しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年6月14日日曜日

説教#73:「主よ、来てください!」

主よ、来てください!
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 16:21−24、ヨエル書4:18-21
日時 2015年6月14日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【パウロが自分の手で書き送る】
いよいよコリントの信徒への第一の手紙の終わりにたどり着きました。
ここでパウロは、自分の手で挨拶を記しています。
パウロは通常、口述筆記という形で手紙を書いています。
つまり、パウロが語った言葉を、他の人に書いてもらうという形で、
彼はこの手紙をこれまで書いてきました。
そんなパウロが、わざわざ最後に自分の手で挨拶を記したのには、
ふたつの理由があります。
ひとつは、これはまさしくパウロからの手紙であるという証拠として、です。
そして、自分の手で書く必要があるほどに、伝えたいことがあったというのが、
ふたつめの理由です。
では、パウロは一体何を伝えたかったのでしょうか。
彼は、22-24節でこのように述べています。
主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。(Ⅰコリ16:22-24)

【「主を愛さない者は呪われよ」】
驚いたことに、パウロは自分の手で挨拶を書き始めると、まず初めに、
「主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい」と言っています。
この箇所は、新改訳聖書の訳の方が、
ギリシア語のもつ響きをうまく伝えていると思います。
「主を愛さないものはだれでも、呪われよ」(新改訳聖書)。
なんて過激なことを語るんだ。
最後にほんの数行だけ自分の手で挨拶を書くのに、
いきなり呪いの言葉をあびせることはないだろうに、と思うでしょう。
パウロが「主を愛さない者はだれでも」と語るとき、
彼が意識したのは、コリント教会にいて、自分の利益のために生きる人々です。
彼らは、自分はとても霊的なクリスチャンだと自負していました。
主イエスを誇るのではなく、自分自身を誇り、
自分たちの主義主張、偏った神学を押し付けようとしました。
そのため、彼らは、教会という共同体を共に建て上げるのではなく、
むしろ共同体を乱し、破壊していました。
「主を愛さない人は、
キリストのからだである教会に集う人々を愛していない」
というのが、パウロの理解です。
そうです。
キリストのからだである教会を愛さない人々は、
主を愛することが本質的には出来ていないのです。
ですから、このような人々に向けて、彼は何度も何度も語り続けてきました。
自分を誇るのではなく、主を誇れ。(1:31参照)
キリストのからだの中に、不必要な者などいない。(12:12-31参照)
「何事も愛をもって行いなさい」(16:14)と。
このように、コリント教会を、キリストのからだとして建て上げるため、
多くの言葉をパウロは語ってきました。
何とかして、コリント教会の中で起きている争いや分裂が収まり、
互いに愛し合い、赦し合い、そして互いに仕え合う関係が、
コリント教会で築かれていって欲しかったのです。
そんなパウロが、コリント教会の人々に向かって、
「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ」と言っているのです。
パウロは、最後の最後で諦めてしまったのでしょうか?
そうではありません。
パウロはここで、コリント教会に最後通告をしているのです。
ここまで強い言葉を伝えないと気付かない人々もいると判断したからでしょう。
キリストにある兄弟姉妹を愛することが出来ない者は、
主キリストを愛することもできていない。
キリストのからだである教会を共に建て上げるのではなく、
むしろ教会を乱し、破壊している者は、主を愛しているとはいえない。
そういう者たちは、自分たちが普段、
キリストにある兄弟姉妹たちを切り捨て、見捨てているように、
神から見捨てられるが良い。
そうなれば、教会を愛さないということがどういうことなのかわかるだろう?
パウロは、そう言わんばかりの口ぶりで、強く警告しているのです。
ですから、この言葉は、パウロの憎しみや怒りから来ているのではありません。
何とかして、コリント教会が主の愛に立ち返って欲しい、
争いが止み、神に喜ばれる群として歩んで欲しいと願ったからこそ、
彼の内から出てきた言葉でした。
しかし、コリント教会の出来事を、他人事のように考えてはいけません。
私たちは、交わりの破壊者に、いつでも簡単になることができるのですから。
ですから、私たちもパウロの言葉を真剣に受け止める必要があります。
パウロは、私たちに対しても警告しているのです。
主キリストにある兄弟姉妹を愛せない者は、主を愛せているとはいえない。
「主を愛さない者はだれでも、呪われよ」と。

【互いに愛し合う関係が築かれることを求めて祈る】
このような強い警告の後、パウロはひとつの祈りの言葉を伝えています。
それは、「マラナ・タ」というアラム語の祈りでした。
ギリシア語を話す人々の集うコリント教会に、
パウロがアラム語の祈りを書いたということは、
この「マラナ・タ」という祈りが、
当時の教会で一般的な祈りの言葉だったことを意味します。
「マラナ・タ」は、「私たちの主よ、来てください」という意味の祈りです。
それはまさに、「主を愛さない者は、のろわれよ」
とパウロが言わざるを得なかった、コリント教会の交わりの中に
「主よ、来てください」と願う、パウロの叫びにも似た祈りです。
この祈りは、初期のキリスト教会の様子がわかる
「ディダケー」という文書にも記されています。
そこには、このように記されています。
聖なる人は来るように。聖でない人は悔改めなさい。マラナ・タ、アーメン。(Didache 10:6)
この箇所は、聖餐式の式文の一部です。
共に食卓を囲んで食事をし、
ひとつのパンを分かち合い、ぶどう酒を飲む。
この交わりが、真実な交わりとなるようにと心から願い、
「主よ、来てください」と祈りを捧げたのです。
私たちが主の愛のうちに、互いに愛し合うことができるように、
「どうか主よ、来てください」と。
憎しみのあるところに赦しを争いのあるところに平和をもたらすために、
「どうか主よ、来てください」と。

【主イエスが来られる日を待ち望む】
「マラナ・タ」は、互いに愛し合う関係が、
教会の中で築かれることを求めて祈るためだけの祈りではありませんでした。
イエス様が再び来られる日を待ち望むという意味が
「マラナ・タ」にはあります。
いや、そちらの側面の方が強い祈りと言えるでしょう。
旧約聖書の預言者たちはこの日を、「主の日」と呼び、
「新しいとき」の到来として描いています。
預言者ヨエルは、「主の日」について、このように述べています。
その日が来ると山々にはぶどう酒が滴りもろもろの丘には乳が流れユダのすべての谷には水が流れる。泉が主の神殿から湧き出てシティムの川を潤す。(ヨエル4:18)
ヨエル書において「主の日」は、
神が赦しを与え、回復をもたらす日として描かれています。
預言者ヨエルの時代、いなごの大群により、イスラエルの地は荒らされました。
この災害を、神に背き続けたイスラエルに対する神の裁きであるととらえ、
イスラエルの人々に、
神に立ち帰るように、預言者ヨエルは促したのです(ヨエル2:13-14参照)。
ここでヨエルは、主の恵みと憐れみによって、
主の日は、喜びと希望に満ちた日として訪れると語っています。
いなごの被害によって、荒れ果てたイスラエルの地が回復される、と。
ですから、当時のイスラエル人たちは、神の約束を信じ、
主の日に、今とは違う「新しいとき」が訪れることを待ち望んで祈りました。
マラナ・タ。「主よ、来てください」。
今の私たちの苦しみに手を差し伸べてください、と。
このように、マラナ・タという祈りは、
神の約束を強く確信して、神が訪れるときを待ち望む祈りです。
ですから私たちも、将来、イエス様が再び来られる日を待ち望んで、
この祈りを祈ります。
主イエスが来られる時、この世界の支配者たちは、退けられ、罪と悪は滅び、
イエス様が、この世界を愛と憐れみによって支配されます。
新しいときが訪れる、その日、その時を、
私たちは待ち望んでいるのですから。

【主よ、来てください!】
このように、主が来られる日に希望を見出し、教会は祈り続けてきました。
また、マラナ・タとともに、
教会は「御国が来ますように」(マタイ6:10)と祈り続けてきました。
これは、イエス様が弟子たちに教えられた祈りです。
この祈りで重要なのは、
「御国が来ますように」と私たちが祈っていることにあります。
私たちは「御国への旅路」という表現をときに用いますが、
本質的には、天の御国は、私たちのもとに来るものです。
「ヨハネの黙示録」でも、
新しい天と新しい地が来るという言い方をしています(黙示録21章参照)。
具体的にどうなるかはわかりませんが、
新しい天と新しい地が来るということは、今私たちが住んでいるこの世界と、
将来やってくる新しい天と新しい地は、何らかの形で関わりがあるのです。
私たちは、今住んでいるこの世界を捨て去って、
天国へ行くというわけではないのです。
ですから、この世界に神の御国が来ることを願いながら、
私たちは生きるように招かれています。
しかし、今現在、神の御国が完全な形で来ているわけではないということは、
神の御国とは程遠い現実を目の当たりにするということでもあります。
預言者ヨエルの時代のように、いなごの大群が来なくても、
この世界は荒れ果てていることを、私たちはよく知っています。
この世界を見渡すと、様々なものが見えてくるでしょう。
「神などいない」という叫び声が聞こえてくる、信仰も愛も無い場所。
弱い者が踏みにじられる、正義や憐れみのない場所。
人々が憎しみ合う、対立と争いがある場所。
このような現実を見つめる時、私たちは、目を背けるのではなく、
「マラナ・タ」という祈りを思い出し、祈るようにと招かれています。
主よ、どうかここに、この場所に来てください。
愛のないところに、愛をもたらすために。
正義のないところに、正義をもたらすために。
憐れみのないところに、憐れみをもたらすために。
対立と争いのあるところに、赦しと平和をもたらすために。
「私たちの主よ、来てください」と。
この祈りを、私たちの祈りとして日々歩んでいきましょう。
この祈りの実現のために、私たちを用いてくださいと祈りながら。