説教#61:「異質な香りを放つ共同体」

異質な香りを放つ共同体
聖書 エフェソの信徒への手紙5:1-5
日時 2014年11月20日(木)
場所 KGK、御茶ノ水ブロック

【キリスト者の倫理の原則】
あなたたちは「神に倣う者となりなさい」(1節)。
あなたたちは「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。
あなたたちは「みだらなことや色々の汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)。
エフェソ5章のはじめの5節は、3つの命令文が中心となって構成されています。
ここで語られている命令には、ひとつの前提があります。
それは、エフェソ書の中でこれまで語られてきたことです。
エフェソ書は、前半、最初の3章を通して、「クリスチャンとはどのような存在なのか」と問題を、教会論を中心に取り扱っています。
自分の過ちと罪のゆえに死んでいた私たちが、
神の豊かな恵みゆえに、キリストによって、神の子どもとされている。
そして、神はキリストにおいて私たちをひとつに結び合わせ、
私たちを教会というひとつの共同体の一員にしてくださった。
キリストの十字架によって地上に建てられた、この教会という群に、私たちは呼び集められた。
キリストによって、憎しみと争いの中に生きていた私たちの内に、
和解と平和がもたらされ、この教会という共同体の内にそれは実現している、と。
このような神の偉大な恵みのわざを語った後に、
著者は、倫理問題へと踏み込んでいくのです。
これは、キリスト者の倫理を考える上で、とても重要な原則です。
キリストを信じる者とは、神の前にどのような存在なのか。
そこから始めることにによってのみ、
「私たちは、クリスチャンとしてどう生きるべきか」と問うことが出来るのです。

【神の子どもであるキリスト者は、神に倣う者となれ】
では、私たちは一体、どのような存在なのでしょうか。
著者は、5章1節でこのように述べています。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
あなたがたは、神に愛されている子ども。
そう、キリスト者とは、神の子どもなのです。
私たちが、才能があったからでも、
多くの財産をもっていたからでも、
正しい行いをしているからでもなく、
神が、私たちを愛するという決断をしてくださった。
ただ、神の恵みと憐れみによって、私たちは子とされているのです。
キリスト者の倫理は、この事実から始まります。
「神が私たちを愛してくださった」ということが、その根底にあるのです。
あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1)
神に倣う者となる。
それは、このような神の子としての特権が与えられているのだから、
神の愛に応答すべきであるという招きです。
4章からの流れと、エフェソ全体でテーマとなっている「和解」という文脈から考えると、
神に倣うとは、具体的には「人を赦す」ということでしょう。
4:32には、このように記されています。
互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。(エフェソ4:32)
神の子は、神に愛され、罪赦された者なのです。
ですから、神に倣うように、
「神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」
と招かれているのです。

【神の前に良い香りを放つ共同体となれ】
著者は、続けて命じます。
キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。(エフェソ5:2)
「愛のうちに歩め」と著者は勧めます。
新共同訳聖書では、「愛によって歩みなさい」と訳されていますが、
ここでは、新改訳聖書のように「愛の内に歩みなさい」と訳す方が自然です。
「愛のうちに歩む」とは、著者によれば、
キリストがしたように、神の前に良い香りを放つ生き方です。
神の前に良い香りを放つ歩みとは、どのようなものでしょうか。
それは、神に対するあらゆることへの感謝、祈り、賛美、愛に溢れる交わりです。
そして、イエス様が私たちの罪を赦すために、十字架に架かったことが、神の前に良い香りであるように、
私たちが、人を赦すために行う行動、思い、決断、語る言葉、
そのすべてが神の前には香り高いことなのです。
そう、共同体における和解、
共同体における平和の実現は、神の前に良い香りを放つのです。

【和解を必要とし続ける共同体】
しかし、「教会」と呼ばれる共同体は、
神の前にのみ、香りを放つわけではありません。
周囲の人々や、同じ共同体にいる人々の間にも、香りを放ちます。
良い香りを放つ時もあれば、
時に、異臭や悪臭を漂わせることだってあります。
いや、もしかしたら、そのようなことの方が多いのかもしれません。
私たちは、神に愛され、罪赦され、神の子とされた者ですが、
それでも、罪人としての性質が多く残っているのですから。
だからこそ、著者は、命じるのです。
「神に倣う者となりなさい」(1節)。
「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。
「みだらなことや色々の汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)と。
3-4節は、みだらなこと、色々な汚れたこと、貪欲なことなどが、
あまりにも簡単に話題に持ち上がるような交わりの仕方をしてはいけない、という警告です。
著者が、このように強く命じるのは、
これらのことが、交わりに悪い影響を及ぼし、神の前に異臭や悪臭を放つからです。
神や人を喜ばせるためでなく、自分を喜ばせるための、自己中心的な生き方は、
神に倣い、愛のうちに歩むこととは、程遠いことなのです。
そういう意味で、自己中心的な生き方は、
本質的には、目の前にいる人を愛しているとはいえません。
これは決して、他人ごと済む話ではありません。
みだらなことや色々の汚れたこと、
あるいは貪欲なことを口にすることは少ないかもしれませんが、
私たちは、自己中心的に生きることを非常に好みます。
そのため、自己中心的な者同士である私たちは、
時に、争い合い、裁き合い、排除し合います。
赦し合い、愛し合うことができないため、
交わりを建て上げるような言葉を紡ぐことができません。
私たちには、私たちと神だけでなく、
私たち人間同士を結び合わせ、和解させる、キリストの十字架が必要なのです。
「私たち」という共同体が、「愛のうちに生きる」ためには、
神が、キリストにあって、私たちを結び合わせてくださる必要があるのです。

【愛し合うことの難しさ】
しかし、正直、「愛する」って本当に難しいことだと思うんです。
本当に色々な人がいます。
すべての人を心から愛そうと願えば願うほど、
愛することができない自分がいる、という現実に直面せざるを得ません。
教会をクリスチャンの集まりだからといって、理想化することはできません。
罪深い人間の集まりなのですから、どんな教会にも傷があります。
愛し合うことができないという問題は、
常に教会が抱え続けている問題なのです。
著者が、キリスト者を「神の子」と呼ぶ時、
そこには、イエス様が私たちを愛してくださったという事実が、前提としてあります。
イエス様が愛してくださった者として、いつも愛し合いなさい、と。
しかし、愛しなさいと命令されて、愛する心が私たちの内に芽生えることはないでしょう。
感情をもって愛するということは、命令されてもできることではありません。
しかし、行ないによって愛を示すことならばできるはずです。
イエス様がこの人を愛してくださったのだから、
イエス様に愛されている人を、行動をもって愛する。
やがて愛する感情が伴ってくるようにと祈りながら。
旧約聖書の雅歌には、このような言葉があります。 
エルサレムのおとめたちよ野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください愛がそれを望むまでは愛を呼びさまさないと。(雅歌2:7)
愛することを、急ぎすぎてもいけないんですね。
キリストが愛してくださったように、愛したいと願う。
愛とは、行動をもってあらわすもの。
その行動の先に、愛する思いが呼び覚まされると願いながら、
愛のある行動をし続けていく。
やがて、本当の意味で愛し合うことができる日が来ることを待ち望みながら、
私たちは交わりを持ち続けるのです。
そのような意味で、「愛せない」ことに直面することが問題なのではありません。
「愛さない」と決断して、
愛のない行動を、目の前にいる人々に対して続けることこそが問題なのです。
それは、神と人の前に、異臭や悪臭を放つことです。
そのような交わりの持ち方をするのではなく、
神が私たちを愛し、赦してくださったように、愛し、赦し合いなさいと、
著者は、「神に倣う者となりなさい」と述べることによって、伝えているのです。
これが、主イエスによってひとつに結ばれた共同体の生き方です。
愛せない人を排除するのではなく、
それでも愛したいと願いながら受け入れて、共に歩んでいく。
困難を覚えながらも、キリストのもとに集い、
ひとつとなり続けようと願い続ける交わりが、教会なのです。
やがて天の御国に辿り着く時、
心から愛し合う交わりを持つことが出来る、そのような日が来ることを願い、
待ち望みながら、私たちは共に歩んで行くのです。
教会においても、学内においても、
ブロックにおいても、そして、家庭においても。
このような交わりを築いていくことは、とても困難なことです。
だから、私たちは苦しみ、葛藤し、時には涙を流します。
しかし、神に倣う者たちが、交わりのために苦しみ、葛藤する、このような姿は、
神の前に、良い香りを放っているといえるでしょう。
それは、私たちにとって大きな励ましです。
この世界は、このような交わりの持ち方を否定するかもしれません。
気に入らない奴や、愛せない奴は、切り捨てれば良いじゃないか。
追い出せば良いじゃないか、と。
しかし、私たちは、この世が当たり前のように出す、このような答えに対して、
「ノー」と言い続けるのです。
神が愛し、赦してくださったように、
私たちは、互いに愛し合い、赦し合うのだ、と。
そのようにして教会は、この世が放つ香りとは本質的に異なる、異質な香りを放つのです。
キリストが愛してくださったように、愛する。
赦してくださったように、赦す。
そのようにして、愛のうちに、神の愛のうちに歩み続けていくように招かれているのが、
教会という共同体なのです。

【異質な香りを放つ共同体は、共に福音に生きる】
今年度の御茶ノ水ブロックのテーマは、「共に福音に生きる」。
私たちは、神が与えてくださった教会という共同体で、
「共に福音に生きる」ようにと招かれています。
それは、キリストが愛し、赦してくださったように、
互いに愛し合い、赦し合う交わりです。
神の愛のうちに歩もうと励まし合う交わりです。
学生時代、KGKという交わりに導かれた皆さんは、
教会の交わりの中で「共に福音に生きる」歩みをしていると共に、
学内やブロック、地区で出会う人々と出会い、交わりをもちます。
エフェソ書の著者の願いであり、私たちの父なる神の願いは、
主にあるこれらの交わりが、キリストの香りを放つ交わりであり続けることです。
神の愛のうちに歩み続けることです。
ですから、私たちは祈り求めて歩んでいきましょう。
神の前に香り高く、
そして、世に対しては、異質な香りを放つ歩みができるように。
神が、私たちを結び合わせてくださった。

その喜びと感謝をもって。

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