説教#71:「すべてが愛のうちに生じるならば」

すべてが愛のうちに生じるならば
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 16:13−14、レビ記19:17-18
日時 2015年5月31日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【「目を覚ましていなさい」】
パウロは、いよいよコリント教会へ宛てた第一の手紙を閉じようとしています。
手紙を閉じるにあたって、彼は5つの勧告をコリント教会に向けて語りました。
それはこのようなものでした。
目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。(Ⅰコリ16:13-14)
1つ目の勧告として、
「(あなたがたは)目を覚ましていなさい」とパウロは語りました。
パウロの書いた他の手紙を読んでみると、
彼はいつも、イエス様が将来再び来るという文脈の中で、
「目を覚ましていなさい」と言っていることに気付きます。
ですから、「イエス様が再び来られる日を待ち望みなさい」という意味で、
パウロは「目を覚ましていなさい」と言っているのです。
彼はイエス様がすぐに来ると信じていました。
いつかはわからないけども、
近い将来、自分が生きている間にイエス様は再び来ると。
ですから、この言葉を通して、
パウロはコリント教会の人々に緊張感を与えているといえるでしょう。
イエス様がすぐに来るのだから、目を覚ましていなさい、と。
このパウロの言葉は、15章で彼が語った「死者の復活」が深く関わっています。
15章でパウロがコリント教会の人々に伝えたのは、
イエス様が再び来られる時、神の恵みによって死者が復活するということです。
その意味で、イエス様が来られる日を待ち望むとは、
復活の希望をしっかりと握り締めて生きることだと言えます。
この復活の希望に相応しい生き方をして欲しいと願ったため、
パウロは「目を覚ましていなさい」とコリント教会の人々に向けて語ったのです。
あなたたちが与えられている希望に相応しく生きなさい。
「どうせ死んだらすべて終わりなのだから」と言って、
自暴自棄な生活を送るべきではない。
「目を覚ましていなさい」と。
これは私たちにとっても、重要な命令といえるでしょう。
私たちもイエス様が再び来られることを、待ち望みながら生きているのですから。


【「信仰に堅く立ちなさい」】
続けてパウロは「(あなたがたは)信仰に基づいてしっかり立ちなさい」と命じました。
この言葉は、最初の勧告と同じように、「復活の希望」と関係しています。
というのは、パウロは15章の最後で
「しっかり立ちなさい」(58節参照)と言っているからです。
パウロが15章を通して伝えたかったのは、福音にしっかり立つことでした。
福音は、私たちにとって「最も大切なこと」であり、
私たちのアイデンティティをしっかり基礎付けるものだからです。
そのため、パウロは「信仰にしっかり立ちなさい」と言うのです。
福音を聞くことによって受け取った信仰に、しっかりと立ちなさい、と。
パウロはここで、「信仰に」と言っています。
ここで注目すべきことは、信仰という言葉に、彼が何も付け足していないことです。
たとえば、もしもこの箇所が「あなたがたの信仰にしっかり立ちなさい」
だったら、どういう意味になるでしょうか。
この文だけ抜き出して考えるならば、自然な言葉となるでしょう。
その場合、あなたたちが自分たちのものとして受け取った信仰に、
しっかりと立ちなさい、という意味になります。
しかし、この箇所ではそのようにはなりません。
というのは、パウロは特定の教会に語り、手紙の中でこれまで語ってきた文脈の中で、
「信仰にしっかりと立ちなさい」と言っているからです。
もしも、彼が「あなたがたの信仰に」と語ったのなら、
パウロはコリント教会の、現在の信仰のあり方を肯定することになってしまいます。
コリント教会の人々の信仰には、偏りがありました。
それは、「自分はパウロ派だ」、「あの人はアポロ派だ」といって、
分裂を引き起こすほどのものだったようです。
信仰の偏りの結果として、互いに裁き合う現実が、コリントの教会にはありました。
彼らは、偏りのある「自分たちなりの信仰のあり方」に立っていたのです。
そのため、パウロは「あなたがたの信仰にしっかり立ちなさい」とは、
コリント教会の人々に向かって言えなかったのです。
「あなたがたの信仰」と言ってしまうと、
個人や特定のグループの態度や経験のみに基づいた信仰のあり方を、
励ますことになってしまうからです。
信仰とは、私たちが考えているよりも、豊かなものです。
文化や民族、言葉、世代など、様々なものを乗り越えて、
福音は私たちのもとに伝わってきました。
そして、その福音を聞いた私たちに与えられたのが、信仰だからです。
そのため、私たちに与えられている信仰とは、
文化や民族、言葉、世代など様々なものを乗り越えてきたものです。
そして、その背景には長い長い教会の歴史があるのです。
ひとつの教会の歴史だけではありません。
2000年にもわたる教会の歴史を通して、育まれてきた信仰の上に、
私たちは立っているのです。
パウロは、この信仰にしっかり立ちなさいと励ましているのです。

【「雄々しく強く生きなさい」】
次に、「雄々しく強く生きなさい」とパウロはコリント教会の人々に勧めています。
新共同訳聖書は、ひとつの命令のように訳していますが、
実際には、「雄々しくあれ」「強くあれ」というふたつの命令として記されています。
このふたつの勧告を、パウロは詩編31:24-25を意識して語ったのでしょう。
そこにはこう記されています。
主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ。主は信仰ある人を守り、傲慢な者には厳しく報いられる。雄々しくあれ、心を強くせよ  主を待ち望む人はすべて。(詩編31:24-25)
「主の慈しみに生きる人はすべて、主を愛せよ」という言葉の後に、
「雄々しくあれ」、「心を強くせよ」と詩編の詩人は述べています。
ということは、このふたつの命令は、神に対する愛に根付いているものといえます。
パウロはこの詩編を意識してコリント教会に語っているのですから、
彼はコリント教会の人々が「神の愛に根付いて生きること」を何より求めていたといえるでしょう。
コリント教会は、神に対する愛よりも、自分自身に対する愛に満ちていました。
行き過ぎた自己愛は、高慢さを生みます。
そのため、彼らは互いに裁き合っていたのです。
ですから、パウロは願いました。
どうにかして、コリント教会が互いに愛し合うようになって欲しい、と。
そして、彼らが神への愛と、神の愛に基づく隣人愛に生きる者として歩んで欲しいと、
パウロは強く強く願ったのです。

【「何事も愛をもって行いなさい」】
そのため、パウロが5つ目に挙げた勧告は、最も重要なものであり、
パウロが最もコリント教会の人々に伝えたいことでした。
彼は勧めます。
「何事も愛をもって行いなさい」と。
この言葉をギリシア語から直訳してみると、
「あなたがたのすべてが愛のうちに生じるように」となります。
他の4つの勧告が「あなたがた」が主語になっているのに対して、
最後の勧告のみ、「あなたがたのすべて」が主語になっています。
コリント教会の人々のすべてのことが、愛のうちに生じるように、
とパウロは切実に願っています。
それは、この勧告こそが、パウロが語っている5つの勧告の中で、最も大切なものだからです。
愛は、他のすべての命令の根底にあるものだからです。
ですから、パウロはコリント教会の人々に切実に願いました。
彼らの行いが、すべて愛を動機として行われるように。
彼らの言葉が、すべて愛を動機として語られるように。
神の愛が、彼らの心の、その隅々まで行き渡りますように、と。
パウロのこの言葉を読む時、この手紙の13章を思い起こすことでしょう。
13章でパウロはこのように書いています。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。(Ⅰコリ13:1-3)
コリント教会の人々は、自分は信仰的なクリスチャンだと考えていました。
しかし、どれほど素晴らしい信仰的な行ないが出来ても、愛がなければ空しい。
また、パウロがお願いしたエルサレムへの献金を、彼らは喜んで捧げることでしょう。
しかし、どれほど多くの献金を捧げたとしても、愛がなければ空しい。
何よりも大切なのは、愛です。
神の愛こそが、教会の基礎であり、
神の愛こそが、信仰者の出発点であり、すべての行動の動機であるべきです。
そう確信していたからこそ、パウロはコリント教会の人々に語り掛けたのです。
「あなたがたのすべてが愛のうちに生じるように」と。

【神の愛に基づいて生きる】
パウロの言葉は挑戦的なものです。
「愛せない」という問題をコリント教会は抱えていたのですから。
そんなコリント教会に対して、パウロは、愛について語ったのです。
そのため、パウロの言葉を聞いたコリント教会の人々は、
毎日の生活の中で、自分は一体何を動機として生きてきたかが問われたことでしょう。
彼らを突き動かすものは何だったでしょうか?
それは、同じコリント教会のメンバーに対する憎しみや妬み。
自分に多くの利益をもたらしたいという打算的な思い。
コリント教会の人々は、そのような思いで支配されていました。
そのため、彼らは、イエス様が最も大切な掟であると伝えた言葉を忘れていました。
「神を愛しなさい」「隣人を愛しなさい」。
そして、「互いに愛し合いなさい」という命令です。
コリント教会の抱えていた問題は、何も彼ら特有の問題ではありません。
私たち自身も、常に抱えている問題です。
パウロは「あなたがたのすべてが愛のうちに生じるように」と語りました。
しかし、正直、私たちの行いのすべてが愛のうちに生じていると、
胸を張って言うことはできないでしょう。
私たちの行動や言葉が、純粋に、神に対する愛から生じることも、
隣人に対する愛から生じることもありますが、
同じくらい、いや、それ以上に、自分への愛や、
他人への憎しみや嫉妬といった感情から生じることも多くあります。
「すべてが愛のうちに生じることなど無理だ」
と言わざるを得ない現実と、私たちは毎日のように向き合っています。
「愛したい」「愛したい」と願いながらも、
それが出来ない自分自身の現実に、私たちは失望さえ覚えます。
しかし、パウロは決して、自分自身の内側から出てくる愛によって、
愛しなさいとは言いませんでした。
パウロが14節で「あなたがたのすべてが愛のうちに生じるように」と語った際、
彼が用いている「愛」という意味のギリシア語は、「アガペー」です。
そう、「神の愛」です。
神の愛は私たちの内側からではなく、私たちの外側から来るものです。
私たちが受け止めきれないほどに、神の愛は私たちに日々注がれ続けています。
神は、私たち一人一人に向かって、
「わたしはあなたを愛している」と語り続けておられます。
主イエスを通して、神の愛は私たちに示されました。
十字架の死によって、私たちの罪の赦しを宣言し、
復活によって、死への勝利を約束することによって。
そして、聖霊によって、神の愛は私たちに日々注がれ続けています。
そうです。
神の愛を受け取って、その愛を携えて生きるようにと私たちは招かれているのです。
私たちが携える神の愛は、私たちのすべての動機となります。
ですから、私たちの行いのすべてと、私たちの言葉すべてが、
神の愛の内から生じることを心から願いましょう。
神の愛を受け取った私たちは、愛を動機として生きることができるはずです。
そして、すべてが神の愛のうちに生じるならば、
教会はこの世界に神の愛を証しする共同体として立ち続けることになるでしょう。
神の愛を受け止める時、教会は、神の愛を証しし、神の愛が溢れる泉となるのですから。
神は、私たち自身を通して、また、私たちの交わりや教会という信仰者の群を通して、
この世界に愛を表すことを選ばれました。
そうです。
他ならぬ、私達自身が、神の愛を受け取って、神の愛を携えて生きることによって、
神はその愛の手を伸ばされるのです。
神の愛を受け取った、私たち自身を豊かに用いることを通して。
そのようにして、私たちは天の御国へと続く旅を、神の愛を携えて歩んでいるのです。
この旅の途中、きっと、様々なものを手に入れ、そして失っていくことでしょう。
何かを失いたくがないために、
大切なものを手放さなければならない日も、時には訪れます。
しかし、最後まで神の愛を抱き続けていきましょう。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。愛を追い求めなさい。(Ⅰコリント13:13-14:1)
愛する主にある兄弟姉妹である皆さん、
すべてが神の愛の内に生じるようにと願い、愛を追い求めて歩んで行きましょう。

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