しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年9月20日日曜日

説教#:86「傷付き、葛藤する神」

『傷付き、葛藤する神
聖書 創世記6:1-8、ローマの信徒への手紙8:18-23
日時 2015年 9月 20日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【「神の子ら」の結婚】
創世記6章は、とても不思議な物語から始まります。
そこには、神の子らが人間の娘たちを好き好んで選び、自分の妻にしたこと。
そして、その行いを見た神が、人間に向かって
「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
人は肉にすぎないのだから」(創世記6:3)といって、
人間の寿命を定めたことが記されています。
1-4節に記されているこの物語は、歴史上多くの解釈者たちを悩ませてきた、
聖書の中で解釈がとても難しい箇所のうちのひとつです。
この箇所を読むときに抱く一番の疑問は、
「神の子」たちとは一体だれなのか、ということでしょう。
古代世界において、「神の子」という言葉を聞いたとき、
人々がまずはじめに連想したのは、王のことです。
古代世界において、王は「神の子」と呼ばれてきたからです。
3節を見てみると、「神の子」たちと呼ばれる王たちの行ないを見て、
人間が永遠に生きないようにと、神が人間の寿命を定めたという、
神の裁きの言葉が記されています。
そのため、1-4節の物語では、
この世の王たちの行いが批判されているのです。
では、王たちのどのような行ないに対して、批判がなされているのでしょうか。
2節には、このように記されています。
神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。(創世記6:2)
この箇所は、創世記3章に記されている、
神が「食べてはいけない」と言われた善悪の知識の実を食べてしまった、
エデンの園でのアダムとエバの姿を思い起こさせる記述となっています。
日本語の訳ではわかりにくいのですが、
ヘブライ語で見ると、この箇所と3:6に記されている、
善悪の知識の実を食べてしまった場面の記述は、文体がとても似ています。
3:6で、「善悪の木(の実)を見ると良かったので、取って食べた」
と記されているのに対して、6:2では、
「人の娘たちを見ると良かった(美しかった)ので、
取って(選んで)妻にした」と記されているのです。
このように、著者はエデンの園の記述を意識することを通して、
エデンの園において、禁じられた実を食べることが神に背く行為だったように、
神の子たちが人の娘たちを見て「おのおの選んだ者を妻にした」という行為は、
神に背く行為であったということを、ほのめかしているのです。
神の子ら、つまり王たちが、結婚することが問題であったのではありません。
問題だったのは、その結婚が
「おのおの選んだ者を妻にした」ものであったことです。
「神の子」である王たちは、自分の思うがままに、
娘たちを妻にすることができる存在でした。
この物語を通して、創世記の著者は、
王たちのそのような面を批判しているのです。
著者自身が生きた時代や、創世記の時代に生きた王たちへだけでなく、著者は、
明らかに、ダビデやソロモンといったイスラエルの王たちをも批判しています。
というのは、まさにダビデやソロモンこそ、
「おのおの選んだ者を妻にした」王だからです。
ダビデは、他人の妻である女性バト・シェバを、
その夫から横取りしました(サム下11-12章)。
また、ソロモンは700人もの多くの妻をかかえていました(列王上11:1-4)。
このように、彼らこそ、王たちこそ、
自分の思いのままに人の娘たちを妻にすることができたし、
実際にそれを行いました。
創世記の著者は、この箇所を通して、
そのことを読者に思い起こさせているのです。
そして、結論付けます。
このような王たちが永遠に生きるべきではないと。


【「地上に人の悪が増し」】
このような物語が導入となり、創世記はノアの物語に移ります。
ノアの物語は、このように始まりました。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6:5-6)
「地上に人の悪が増し」ていることを説明するために、
創世記の著者は、1-4節の物語を、5節の前に置いたのでしょう。
人の悪が地上で増し加わっているさまは、
3-4章で繰り返し語られてきました。
最初の人間であるアダムとエバは神に背き、
その息子カインは、弟アベルを殺しました。
神を神とせず、人に愛情ではなく、妬みや憎しみ、
そして怒りを持ちやすい人間の姿が、これまで語られてきたのです。
このようにして「地上に人の悪が増し」加わってきたことを通して、
神が造られて、「極めて良い」と宣言された世界から、
どれほどこの世界が遠ざかってしまっているのかを、著者は伝えているのです。
ここで、「常に」と訳されている言葉は、
「毎日」とか「一日中」と訳せる言葉です。
つまり、創世記の中でこれまで描かれてきた人間の悪というものは、
ほんの一例に過ぎないということがわかります。
人間は、常に、毎日、一日中、
悪いことばかりを心に思い計っているというのです。

【神は無関心ではいられない】
そのような人間の現実を見た神の様子が、このように描かれています。
主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6:5-6)
神は後悔し、心を痛められました。
神は人間の悪が増している現実を見て、怒ったとは書かれていません。
そうではなく、神は心を痛められたのです。
神は人間の悪やその罪を見て、憤りを覚えるのではなく、
悲しみに暮れています。
人間の心が悪いことばかりを常に考えている現実に、
神は心を悩みませています。
そして、人間の抱えるこのような現実に、傷付いている神がいるのです。
では、なぜ神が傷ついているのでしょうか。
それは、神が人間をこの上なく愛されているからです。
神は人間を造り、そして愛しておられます。
神は、ご自分が愛してやまない人間たちが、
神が望まない方向へと向かって歩んでいる姿を見ました。
自らのうちに抱え続ける欲望をもって生きている姿、
そして、神以外のものを神として生きたいという思いをもって生きている姿を、
神は目の当たりにしたのです。
私たち人間を愛されたからこそ、
どこかでその人間の悪を止めなければならない、という思いがある一方で、
人間を愛しているから、どうにかして赦したい。
どうにかして、神のもとに立ち帰って欲しいという思いを抱いて、
神は心の中にある裁きと悲しみに葛藤を覚えたことでしょう。
このように悲しみ、後悔し、心が傷付き、葛藤することは、
神が私たち人間を愛しているからこそ、もつことのできる感情です。
私たちを愛しているから、無関心ではいられない神と、私たちは出会うのです。
私たちを愛してくださっているから、神は傷付き、葛藤されたのです。

【神の後悔】
しかし、それでも神は決断をしなければなりませんでした。
神はこのように言われました。
わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。(創世記6:7)
「私が造った人間たちを、地上から拭い去ろう」と神は決断しました。
かつて、この世界に向かって「極めて良い」と言われた方が、
このように決断されたのです。
私たち人間を、この上なく愛しておられる方が、
「人間を地上から拭い去ろう」と決断されたのです。
私たちは、この神の決断だけを切り取って見つめる時、
神の怒り、神の裁きのみを見ることになります。
しかし、この世界を造られ、私たち人間を造られた方は、
私たちを愛しておられる方です。
そのような方だからこそ、苦しみを覚えました。
私たち人間を愛しているからこそ、
人間が神に背き続ける姿を見つめたとき、
悲しみ、心を傷めながら、この決断を下したのです。

【被造物のうめき、そして回復の希望】
神は、人間だけにとどまらず、
「家畜も這うものも空の鳥」を造ったことさえも後悔しています。
それは、人間の悪や罪の影響が、私たち人間だけにはとどまらないからです。
人間の悪や罪は、この世界に生きるすべてのものに影響を与えているのです。
使徒パウロは、ローマの信徒への手紙でこの問題に触れています。
被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマ8:20-22)
20節の「被造物は虚無に服しています」という言葉は、
神によって造られたこの世界のすべてのものが、
創造の本来の目的に到達していないということを意味します。
それは神の意志によるものだと書かれています。
しかし、その責任は私たち人間の側にあります。
人間の悪や罪の結果として、
「地は呪われた」と創世記で何度も記されているからです。
被造物が虚無に服している状態は、今も続いています。
私たちは、自分たち人間のために、この世界を貪りすぎました。
自分たち人間の環境を良くすることのみ考えて、
自然環境を壊してしまいました。
戦争や紛争で、人間同士は傷つけ合い、
周囲の環境は破壊され、生き物たちも生命を奪われています。
この世界で共に生きるすべての被造物が、
神によって造られた「良い」状態を保てない現実を目の当たりにするとき、
人間の罪や悪というものがどれほど根深いものであるかを、
私たちは知ることになります。

【しかし、主の恵みを得た】
このように「地上に人間の悪」が蔓延っていることと、
神はそのことに心を痛めながらも、
裁きを行うことを決断したことについて語った後、著者は短く述べます。
しかし、ノアは主の好意を得た。(創世記6:8)
この言葉は「ノアは主の恵みを得た」と訳すことができます。
著者は、世界の滅亡を語るだけでなく、
ノアを紹介することを通して、
この世界の救いと回復があることを伝えています。
ノアは神に従順で、神と共に歩んだ正しい人であると、
他の箇所では紹介されていますが、
重要なのは、ノアがどういう人物であるかではありません。
重要なのは、神の恵みです。
神は、傷付き、葛藤しつつも、それでも人間を愛そうと決断し、
ノアを通して、恵みを与えられたのです。
ノアとその家族を通して、
裁きから人々と人間以外の生き物たちを救おうとされたのです。
しかし、結果として、生き残ったのはノアとその家族だけだった、
というのが聖書が証言するところです。
ノアを通して与えられる救いには限界があったとしか言い様がありません。
ノアを通して与えられる神の恵みには、限界があったのです。
このノアから長い長い年月を経て、
私たちのもとにイエス・キリストという方が来られました。
神は、この方を通して、私たちの罪を赦し、
私たちに救いを与えようとされたのです。
ですから私たちは、主キリストにこそ、神の恵みを見出します。
主イエスこそ、神の恵みなのです。

【神の愛を知り、人を愛する】
しかし、キリストを通して救われたからといって、
私たち人間の悪や罪が完全になくなるわけではありません。
今も神は、私たちの罪や悪を見つめて、
傷付き、心を痛め続けていることでしょう。
いえ、傷付き、心を痛め続けていることに違いありません。
それでも、神は私たちを愛し続け、
罪の赦しを与えてくださっている現実があります。
私たちは、キリストを通してそれを確信するのです。
だからこそ、その事実に感謝しましょう。
どうしようもない罪の現実を抱える私たちを、
傷付き、心を痛め、葛藤しながらも、愛してくださる神の姿を通して、
私たちは、私たち自身もどのように人を愛するべきかを教えられます。
私たち人間は、罪や弱さを抱えている以上、
傷つかないで人を愛せるわけはありません。
相手と深く関われば関わるほど、見えてくることは多くあります。
良い面も見えてくる一方で、
悪い面、愛することに難しさを感じる面とも出会うのです。
しかし、それでも愛するようにと、私たちは招かれています。
傷付き、葛藤を覚えながらも、それでも、人を愛するようにと。
神が、傷付き、葛藤しながらも、

私たち一人ひとりを愛してくださったのですから。