説教#67:「天に属する者たちよ」

天に属する者たちよ
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:35-49、創世記5:1-5
日時 2015年5月3日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【体の復活を否定する人々の存在】
パウロは、コリント教会の人々が抱いている疑問についてこのように語りました。
死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。(Ⅰコリ15:35)
ここでパウロは、「どんな形で死者は復活するのか」ということを問題にしています。
パウロがこの問題を取り扱ったのは、
コリント教会の人々が、死者の復活について誤った理解をしていたからです。
彼らは、ギリシア人的な物の考え方に強く影響を受けていました。
ギリシア人的な物の考え方によれば、肉体は魂の牢獄です。
ですから、彼らは「体の復活」など馬鹿らしいことだと考えました。
彼らにとって救いとは、魂が体から逃走することでした。
しかし、聖書は、復活をそのようなものとしては教えていません。
また、パウロが大切なものとして受け取った福音も、そのようには語っていません。
ですから、パウロは「からだの復活」について、コリント教会に語る必要があったのです。


【復活の体の連続性】
しかし、「からだの復活」が実際にどのように起こるのかについて、その詳細はまったくわかりません。
復活は、完全に神に委ねられている領域だからです。
旧約聖書とイエス様の語った言葉を通して、私たちはその一部を知ることが許されています。
しかし、それでも、「体の復活」について述べることは難しいことだとパウロは理解していました。
そのため、彼はふたつの例を挙げることから、「体の復活」についての説明を始めました。
この二つの例を伝えることを通して、
読者が、体の復活について理解がしやすくなると彼は考えたのです。
ひとつ目の事柄は、36-37節に記されています。
愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 (Ⅰコリ15:36-37)
パウロがこの種の話を通して伝えたかったことは、
私たちの体と、復活の体との間にある連続性についてです。
そう。復活とは、種の成長のようなものなのです。
種は、蒔かれる前と、蒔かれた後では全く違うもののように見えます。
しかし、種も、種が成長して収穫する麦や他の穀物も、
どちらも元は同じものです。
変化があるが、確かに、同じものなのです。
同じように、私たちの体も、復活の時に変化を経験します。
しかし、それは確かに同じものなのです。
同じものでありながら、変化を経験するのです。
復活の時、今の自分の体と全く関係のない体が与えられるのではありません。
今の体と関係する、変化の与えられた復活の体が私たちには与えられるのです。

【復活の日に与えられる体の変容】
パウロは、この連続性をもった変化について、42-43節でこのように述べています。
死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(Ⅰコリ15:42-43)
私たちの体が、神の恵みによって復活の体に変えられる出来事を、
パウロはここで希望をもって、力強く描写しています。
神がその日と定めた時、神はキリストにあって、恵みによって私たちを復活させます。
その時、朽ちるものは朽ちないものに変えられます。
この世ではすべてのものは変化します。
そして、やがて朽ち果てます。
どんな完全なものでも、そうなるのです。
しかし、私たちに将来与えられる復活の体は、朽ちるものではありません。
朽ちない体が私たちに与えられるのです。
そして、その時、卑しいものは輝かしいものに変えられます。
ここで「輝かしいもの」と訳されている言葉は、栄光という意味の言葉です。
また、「卑しい」と訳されている言葉は、栄光がないという意味で使われています。
私たちはあまりにも簡単に罪の奴隷になります。
あまりにも簡単に、憎しみや妬みといった、自分の感情の奴隷になります。
そのようなとき、私たちは神の栄光を表せていません。
しかし、復活の体はそうではないのです。
私たちは、神の栄光を表す者へと変えられるのです。
また、神が定められたその日、その時、弱いものは力強いものへと変えられます。
私たちは自分の強さをよく誇りますが、弱さこそが、私たち人間の特徴です。
肉体の弱さを抱えます。
限界も感じます。
挫折もします。
そのような私たちを、神は復活の日に強くしてくださるのです。

【神の御心のままに、体は与えられる】
そして、パウロはふたつ目の事柄について、このように語ります。
神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。また、天上の体と地上の体があります。しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。(Ⅰコリ15:38-41)
パウロは、この世界にある様々な体のあり方について述べています。
この世界を造られた神は、実に豊かな方法で、
この世界のすべてのものをデザインされました。
神は、すべてのものを、全く同じようには造られませんでした。
この世界を注意深く見渡す時、私たちは神の創造の豊かさに気付き、圧倒されます。
神の創造には、無限の多様性があるからです。
私たち人間は、この世界の様々な生き物や動植物たちを分類し、それらに名前を付けます。
それは、神の造った被造物が、それぞれに特徴を持っていて、違いがあるからです。
たとえ、同じ種類に分類された動植物であっても、違いがあります。
目の色、鼻の形、毛並み、性格など、違いは様々です。
この無限の多様性は、神がこの世界のすべての被造物に与えられたものです。
当然、私たち人間にも与えられています。
ですから、私たちに将来与えられる復活の体にも、
神のこの多様性に満ちた創造のわざは及ぶのです。
無限の多様性を私たちに与えられた神は、
御心のままに、私たちに復活の体を与えられる方なのです。

【神によって与えられた体】
種の成長に見る連続性と、多様性に満ちた神の創造のわざについて述べた後、パウロは続けて語ります。
「死者の復活もこれと同じです」(Ⅰコリ15:42)と。
そうです。
今与えられている体と、復活の時に与えられる体の間には、
種の成長に見られるような連続性があるのです。
そして、創造の豊かさが力強く復活の体によって表されるのです。
パウロは、42-44節で、そのことをより詳しく語っています。
彼の結論は44節に記されています。
つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。(Ⅰコリ15:44)
パウロは、連続性のある今与えられている体と、復活の時に与えられる体を、
それぞれ、「自然の命の体」と「霊の体」と呼んでいます。
ここで「自然の命の体」という表現は、創世記2章7節に記されている、人間の創造に基づく表現です。
そこにはこのように記されています。
主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2:7)
神が命を吹き込まれた土の塵。
これが、生きている人間についての聖書の理解です。
ですから、当時のギリシアで広まっていた、肉体は魂の牢獄といった考え方を聖書は拒否しています。
この体は、神によって造られ、神によって与えられたものなのですから。
そして、神によって与えられた体が死を迎えた後、霊の体が復活する、とパウロは語ります。
霊の体とは、霊や蒸気で造られているという意味ではありません。
それは、聖霊によって決定され、実際に聖霊が住んでいるという意味での霊の体です。
復活の体は、聖霊が完全な形で私たちと共にいることができる体なのです。
復活の日、私たちの罪は完全に取り除かれ、
私たちと聖霊の交わりを妨げる罪がなくなるからです。

【天に属する者たちよ】
45-49節を見てみると、パウロは、自然の命の体を持つ者を「地に属する者」、
そして、霊の体を持つ者を「天に属する者」と呼んでいます。
そうです。パウロによれば、私たちのこの体は、地に属する体なのです。
それは、最初の人であるアダムが、土の塵によって形造られたからです。
ですから、土に属する私たちは、土へと帰らなければなりません。
しかし、私たちは、主キリストにあって、復活の望みが与えられています。
第二のアダムである主イエスにあって、私たちは、天に属する者とされるのです。
それは、パウロが語るように、イエス様が、天に属する者だからです。
そうです。私たちは天に属する復活のからだが与えられるのです。

【天の御国に国籍がある】
私たちは地に属していると共に、神の約束によって、天に属している者です。
それは、私たちが、ふたつの国籍をもって生きているということを意味します。
誰もが、この地上で国籍を持っています。
もしも、私たちが天に属するのであれば、
私たちにはもうひとつの国籍、つまり天の御国の国籍があるといえるでしょう。
それは、神の約束によって確かなことです。
私たちは主イエスにあって、天に属する者です。
その意味で、私たちは二重国籍者です。
しかし、常に二重国籍者として生きることができるわけではないでしょう。
時に、どちらか一方を選ばなければならないときがあるのですから。
最終的に地に属するのか。それとも天に属するのか。
もしも、どちらを選ぶべきかを問われたならば、
私たちは、天の御国の国籍を選ぼうではありませんか。
将来、天に属する体が与えられると約束されているのですから。
特定の国に国籍をもっているということは、
言葉や生き方がその国の人らしい、ということができるでしょう。
それを望むにせよ、望まないにせよ、
その国の文化の中で生きる限り、私たちはその国の者らしくなっていきます。
ヘブライ人はヘブライ人のように。
ギリシア人はギリシア人のように。
アメリカ人はアメリカ人のように。
韓国人は韓国人のように。
日本人は日本人のように、といった具合に。
しかし、私たちは完全な形でこの地に属することは選びません。
私たちが第一の故郷としているのは、私たちがこの地上で国籍を持つ国ではないからです。
私たちが第一の故郷とすべきなのは、天の御国です。
ですから、私たちは何よりも天の御国に国籍を持つ者らしく生きようではありませんか。
それがどのような生き方なのかは、天に属する者である、イエス様が教えてくれました。
イエス様の生き方こそが、まさに天に国籍を持つ者にふさわしい生き方です。
イエス様が今ここにいたら、どう物事を考えるでしょうか?
何を感じるでしょうか?
どのような言葉を語るでしょうか?
どのような祈りをするでしょうか?
どのような行動を起こすでしょうか?
イエス様に似た者に変えられていくことを願いながら、私たちは日々歩んでいきましょう。
私たちは出て行く先々で、自分に問い掛けましょう。
イエス様なら、今ここでどうするだろうか?と。
御言葉を通して、神によって、イエス様の似姿へと変えらることを願う時、
私たちは、天に属する者にますます相応しい者と変えられていくのです。
そして、私たちは、私たち自身が変えられていくことを通して、
天の御国を指し示すのです。
天の御国を指し示し、神はあなたもこの御国へと招いているのだと、
私たちは生き方を通して証ししようではありませんか。
私たちは天に属する者なのですから。

このブログの人気の投稿

Macじゃないよ、アルバムだよ

説教#162:「子ロバでありたい」