しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年6月7日日曜日

説教#72:「互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う」

互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 16:15−20、創世記33:1-11
日時 2015年6月7日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【信仰者の模範を示す】
パウロは最後の挨拶をコリント教会に宛てて書いている中で、
5人の人物の名前を挙げています。
その5人とは、ステファナ、ファルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカです。
彼らは、コリント教会と、とても関係の深い人々でした。
パウロはここで、この5人を「信仰者の具体的な模範」として、
コリント教会の人々に示しています。
パウロが、具体的な信仰者の模範をコリント教会に示したのには、
当然わけがありました。
彼は、14節で「何事も愛をもって行いなさい」と語りました。
何事も、神の愛が行動の動機となるように、と。
しかし、この勧めだけでは不十分だと彼は考えたのです。
そのため、「愛を実際に行動に表したらどうなるのか」ということを、
パウロは具体的に示す必要を感じました。
しかし、パウロは、いつもコリント教会の人々と一緒にいるわけではないため、
彼自身が彼らのそばで生活をして、彼らの模範となることはできませんでした。
ですからパウロは、彼らの身近にいて、
彼らがよく知る人々を、信仰の模範として示したのです。
ステファナ、ファルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカを通して、
パウロは、「何事も愛をもって行う」ということを、コリント教会に示したのです。


【「ディアコニア」として生きる~神の愛こそが最大の動機】
ここでパウロは、特にステファナとその一家について語っています。
兄弟たち、お願いします。あなたがたも知っているように、ステファナの一家は、アカイア州の初穂で、聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました。どうか、あなたがたもこの人たちや、彼らと一緒に働き、労苦してきたすべての人々に従ってください。(Ⅰコリ16:15-16)
ステファナの一家は、アカイアの初穂であるとパウロは述べています。
アカイアは、コリントの周辺の地域のことです。
ですから、ステファナの一家は、
パウロにとってコリント周辺の地域での「初穂」、
つまり、初めてパウロがコリントで洗礼を授けた人々だったことがわかります。
そのため、彼らは、コリント教会の初期のメンバーとして、知られていました。
そんなステファナの一家について、
パウロは「聖なる者たちに対して労を惜しまず世話をしてくれました」と言っています。
この箇所を、直訳すると、
「聖なる者たちに対する奉仕に自らを任命した」となります。
ここで「奉仕」と訳すことのできるギリシア語は、「ディアコニア」という単語です。
この「ディアコニア」という奉仕こそが、
「何事も愛をもって行いなさい」という言葉を、具体的に表す行動だとパウロは考えていました。
そのもともとの意味は、「給仕をする」「食卓に仕える」です。
それは奴隷が自分の意志を殺して、
ただひたすら主人のために仕えることを表わす言葉です。
正直、あまり魅力的ではない言葉を、「奉仕」という意味でパウロは使っています。
「ディアコニア」という言葉が、奴隷が自分の意志を殺して、
ただひたすら主人のために仕えることを表わすその背景には、
恐らく、主人への絶対的な服従や恐れがあるのでしょう。
しかし、キリストにある奉仕者は、そのようなものを動機とはしません。
ただそこにあるのは、神の愛が日々注がれていることへの感謝と喜びです。
私たちに感謝と喜びをもたらした神の愛こそが、
私たちの奉仕の最大の動機となるべきなのです。

【喜びと感謝をもって「ディアコニア」として生きる】
また、奉仕を意味する単語「ディアコニア」は、「食卓に仕える」という意味があるのですから、
私たちのなす奉仕も、同じような側面を持っているといえるでしょう。
食卓に仕える者が、食事を出して、その食事を食べてもらう対象を必要とするように、
奉仕にも、対象となる相手が必要です。
神のため、そして隣人のためになされるのが奉仕といえるでしょう。
その意味で、奉仕は決してひとりで完結するものではないといえます。
そして、食卓の給仕役は、テーブルについている人々に最高のもてなしをし、喜ばせようと努めるでしょう。
奉仕もこれと同じ側面をもっています。
奉仕は、神に対する愛、人に対する愛が示されるものです。
また、神が喜び、隣人が喜ぶことを願い、私たちは奉仕をするのです。
ステファナの一家の奉仕は、まさにそのようなものだったのでしょう。
彼らは神の愛に促され、喜びと感謝をもって奉仕をしていました。
そんな彼らの奉仕の姿勢を見倣うようにと、パウロは述べているのです。

【互いに仕え合いなさい】
このような奉仕の姿勢をパウロは勧めていますが、
コリント教会の人々は、奉仕についてどのような態度をとっていたのでしょうか。
コリント教会には争いがあり、分裂が起こっていました。
そのため、彼らはお互いに裁き合っていました。
お互いの主張ばかりではなく、些細な事に至るまで、
彼らはお互いに批判し合っていたことでしょう。
当然、それは奉仕の姿勢についても現れてきました。
奉仕は、自分以外の誰かを対象としてなされるため、
常に、自分と人を比べる危険性があります。
自分を人と比べた結果、2つのことが起こり得ます。
ひとつは、自分の与えられているものを隠すことです。
神は、私たち人間を、みんな同じようには造られませんでした。
得意なこともあれば、不得意なこともある。
好みも、ものの考え方も違う存在として、神は私たち一人ひとりを造られています。
ですから、神に造られた私たちの存在そのものが尊いものだといえるでしょう。
そんな私たちが、与えられているユニークな部分、賜物と呼べるものを、
自分は人よりも劣っているのだからという理由で隠す、
ということは起こり得ることです。
また、反対に、自分には素晴らしいものが与えられているといって、思い高ぶる危険もあります。
コリント教会では、このようなかたちで奉仕が理解されていたのだと、
パウロの手紙を通して推測することができます。
彼らは、奉仕をそのようなものとして捉えていたため、
コリント教会の人々には、喜びや感謝がなかったのでしょう。
だからこそ、パウロはこのような問題を抱えているコリント教会のために、
12章で、「キリストのからだ」としての教会について語りました。
彼は12:21-22でこう述べています。
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(Ⅰコリ12:21-22)
もしも、目に見える成果で、奉仕が評価されるのならば、とても息苦しいことになるでしょう。
しかし、教会はそのような場ではない、とパウロは考えたのです。
必要のない器官など、キリストのからだである教会にはありません。
そして、私たちはそれぞれが違う存在として造られているため、
私たちの働きはそれぞれ違います。
ですから、ひとつのからだとして、互いに仕え合うことを、
パウロは心から願ったのです。
目にできないことを、足がして、足にできないことを、目がしているように。
それが実現するとき、あなたがたのなす奉仕はすべて、尊いものとなる、とパウロは確信していました。
ですから、パウロは、ステファナの一家を通してこのようなことを伝えているのです。
「あなたがたは、互いに仕え合いなさい」。
「お互いが、お互いにとって、キリストの良き奉仕者となりなさい」。

【キリストの与える平和に生きる】
しかし、コリント教会の人々が、お互いがお互いにとって、
キリストの良き奉仕者となるためには、必要なことがありました。
それは、何より、彼らが互いに愛し合い、互いに赦し合うことでした。
コリント教会の人々は、争い合い、憎しみ合っていました。
そのような中で、互いに仕え合う関係を築くことは、難しいといえるでしょう。
ですから、パウロはコリント教会の人々が互いに愛し合い、赦し合うことを願い、
「平和の挨拶」をコリント教会に送り、彼らにも互いに挨拶を交わし合うように勧めました。
アジア州の諸教会があなたがたによろしくと言っています。アキラとプリスカが、その家に集まる教会の人々と共に、主においてあなたがたにくれぐれもよろしくとのことです。すべての兄弟があなたがたによろしくと言っています。あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。(Ⅰコリ16:19-20)
「聖なる口づけ」は、平和の挨拶と呼ばれたものです。
「聖なる口づけ」は、初代教会にあった習慣でした。
初代教会の人々が、聖餐式にあずかるその前に、
平和の挨拶として、この聖なる口づけは交わされたようです。
もちろん、挨拶として口づけを交わすのは、文化的な背景があります。
ですから、口づけそのものに注目するよりは、その意味に注目するべきでしょう。
聖なる口づけが持っていた意味は、「和解」です。
しかし、争いのあったコリント教会の中で、
この聖なる口づけがなされていたとは、正直思えません。
仲間内ではすることができたでしょうが、分裂した教会全体では出来ていなかったことでしょう。
そのようなコリント教会に、パウロは、
「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」といって、和解を促しました。
平和の挨拶である、聖なる口づけをお互いに交わすことができるように、
赦し合いなさい、とパウロは語りかけているのです。
パウロは、この口づけについて、「聖なる」という言葉を付け加えています。
ですから、当然、この口づけは、みだらなものであってはいけませんでした。
また、上辺だけのものであってもいけません。
分裂があり、争いが支配していたコリント教会が、
心からお互いを赦し、心から愛し合うようになることを求めて、
パウロは平和の挨拶を交わすように勧めたのです。
「あなたがたも、聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」と。

【神が愛し続けてくださったのだから】
しかし、このパウロの言葉を受け取ったとき、
「愛したい」けれど、「愛せない」という現実に、
コリント教会をはじめ、すべての教会は直面してきました。
教会をクリスチャンの集まりだからといって、理想化することはできません。
罪深い人間の集まりなのですから、どんな教会にも傷があります。
ですから、愛し合うことができないという問題は、コリント教会だけでなく、
すべての教会が常に抱え続けている問題といえます。
しかし、結局、私たちは愛し合うことは出来ないのだといって、
解決を諦め、この問題から目を背けることはできません。
イエス様は、「互いに愛し合いなさい」という命令を私たちに与えられたのですから。
そのため、奉仕のその背後には、
互いに対する愛があるようにと、パウロは願い続けたのです。
特にコリント教会にとっては、お互いに赦し合うことが必要でした。
憎しみや妬み、争いがあったため、
どれだけ良い奉仕をしたとしても、それは空しいものでした。
コリント教会の人々は、そのような教会の交わりの現実に、傷つき、苦しんでいました。
だからこそパウロは、キリストの愛のうちに、
互いに仕え合う関係をコリント教会の人々に築いて欲しかったのです。
このことは、コリント教会だけでなく、すべての教会、すべての聖徒たちに求められていることです。
しかし、当然、コリント教会の人々も、パウロの手紙を通して、
すぐに変わることができたというわけではなかったでしょう。
和解には時間が掛かるものです。
たとえパウロが何度も、何度も和解を促しても、
パウロの言葉を通して、コリント教会の人々が和解を決心しても、
そして、時間が経っても、まったく状況が変わらないように思えることもあったことでしょう。
しかし、パウロは、分裂を経験したコリント教会に、キリストにある愛を伝え続けることを諦めませんでした。
互いに愛し合い、赦し合い、そして仕え合うことを、彼は何度も伝えています。
そう、何度も、何度も。根気強く。
これは、「愛することをあきらめないで欲しい」という、パウロからのメッセージといえるでしょう。
私たちは、愛することを時に、あまりにも簡単に諦めてしまいます。
また、人を赦して、共に生きることを諦めることもあります。
そのような私たちに、パウロは思い出すようにと訴えているのです。
私たちの主なる神は、私たちを愛することを諦めなかったことを。
何度も、何度も、神は私たちに御言葉を語り掛けましたし、
今も語り続けておられます。
何度、神を背いて、自分勝手な道を歩んだとしても、
何度も、何度も、神は私たちに赦しを与えてくださいました。
このように、諦めずに私たちを愛し続ける方である、神から、
私たちは絶えず愛を与えられています。
この神の愛を受け取り、私たち自身の内から出てくる愛ではなく、
与えられている神の愛によって、人を愛し、赦すように私たちは招かれています。
ですから、私たちは、神に愛されているというその事実を動機として、
神の愛に促されて、互いに愛し合い、赦し合い、そして仕え合っていきましょう。
神に対する感謝と喜びをもって、諦めることなく、
隣人を愛し、赦し、そして隣人に仕えていこうではありませんか。