頭であるベルゼブルの力を用いているのだとしたら、
それは、悪霊同士で内輪もめをしていることになる、とイエス様は言っています。
だから、自分が悪霊の頭の力によって、
人々の病を癒したり、他の悪霊を追い出しているなどということはありえない、
とイエス様はたとえを通して説明しているのです。
実に明快なたとえです。
このたとえを用いることによって、イエス様が用いる力は、
悪霊の頭の力ではなく、神が与えたものであると、イエス様は主張しているのです。

【「より強い者」である主イエス】
イエス様は続けてたとえを語ることによって、ご自分が地上に来られた理由を明らかにします。
まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(マルコ3:27)
27節だけ抜き出して読んでみると、強盗の手引きのようですが、
23節からの流れで読んでみると、その意味することは明確です。
ここでイエス様が言う「強い人」とは、悪霊の頭であるサタンのことです。
イエス様は、「強い人」であるサタンを縛り上げ、
彼の家にある家財道具を奪い取る「より強い人」の存在をここでほのめかしています。
そう、悪霊たちからしてみれば、
イエス様こそが、このたとえの中でほのめかされている「より強い人」なのです。
悪霊たちにとって、それは強盗ようにやって来ます。
イエス様は突然訪れ、悪霊たちを縛り上げ、彼らを無力化し、彼らの家財道具を奪っていくのです。
彼らの、サタンや悪霊たちの家財道具。
それは、サタンの家の中にあり、サタンの管理と支配の下にあるものです。
そう、他ならぬ、私たち自身が、サタンの支配下にあったのです。
イエス様は、サタンのものとされていた私たち人間を奪い返し、本来あるべき場所、つまり神のもとへと私たちを戻してくださったのです。
「私があなたを、サタンから奪い返し、神のもとへと導いた。
あなたは、サタンのものではなく、神のものである。
悪の側にいるのではなく、神の側にいる存在なのだ」と、
イエス様はこのたとえを通して私たちに伝えているのです。

【主イエスが、私たちを神のものとされる方法】
イエス様が語ったたとえによれば、
イエス様はより強い力で、強い者たちを縛り上げ、
私たちをご自分のものとしてくださったと理解することができます。
この話はたとえですから、イエス様が語った「強い人」を、
サタンや悪霊以外の他のものとして理解することが可能です。
事実、私たちに対して、強く猛威をふるうものがあります。
私たち人間が、どうしても打ち勝つことのできないものです。
私たち人間の最大の敵は何でしょうか。
それは、私たちすべての人間が抱える罪と、
生きる限りいつか必ず迎えなければならない死です。
罪と死。
これこそ、私たちに対して強い力をもち、私たちに働きかけてくるものです。
私たちは、これらのものに対して無力です。
努力によっても、苦行によっても、断食によっても、禁欲によっても、
何によっても、私たち自身の力では、罪に打ち勝つことはできません。
どんなに評判の良い健康法によっても、どんな病にもきく薬があったとしても、
死から逃れることはできません。
私たちは絶望するばかりです。
しかし、私たちの救いは私たち自身の内からくるものではないのです。
私たちの外から来るのです。
そう、それは私たちを造られた神から来ます。
神が私たちのために、この世界に送られた独り子であるイエス様に、私たちの希望はあるのです。
イエス・キリストは、サタンに対してそうであったように、
罪に対しても、死に対しても、より強い者なのです。
イエス様は、私たちの罪をすべて背負って十字架にかかることによって、
私たちの罪を赦してくださいました。
そして、十字架の上で息を引き取り、その三日後に死を打ち破り、復活されました。
罪も、死も、イエス様を支配することはできなかったのです。
イエス様はこれらのものに打ち勝っただけではありませんでした。
罪や死の支配から、私たちを奪い取り、イエス様は私たちをご自分のものとされたのです。

【あなたたちは神の宝】
イエス様が私たちを、死と罪の支配から解放し、神のものとするための方法は、十字架によるものでした。
それは、このたとえの中で語られているような方法ではありませんでした。
イエス様は、罪や死に圧倒的な力で立ち向かうのではなく、
ご自分の命をかけて、私たちが抱える罪と死の問題に立ち向かったのです。
なぜ、そこまでする必要があったのでしょうか。
イエス様は、このように答えることでしょう。
私は、あなたを愛しているから。
あなたは、私の宝だから。宝の民だから、と。
そう、私たちは神の前に、美しく、尊い、宝のような存在なのです。
たとえどれほど罪深く汚れた存在であったとしても、イエス様はこのように言われることでしょう。
あなたの罪は赦された。
私が、この私が、あなたの罪を背負って、十字架に架かったのだから。
あなたの罪は洗われ、私の前に既に清い存在なのだ、と。
そう、私たちは、神の宝の民なのです。
だから、罪と死の支配にある私たちを、イエス様は救い出してくださったのです。
主イエスによって、私たちは、罪の赦しと復活の希望を与えられるのです。

【神の宝の民なのだから】
主イエスによって救われた者たちの群れを、私たちは教会と呼びます。
教会は、イエス・キリストこそ、私たちの救い、
私たちの唯一の希望と告白する群れです。
イエス様が語ったたとえは、律法学者たちの訴えへの回答として語られた言葉ですが、
私たちはこの言葉を、教会に向けられた言葉としても受け取る必要があるでしょう。
イエス様は言いました。
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。(マルコ3:24-25)
内輪で争う。
それは、いつの時代も、どのような場所でも繰り返されて来たことです。
原因は様々だったことでしょう。
その根底にあるのは、赦せない、愛せないという問題です。
この問題を、私たちは常に抱えています。
では、赦せないこと、愛せないことが、常に私たちの問題となりうるのならば、それは仕方の無いことなのでしょうか。
私たちは、赦せない、愛せないという問題に直面する度に、思い出すべきなのでしょう。
私たちが愛されるに値しない罪人であるにも関わらず、
神に愛され、罪の赦しを与えられているという事実を。
そして、それほどまでに神が私たちを恋い慕い、愛し続けてくださっているのは、
私たちが神の宝の民だから、という事実を。
このように神の宝とされているのは、私たちの目の前にいる一人ひとりです。
教会は、そのような者たちの交わりです。
罪の支配から解放されたにもかかわらず、
私たちが憎しみ合い、赦し合えず、愛し合えず、内輪での争いが引き起こされるのだとしたら、
神は悲しみを覚えることでしょう。
神の愛する人々が、神の宝の民が、互いに傷つけ合うのですから。
イエス様は言われました。
国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。(マルコ3:24-25)
この言葉は、神が与えた愛と赦しで溢れる豊かな交わりを破壊することがないように、との警告と受け取ることができるでしょう。
神の宝の民である私たちが、真実な交わりを持ち、愛し合う。
これこそ、神が主イエス・キリストにあって、私たちに望んでおられることです。
どうか、主イエス・キリストにある平和と一致が、私たちの教会に、
そして、地上のすべての教会の上にありますように。