しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2014年11月28日金曜日

説教#57:「主イエスによって結ばれた共同体」

主イエスによって結ばれた共同体
聖書 マルコによる福音書3:31-35、創世記2:18-25
日時 2014年10月19日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・浦和教会

【最も強い絆とは何なのか?】
私たちは、様々な絆によって他の人々と結びついています。
血のつながり、同じ時間や経験の共有、
夫婦や恋人という男女間の愛、
利害関係、地域社会、趣味、出身地、
世代の近さ、学校、職場、インターネットなど、
私たちは様々なものによって、人との結びつきを得ています。
では、そのような結びつきの中で、最も強い絆とは一体何なのでしょうか。
今日開いた聖書の物語を通して、神は私たちに問いかけます。
「あなたにとって、最も強い絆とは一体何なのか」と。

【「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」】
イエス様の母マリアと、彼の兄弟たちはイエス様についての悪い噂を聞きつけて、
彼を取り押さえにやって来ました(3:21参照)。
イエス様がいる家に着いてみると、
家の中は、彼の話を聞く人々でいっぱいだったため、
彼らは家の外に立ち、使いの者を通して、イエス様を呼びました。
「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」(マルコ3:32)
使いの者が、イエス様にこのように報告した時、
その場にいた人々は、イエス様は当然、直ぐに話を打ち切って、
身内の人々に会いに行くと思ったことでしょう。
しかし、この知らせを聞いたイエス様は、このように言われたのです。
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(マルコ3:33)
なぜイエス様は、このようなわかりきったことを聞くのか、と思うでしょう。
生まれてからずっと一緒に過ごしてきた家族について、
「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と、尋ねるのはおかしなことです。
その場にいた人々も不思議に思ったことでしょう。

【神の御心を行う者たち】
イエス様がこのように問い掛けた理由は、
イエス様が続けて語った言葉によって明らかになりました。
マルコは、その時の様子をこのように報告しています。
周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:34-35)
イエス様は、御自分の周りにいる人々を見回して、
「あなたたちこそ、私の兄弟、姉妹、また母である」と言うのです。
そう、「あなたたちこそ、私の家族である」と。
当然そこにいる人々は、イエス様と血が繋がっていたわけでも、
遠い親戚だったわけでもありません。
それにも関わらず、イエス様が彼らを家族と呼んだ理由とは、何だったのでしょうか。
それは、彼らが、神の御心を行う者であったからです。
神の御心を行う者とは、
イエス様の言葉を聞いて、その言葉に従って生きる人々のことです。
イエス様は、そのような者たちを、「兄弟、姉妹、また母」、
つまり、家族だと呼んだのです。

【「家族」についての意味のズレ】
ここでひとつ気付くことがあります。
それは、私たちが普段使う「家族」という言葉と、
イエス様が考える「家族」との間に、意味のズレがあることです。
「家族」という言葉を辞書で引いてみると、
「夫婦とその血縁関係にある者を中心として構成される集団」と説明されています。
しかし、イエス様が語る「家族」とは、「神の御心を行う人」たちです。
そのような者たちこそ、「わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」とイエス様は語るのです。
そう、イエス様の言う家族とは、
血がつながっている必要もなければ、夫婦である必要もないのです。
もちろん、イエス様はここで、イエス様を信じて従って来る人々、
つまり「教会が神の家族である」ということを語っているのですから、
ズレが生じるのは当然のことです。
このような意味のズレが生じるのは承知の上で、
イエス様が「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と語ったのは、
家族と教会との間に共通するものがあるからです。

【神が、主イエスによって結び合わせる】
では、家族と教会との間で共通するものとは、一体何なのでしょうか。
家族を構成する最小単位は、夫婦といわれています。
ですから、私たちは聖書が夫婦について、どのように語っているかを知る必要があります。
夫婦に関する記事の中で、聖書の一番最初に記されているものは、創世記2章です。
そこにはこのように記されています。
「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世記2:24)
人は、父と母という血縁関係のある肉親から離れて、一人の人と結ばれる。
そう、血による関係を越えるものが、
夫婦の間にあることが、ここでは示唆されています。
イエス様は、創世記に記されているこの言葉を引用しながら、
結婚した男女の関係について、はっきりと宣言しています。
「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マルコ10:6-9)
この言葉は、キリスト教の結婚式で、必ずと言っていいほど読まれる箇所です。
「このふたりは夫婦である」という宣言がなされた後、
「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と。
神が、ふたりを結びつける。
結婚する二人の感情や、立場、
価値観、それぞれのもつ背景など、様々なものを乗り越えて、
ふたりを結びつけるのは、神です。
その意味で、家族は、神が結び合わせた夫婦によって築かれるものなのです。
家族だけでなく、教会も同じです。
神が、私たちと主イエスを出会わせ、結び合わせなければ、
そこに主を信じる人は誰一人としていません。
イエス様は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(マルコ3:35)と言われました。
神の御心を行う人が、初めからいたわけではありません。
人が、神の御心を行うよりも先に、
まずはじめに、神が私たちに働き掛けてくださったのです。
ですから、私たちは神の言葉を聴き、神を知り、神を礼拝し、
神との交わりをもち、そして、神の御心を知ることができるのです。
はじめに、神が私たちを招き、私たちと主イエスを結びつけてくださった。
このことが、神の家族である教会の本質なのです。

【最も強い絆がある】
そういうわけですから、
教会は、主イエスによって結ばれた者たちの群です。
それは、裏を返せば、教会はイエス様がいないと成り立たないと言えます。
血のつながり、同じ時間や経験の共有、
夫婦や恋人という男女間の愛、
利害関係、地域社会、趣味、出身地、
世代の近さ、学校、職場、インターネットなど、
私たちを結びつけるものは数多くありますが、
そのようなものでは、教会はこの地上に立つことはありません。
そのような結びつきによっては、神の家族となることはできません。
教会は、その本質においては、
「主イエスによってのみ」結ばれている共同体なのです。
主イエスによって結ばれる。
これは、他のどんな絆よりも、堅く、強いものです。
なぜなら、神が結びつけたからです。
神が望み続けるならば、存続し続けるのです。
血のつながりよりも、
同じ時間や経験の共有よりも、
利害関係よりも、
はるかに強い、神が結びつけた絆が、教会の内にあるのです。
イエス様は、血のつながりのない人々に対して、言われました。
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」(マルコ3:34-35)
イエス様が、私たちを兄弟、姉妹と呼んでくださるのならば、
私たちは、イエス様によって、お互いを兄弟、姉妹と呼ぶことができます。
イエス様は私たちに向かって語り掛けておられます。
見なさい。ここにあなたの兄弟たちがいる。
ここにあなたの姉妹たちがいる、と。
それは、血による結びつきでもなく、
環境や趣味・嗜好といったものによるものでもなく、
人間的な感情によるものでもありません。
ただ、神が結びつけたというその理由のみによって、
私たちは、互いに兄弟、姉妹と呼び合うのです。

【主イエスに結ばれた共同体の歩み】
では、兄弟姉妹である私たちの絆は、
どのような時に形となって表されていくのでしょうか。
それは、共に御言葉に聞く時に形となっていきます。
御言葉に聞き、神に従い続けようと励まし合うことを通してです。
また、共に祈り合う時に形となっていきます。
共に喜び、共に苦しみ、共に涙を流すことを通してです。
私たちは普段生活する場所が違いますが、
祈りを通して、互いにとりなし合うことによって、
その距離を埋めることができるのです。
そして、この絆は、互いに赦し合い、愛し合う時に形となっていきます。
これらすべてのことを、私たちは、主イエスの御名によって行います。
神が、イエス様にあって、私たちを強く結びつけてくださっているという確信をもって、私たちは交わりを持ち続けるのです。
これこそ、神の御心を行う共同体のあり方です。
神は、この世のどんな絆よりも強く、堅い絆を、
教会という共同体に与えられました。
ですから、私たちは願いましょう。
この絆が、主イエスにあって、ますます強められることを。
そして、私たちが、イエス様にあって結ばれた共同体であり続けることができるようにと。