しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年8月9日日曜日

説教#80:「助け手と共に生きる」

助け手と共に生きる
聖書 創世記2:18-25、エフェソの信徒への手紙5:21-33
日時 2015年 8月 9日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団

【「彼に合う助ける者を造ろう」】
「極めて良い」(創世記1:31)。
神はこの世界を造られたとき、このように宣言されました。
それは、神が造られたこの世界全体が「良い」ということ。
そして何より、神に造られた個々の存在すべてが「良い」
という宣言に他なりません。
ですから、神は、私たち人間に対しても宣言されたのです。
「あなたは極めて良い」と。
しかし、創世記2章を読むとき、「極めて良い」と宣言された方が、
人間に対して「良くない」と語られたことに気づきます。
神はこのように言われました。
人が独りでいるのは良くない。(創世記2:18)
人間は、神と交わりをもつ存在として人間を造られました。
その意味で人間とは、交わりを求めて生きる存在です。
そのため、神は人間が、孤独のうちに生きることを望みませんでした。
それは人間にとって「良い」状態ではないからです。
しかし、人間にとって、共に生きる対等な関係をもつ存在がいなかった
ということが、問題でした。
もちろん人間は、神と交わりを持つことが出来ました。
しかし、神との間に完全に対等な関係を築くことはできません。
神と人間。
造り主と被造物。
この間には越えることのできない壁があるからです。
そのため、神はひとつの決断をされました。
彼に合う助ける者を造ろう。(創世記2:18)
ここで語られている「彼に合う助ける者」とは、
「彼に向き合う者としての助け」という意味の言葉です。
それは、人間がお互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、
お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、
対等な関係を築くことのできる他者のことです。
私たち人間には、そのような存在が必要だと、神は確信し、
「助ける者」を造られたのです。

【助ける者を求めて】
神がはじめに「彼に合う助ける者」として造られたのは、獣や鳥たちでした。
そのときの様子が19節に記されています。
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。(創世記2:19)
興味深いことに、神は決して
「この者こそが、あなたに相応しい助ける者だ」とは言われません。
神は、連れてきた動物たちに、
人間が名前を付けるのを見ておられるのです。
名前をつけるために、人は、目の前にいる存在が、
どのような存在かをしっかり時間をかけて知る必要がありました。
恐らく、多くの動物たちと向き合い、
長い長い時間をかけて、名前を付けたのでしょう。
目の前にいる動物は、一体どのような生き物なのか。
どんな鳴き声なのか。
何が得意で、何が苦手なのか。
何が好きで、何が嫌いなのか。
自分にとって、どのような存在なのか。
時間を掛けて、動物たちと向き合って、
人は、動物たちそれぞれの特徴を知り、名前をつけていきました。
自分と同等な立場で向き合い、語り合い、
交わりをもつことのできる存在を、人は切実に求めたのです。
そのような光景を、神は喜んで見つめておられました。
神が連れてきた動物たちは、
人間と同じように、神によって土で形造られた存在でした。
しかし、人は、この動物たちから応答を得ることができませんでした。
そのため、彼は自分に合う「助ける者」を見つけることができなかったのです。
お互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、
お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、
対等な関係を、彼は動物たちとの間に築くことはできませんでした。
彼は、落胆したことでしょう。
名前をつけるまでに掛かった時間が長くなれば長くなるほど、
名前のある獣や鳥たちが増えれば増えるほど、
彼は失望し、悲しみを覚え、孤独を感じたことでしょう。
お互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、
お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、
対等な関係が、自分にはないという現実を彼は突きつけられたのです。

【「助ける者」の創造】
そのような彼を見つめて、神が与えられたのが女性という存在でした。
私たちは、ここに神の恵みを見出すことができます。
私たちが孤独の内に生きることを、神が望まなかったこと。
そして、人間に「性別」を与えることを通して、
人間の交わりに、より豊かな多様性をもたらしてくださったこと。
このような恵みのうちに神が与えてくださったのが、女性という存在でした。
そのときの様子が、21-22節に記されています。 
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(創世記2:21-22)
「深い眠り」とは、人間の意識がない状態です。
旧約聖書において「深い眠り」とは、
神の意志が人間に表される状態として描かれています。
神の意志は、人と向き合う対等な存在を造り、彼に与えることでした。
しかし、神は「彼に合う助ける者」をつくる際、
最初の人間が造られた時と同じ方法を取りませんでした。
細かなことは語られていませんが、
「人から取ったあばら骨の一部を抜き取」って、
神は「彼に合う助ける者」を造られたのです。
そのようにして造られた「助ける者」を神は、彼の前に連れてきたのです。
彼の目の前にいる「助ける者」の存在は、彼にとって喜びでした。
強く求め続けた、お互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、
お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、
対等な関係を築くことができる存在が与えられたのですから。
人生のあらゆる歩みを共にし、
死を迎えるその日までゆるされる交わりをもつことのできる存在。
このような存在が「彼に合う助ける者」として、神によって与えられたのです。

【神への賛美へと向かう関係】
この箇所で使われている「助ける者」という言葉は、
神は「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」(詩編46:2)
と詩編の詩人がうたった「助け」と同じ単語が使われています。
ですから、女性が「助ける者」として描かれていることから、
男性優位的な考え方を支持するべきではないでしょう。
寧ろ、神が私たちの助け手となってくださるように、
そばにいるこの人を通して、神は私たちを助けてくださる。
そのような、共に生きる貴い存在として女性は造られたと聖書は語ります。
そして何より、男性にとって女性が助け手であるように、
女性にとって男性も助け手として造られているのは明らかです。
その意味で、ここでは性別による優劣の差は決して描かれてはいません。
寧ろ、ここでは同等な存在としての男女が描かれています。
人は、お互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、
お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、
対等な関係を築くことができる存在が与えられたことに、
喜びと感謝を覚えて、神を賛美したのです。
「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(創世記2:23)
まさにお互いの存在を通して、
神を賛美することのできる関係がそこにはあったのです。

【父母を離れて築かれる共同体】
さて、続く24節においては、夫婦の関係が記されています。
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:24)
聖書がその始めに描く人間の共同体は、夫婦の関係です。
親子関係や、支配・被支配の関係ではなく、夫婦という一組のカップルを、
人間のつくる共同体の最も小さなかたちとして描いています。
興味深いことに、その夫婦の関係をつくる際に、
「父母を離れて」と語られています。
残念ながら、日本語の聖書では「離れて」と訳されていますが、
ここで使われているヘブライ語「アーサブ」は、
「見放す」や「見捨てる」という意味をもつ単語です。
これほどまでに強い言葉が使われた理由は、
子どもは父親の所有物という、当時の社会のあり方が関係しています。
そのため、「父母を《見捨てて》」という言葉は、
そのような共同体の作り方を強く批判しているのです。
それは、子どもや奴隷、その他の親族などを含む家族ではなく、
夫婦というお互いに対等な関係を築くことのできる関係こそ、
私たち人間の最小の共同体だという主張です。
子どもが親の所有物であるかぎり、親と対等な関係は築けません。
ですから、「父母を《見捨て》」るのです。
親の所有物であるという関係を断ち切り、対等な関係を築くために。
お互いに向き合うことのできる関係は、
「血のつながり」を根拠としては決して築かれないと、
聖書は強く主張しているのです。

【キリストにあって、互いに向き合う関係となれる】
創世記2章に登場するこの一組のカップルは、
お互いに向かい合って、互いに助け合い、支え合いながら生きています。
彼らは、血によるつながりをもたず、
ただひとつ、神によって結ばれたということが、
彼らがもつ唯一の、そして確固たる絆なのです。
このような共同体の理解は、夫婦のみに限定されるものではありません。
それは、キリスト教会の共同体理解にも受け継がれています。
血のつながりという、人間的なつながりは
教会において強調されることはありません。
血のつながりを根拠にして、
教会はひとつのからだに結ばれることは決してありません。
ただ、「神によって」結ばれ、共に生きる交わりを築く共同体が教会なのです。
エフェソ書の著者は、創世記2:24を引用しながら、
教会についてこのように語ります。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」(エフェソ5:30-31)
エフェソ5章において著者は、
夫婦の教えについて語りながら、教会について語っています。
夫婦がひとつであるように、キリストにあって教会はひとつである。
そして、夫婦がキリストにあって、お互いに仕え合うように、
キリストにある兄弟姉妹も、互いに仕え合う関係を築くようにと、
著者は、夫婦の教えをうまく用いて、教会について語っているのです。
キリストにあって私たちは、
お互いがお互いの助け手として、存在することができます。
いや、キリストにあって、そのような存在であり続けるのです。

【それは徹頭徹尾、神のわざ】
さて、創世記2章の物語は、このような言葉で終わっています。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2:25)
何も身につけず、互いに対して隠さねばならない何物ももたず、
そして、恥じらいもなく、ふたりは裸で向き合っています。
私たちは、そこに夫と妻の本来の姿を見出すことができます。
そう、お互いに恥合うことなく、
隠し事もないという関係が築かれている状態です。
そして、聖書全体に照らして、この箇所を読むならば、
それは夫婦の関係だけに限った話ではないことに気づきます。
お互いに恥合うことなく、隠し事もないという関係が築かれている状態。
これこそ、人間の本来の姿であると聖書は証言するのです。
しかし、どうでしょうか。
私たちは、どれほど真剣に、そして誠実に、
目の前の人と向き合うことができているのでしょうか。
初めの人間たちがしていたように、
恥合うことなく、隠し事もなく、向き合いたい。
そのように願ったとしても、
それが出来ない現実に、私たちは直面し続けています。
きっと、私たちが感じているよりも、
お互いに向き合う対等な関係を築くためには、
乗り越えなければならないことが数多くあるのでしょう。
しかし驚くべきことに、それでも、ひとつとされると約束されているのが、
教会という信仰共同体です。
人間的な様々な障害を乗り越えて、神が私たちを結び合わせ、
お互いをお互いの助け手としてくださるのです。
ときにそれは、アダムが胸を引き裂かれ、あばら骨を取り出されたように、
強い痛みや苦しみが伴うものなのかもしれません。
しかし、そのような痛みや苦しみさえも、
神は豊かに用いて、ひとつの共同体となるためのプロセスとしてくださいます。
私たちが互いに向かい合い、名を呼び合い、
支え合い、仕え合い、励まし合う関係を築くことができるように。
神が、私たちをひとつに結び合わせてくださるのです。
ひとつに結ばれ、互いに向き合うことのできる対等な関係が築かれること。
それは、徹頭徹尾、神のわざです。
ですから私たちは、この神のわざに期待しつつ、
神が私たちに与えてくださった、助け手である、
キリストにある兄弟姉妹と共に歩んでいきましょう。
教会において、互いに向き合い、名を呼び合い、支え合い、
励まし合う関係を築き、豊かな交わりをもって欲しいと願い、
神は私たち呼び集めてくださったのですから。