しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年6月28日日曜日

説教#75:「光が私たちのもとに」

光が私たちのもとに
聖書 創世記1:3-5、コリントの信徒への手紙二 4:1-6
日時 2015年6月28日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【祝福の宣言「光あれ」】
「光あれ」(創世記1:3)。
神はこう語ることから、この世界の創造を開始しました。
光は、旧約聖書において、生命や秩序を表すものとして描かれています。
2節によれば、この世界は、生命も秩序もない「混沌」とした場所でした。
そのような混沌であるこの世界に、
神は「光あれ」といって、光を与えられたのです。
それは、この世界に対する神の祝福の言葉でした。
「光あれ」と語ることを通して、秩序のないところに、秩序を与え、
生命のないところに、生命を与える「光」を、神は創造されたのです。
そうです。
この世界は、「光あれ」という神の祝福の宣言から始まったのです。
この世界の初めに、呪いではなく、祝福の言葉を神は語られたのです。

【全くの恵みとして、光は与えられた】
神は、祝福をもってこの世界を創造されました。
創造主である神が行った創造のわざは、言葉によるものでした。
神が「光あれ」と語った後、
「こうして、光があった」(創世記1:3)と記されています。
神が命じると、命じた通りになることが、創世記1章では繰り返されています。
存在しないものを、存在させる神のわざ。
それが、神が行った「言葉による創造」です。
通常「言葉」というものは、特定の誰かに向かって語り掛けるものです。
独り言でさえ、自分自身に語り掛けているため、
その言葉を語り掛ける「自分」という存在がいます。
しかし、神が語った「光あれ」という言葉は、
存在しない「光」というものを、存在するようになるように命じる言葉です。
存在しないモノに語り掛けることなど本来できません。
しかし、神は存在しない「光」に語り掛けたのです。
ですから、その意味で、この言葉は、何もないところに語り掛ける、
「神の孤独」ということが出来るでしょう。
もしも、これが私たちの言葉であれば、虚しさのみが残ることになります。
しかし、この言葉を語ったのは神です。
「神が語るならば、そのようになる」
と創世記1章は、力強く宣言しています。
神は光のない世界に向かって「光あれ」と語ることができました。
神が語るとき、そこにない光が存在するようになるのですから、
神が語ったこの言葉が、虚しく響くことはなかったのです。
このように、神の言葉によって、
それまで存在しなかった光が、存在するようになったのです。
そのため、光の存在は、完全に神に依存しています。
神が「光あれ」と言わなければ、光は決してそこにはないのですから。
しかし、今や、この世界に光は与えられたのです。
ですから、光は神の創造のわざとして、この世界に、そして私たちに、
全くの恵みとして、与えられたものなのだということができます。
光は、この世界に神が与えた恵みなのです。

【この世界には光が必要】
このように、祝福と恵みのわざとして、
この世界に、そして私たちに与えられた「光」ですが、
なぜ神は「光」を最初に創造したのでしょうか。
それは、2節を見れば明らかです。
2節にはこのように記されています。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。(創世記1:2)
神が世界を造られる前、そこに広がっていたのは、
混沌と闇だったと聖書は語っています。
だからこそ、それを見た神は、
ここに、この世界に、光が必要だと感じたのです。
ですから、神は言われました。
「光あれ」(創世記1:3)と。
この言葉は、神がこれから造られる世界に対して
強く抱いている、愛に満ちている言葉といえるでしょう。
愛を最大の動機として、この世界に神は語り掛けたのです。
そして、「光あれ」と語ることによって、
神は、生命や秩序のない、混沌と闇の広がる世界に、
生命と秩序、そして祝福と恵みを与えたのです。
神が創造されたこの世界に、光が必要であったように、
創世記を読んだ、当時のイスラエルの人々にとっても、光は必要でした。
紀元前6世紀、イスラエルの民は、混沌と闇を経験しました。
大国バビロニア帝国へ捕虜として連れて行かれ、
自分たちの故郷、エルサレムは徹底的に破壊されました。
まさに、混沌や闇が広がっていくことを、イスラエルの民は経験したのです。
そんな彼らにとって、
「光あれ」という神の言葉は、慰めと希望に満ちていました。
「光あれ」と語られた神が、自分たちの現在の混沌や闇に
光を照らしてくださると、彼らは信じることができたのです。
創世記は語ります。
神が世界を造られた時、その初めに造られたのは「光」である、と。
それは、神の創造された世界において、光がないという状態はあり得ない
ということを意味しています。
言い換えるならば、神が「光あれ」と言われたこの世界において、
完全な闇、完全な混沌などはないのです。
ですから、イスラエルの民は「光あれ」という言葉を聞いたとき、
慰めと希望、そして確信を得ることが出来ました。
「天と地を造られた時、『光あれ』と語った神が、
今、混沌と闇の中で苦しむ私たちに『光あれ』といって、
恵みと祝福を与えてくださらないはずがない」と。
これこそ、イスラエルの民の確信でした。

【私たちには光が必要】
当時のイスラエルの民と同じように、
今を生きる私たちも、光を必要としています。
いや、すべての人々が、光を必要としています。
それは、私たちから光を奪うような、
混沌や闇がこの世界に広がっているからです。
目を上げて、この世界の現実を見つめると、対立や争いが横行し、
不正が蔓延っていることに気付きます。
社会的に弱い立場にある者たちは顧みられず、
強い立場にある者、権力のある者に、
多くの利益をもたらす社会が築かれています。
すべて挙げることができないほど、
数多くの混沌や闇がこの世界には存在します。
時に、神が望まれた世界のあり方とは違うことに嘆きや憤りを覚えながら、
実に様々な形で混沌や闇が広がっている現実の只中を、
私たちは日々歩んでいます。
神が、ここに「光あれ」と語り掛けて欲しいと強く願わざるを得ない現実を、
私たちは目の当たりにしています。
いや、世界中に目を向けなくとも、そのような混沌や闇は、
私たちの周囲に広がっていることを、私たちは十分よく知っています。
正直に生きたいとは思う一方で、何処かで自分を偽りたい自分自身がいます。
愛のある人間になりたいと願っているけれども、
心から愛のある行動など滅多になく、
自分の日常の行ないのほとんどは、自分の利益を優先させるものばかり。
また、人を愛したいのに、愛せない。
憎しみや妬みで心が支配されてしまう。
そして、言葉では、人を簡単に傷つけてしまう。
そのような現実と直面する時、
何より、自らのうちに混沌や闇があると認めざるを得ません。
この「私」という存在こそ、「光あれ」と語られる必要があって、
その言葉を真剣に受け止める必要があるのです。

【神は、諦めない】
しかし、それが出来ない。
私たちの側が、神から与えられる光を拒否して、
混沌や闇を広げることに加担してしまっています。
聖書はそれを「罪」と呼び、
私たち人間が抱え続けているものとして描いています。
「罪」とは、神に背き続けることをいいます。
それは、神を神とせず、自分自身を神とすることです。
つまり、自己中心。
旧約聖書は一貫して、人間の「罪」の現実を描いています。
神は、私たち人間が罪を犯し続けても、
私たち人間を愛し、赦し、そして、愛に満ちた言葉を語り続けてきました。
しかし、人間は神の言葉を聞かない。
その愛を真剣に受け止める時もあるが、殆どの場合は、自分勝手に歩む。
旧約聖書には、そのような人間の姿が描かれています。
しかし、それと同時に、人間を愛することを諦めない神の姿が描かれています。
神は、何度も何度も人間に裏切られ、背かれ続けても、
何度も何度も愛し、そして罪の赦しを与えました。
このことから、ふたつのことがわかるでしょう。
第一に、神が、諦めずに私たちを愛し続けてくださる方であること。
そして、私たち人間の内には、光がないということです。
罪を抱えて生きる私たち人間には、神が与える光がどうしても必要なのです。

【キリストを通して、光が私たちのもとにもたらされた】
ですから、神は、私たち人間に光を与えるために、
2,000年前に、私たちのもとにイエス・キリストを送ってくださいました。
神は、私たち人間を愛することを決して諦めなかったから、
イエス様を私たちのもとに送ってくださったのです。
神は、イエス様のこの地上での歩みを通して、
神の光の下を歩むということが、どういうことなのかを示してくださいました。
そして、私たちに罪の赦しを得させるために、
イエス様は十字架に架かって死なれました。
イエス様の死を通して、神は私たちに宣言されたのです。
キリストによって、あなたの罪は赦された。
だから、あなたは、もう自分自身の罪に苦しまなくていいんだ、と。
このようにして、神は、イエス様を通して、私たちに語りかけているのです。
「光あれ」と。
神は、イエス様を通して、
私たちが抱える混沌や闇に、光をもたらしてくださったのです。
私たちの内には、この世界に混沌や闇を形作る、罪で溢れています。
しかし、キリストを通して、私たちの罪は赦され、
私たちは罪ではなく、神から与えられる光に溢れる者とされたのです。
キリストなしに、私たちは、神から与えられる光をもつことはできないのです。

【悩み、苦しむ現実に「光あれ」と願い、祈る】
イエス様は、混沌や闇が広がる私たちの現実に、
光をもたらすために来られました。
しかし、混沌や闇の原因となっているのは、
私たち人間の罪のみではありません。
「混沌」または「闇」と、私たちが呼びたくなる私たちの現実の中には、
悩みや、苦しみがあるからです。
また、「神などいない」と思えるような、辛い経験もあるでしょう。
神は、それらすべての原因が、人間の罪だとは言いません。
生きる上で避けられない悩みや苦しみも現実にあるのですから。
しかし、だからこそ、私たちは神に祈り求めるのです。
混沌や闇の只中にいるように思えるとき、
悩みや苦しみの只中にあるとき、神が「光あれ」と私たちに語り掛け、
私たちが悩み、苦しむ現実に、光を与えてくださることを。
私たちは、「光あれ」と神が言われた世界で生きています。
ですから、私たちの毎日が、混沌や闇に包まれようとも、
私たちから、光を奪い去ることのできるものはないのです。
神は、イエス様によって、私たちと共に居てくださいます。
聖霊を通して、私たちに日々手を差し伸べてくださっています。
そのようにして、神は私たちに、日々、光を与え続けてくださっているのです。

【「世の光」として生きる】
私たちの内側に光はありませんが、
神が、キリストを通して、光を与え続けてくださっています。
しかし、神から光が与えられているのに、私たちはしばしば、
その光を心の中で閉ざしてしまうことがあります。
マタイによる福音書5:14-16にこのような言葉があります。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」(マタイ5:14-16)
キリストを通して、光が与えられた私たちは「世の光」である、
とマタイは述べています。
世の光である私たちに対して、マタイは、
「ともし火をともして升の下に置く者はいない」といって、
神から与えられた光を隠さないようにと、警告しています。
それは、神を信じることを、心の問題のみにしている状態といえるでしょう。
神が与える光によって、照らされるべきなのは、
私たちの心だけで十分なのでしょうか。
マタイによれば、それだけでは不十分です。
マタイは、このように述べています。
「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:16)と。
「あなたがたの光」とは、
私たち自身がはじめからもっている光ではありません。
神が「光あれ」といって、イエス様を通して私たちに与えられている光です。
その光を人々の前に輝かすためには、
私たちの心の中だけが、光り照らされるだけでは不十分でしょう。
神との関係を心の中だけで終えるのならば、
私たちは自らの行動や生き方を通して、
神の与える光を隠していることになるからです。
イエス様は、私たちの内面だけを照らすために来たのではありません。
私たちの全存在、全人格、そして生涯のすべての歩みを
光で照らし出すために来られました。
この世界を造られた時、この世界に「光あれ」と語られた神は、
「あなたの生涯を、神の光の下に照らし出しなさい」と招いておられるのです。
神の光によって照らし出された私たちは、神の光を反射するかのように、
人々の前で光を輝き放つ者となるようにと、招かれています。
それは、言い換えるならば、
神に与えられた恵みに相応しく生きるように招かれているということです。
神に与えられた恵みとは一体何でしょうか。
それは、神に愛され続け、そして祝福を与えられ続けていることです。
ですから、神に愛されている者として、
私たちは周囲にいる人々を愛そうではありませんか。
そして、神によって祝福が与えられているのですから、
私たち自身も周囲の人々にこの祝福を与えるよう努めようではありませんか。
この世界の闇や混沌に支配されて歩むのではなく、
私たちは、神に与えられた光を抱いて歩んでいきましょう。
私たちの生き方そのものが、神に与えられた光を、
この世界に輝き放つものとなることを願い続けて、歩んでいきましょう。
私たちは「世の光」なのですから。