しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2015年11月1日日曜日

説教#91:「神の約束を信じて生きる」

『神の約束を信じて生きる
聖書 創世記 9:1-17、コロサイの信徒への手紙 3:1-4
日時 2015年 11月 1日(日) 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【神の恵みにより、祝福を受ける】
ノアの時代に、世界を襲った洪水の水は引いていきました。
そのため、箱舟に乗ったものたち、ノアとその家族と動物たちは、
箱舟を降りることができました。 
彼らが箱舟から降りたその後、
神はノアとその息子たちを祝福して、このように言われました。 
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1) 
この言葉がこのタイミングで語られたことには、大きな意味がありました。 
神はこれと同じ祝福の言葉を、この世界を造られた時に語られました。
神は、人間だけでなく、この世界全体に、
そう、神が造られたすべてのものに向かって、
「産めよ、増えよ」と、この世界の創造のはじめに祝福されたのです。
しかし、その後引き起こされた洪水によって、
すべての地上の生き物は、ことごとく滅ぼされてしまいました。
それはまさに、神の語った「産めよ、増えよ」という祝福を
否定しているかのような出来事でした。
このような悲惨な結果をもたらした洪水の原因は、人間の側にありました。
人間の悪が地上に増し加わっていったため、神は心を痛めながら、
洪水によって人間を裁く決断をされたと聖書は証言しています。
しかしそれにも関わらず、神は、
お造りになったすべてのものを完全に滅ぼすことはされませんでした。
神は、ノアとその家族を箱舟に乗せ、彼らを洪水から救われたのです。
また、洪水によってもたらされた水で、
この世界を覆ったままにすることはされず、
神は水を引いてくださいました。
そして、洪水の後、神は再び祝福を与えられたのです。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1) 
この祝福の言葉から、洪水後の新しい時代が幕を開けました。
ただ、一方的に神から与えられるという形で、洪水後の時代は始まったのです。
【人間の手に委ねられている責任】
神は、ノアとその息子たちを祝福された後、こう言われました。
動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える。(創世記9:3)
神は「動物たちの肉を食べて良い」という許可を与えられたのです。
ただし、許可を受けたからといって、貪っていいわけではありません。
神はこう付け加えています。
肉は命である血を含んだまま食べてはならない。(創世記9:4) 
肉を食べる際、血を注ぎ出すようにと、神は命じています。
古代の人々にとって血は、命を意味するものでした。
そのため、注ぎ出される「命である血」を見つめるたびに、 
人々は命の尊さを実感しました。
人間がこの掟を守り、命の尊さを知ることを通して、
神は、動物たちの生命が人間の手によって
むやみに貪られることがないように配慮されたのです。
私たちは、神が、動物たちの肉を食べて良いと許可したという言葉よりも、
すべての生きものは、「あなたの手に委ねられる」(創世記9:2)
と神が言われたことに目を留める必要があります。
人間の手に委ねられている動物たちと 
正しい関係を築き続けることが人間には求められているのです。
そして、人間には、神にこの世界を委ねられた者として、 
神の祝福である「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という言葉が 
動物たちの間で実現されていく責任があります。
この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福を 
否定し、破壊するのはいつも人間でした。
人間と共にこの世界に生きる存在として造られた動物たちを、
自分の好き勝手に貪ることによって、
「産めよ、増えよ」という祝福を否定する危険もあります。
また、動物に対してだけではなく、
人間同士の関係の中でさえ、神の祝福を否定することもあります。
ですから、神はこのように言われました。
人の血を流す者は 人によって自分の血を流される。 人は神にかたどって造られたからだ。(創世記9:6) 
神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と語るだけではなく、
人間にこのような戒めを語ることによって、
彼らに与えられている、祝福の下に生きる責任を思い起こさせたのです。

【神は、地上のすべての生きものと「永遠の契約」を立てた】
神は、箱舟から降りた人々を祝福しただけではありませんでした。
神は彼らを祝福した後、このように言われました。
わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。 (創世記9:9) 
「後に続く子孫」とあるように、 
ノア以降のすべての人類に対して、神は契約を立てられました。
そして驚くべきことに、人間だけでなく、地のすべての生き物との間に、
神はこの契約を交わされたのです。
ここで、神は契約を「立てる」と言っています。
旧約聖書において、契約をする際に用いられる動詞として一般的なのは、 
「立てる」よりも、「結ぶ」と訳される動詞「カーラト」です。
「カーラト」のもともとの意味は「切る」です。
この動詞は、契約を結ぶ際、その契約のしるしとして、
動物が「切り裂かれた」ことが由来となっています。
そのため、契約をする際に用いられる一般的な動詞である「カーラト」は、
契約をする側の行為が強調されている言葉といえます。
それに対して、この箇所で使われている「立てる」という言葉は、
「クーム」という動詞が用いられています。
この動詞は、誓いや約束の言葉を「守る」、
あるいは「果たす」という意味で使われる言葉です。
ということは、神が「契約を立てる」というとき、
契約を与える神の主導権と、神の与える約束の確かさが強調されているのです。
神が与えられたその契約の内容は、
「二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、 
洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。」(創世記9:11) 
というものでした。
神は、これを「永遠の契約」(創世記9:16)として立てられました。
人間の悪への罰として、洪水によって滅ぼさないと、 
神が永遠に守る約束として、この「永遠の契約」を立てられたのです。

【キリストにあって得る「復活」の希望】
しかし、洪水によって滅ぼさないという約束は、
人間を滅ぼさないという内容の約束ではありませんでした。
というのは、「死」という問題が、依然として残っているからです。
死を迎えるとき、私たちは「滅び」を経験します。
肉体を失い、この地上の生活で得てきたすべてのものを失います。
そして、死を迎えるとき、一緒に生きてきた人々との関係を失います。
旧約聖書において、この死の問題は解決されていません。
そのため、このような「死」という問題に直面するとき、
ノアの時代に結ばれたこの「永遠の契約」から、
私たちは何の慰めも、励ましも、希望も得ることができないのです。
そうであるなら、私たちは失望するばかりです。
しかし神は、イエス・キリストを通して、
私たちに希望の約束を与えてくださいました。
コロサイの信徒への手紙3章にこのような言葉が記されています。
あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。(コロサイ3:1-4) 
「あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから」と、
既に、キリストにあって復活の命を得ていると、
コロサイ書は力強く述べています。
キリストにあって、「将来、復活の命を得る」というのではなく、
「復活の命を得ている」と、
既に実現している事実として述べられているのです。
復活の命は、天において、
神の右の座に着いておられるキリストと共にあります。
このキリストが再び来られるとき、
私たちは、キリストにあって、復活の命を完全な形で得るのです。
これこそ、神が私たちに与えてくださった約束です。
神は、決して代わることのない希望の約束を、 
キリストにあって、私たちに与えてくださったのです。
神は、ノアの時代に人間に与えられた、
洪水によって滅ぼすことはないという「永遠の契約」を、
「キリストを通して、復活の生命を得る」という約束を与えることを通して、
更に豊かなものとされたのです。
「滅ぼさない」という言葉が、
キリストにあって、完全なものとして実現するのです。
では、この復活の希望によって、
神は私たちに何を与えてくださったのでしょうか。
復活の希望を見据えるとき、私たちは確信することができます。
死は、最終的な勝利者ではないということを。
神こそが、最終的な勝利者であり、
私たちは、その勝利にあずかる者とされているということを。
それこそが、キリストにあって将来約束されている復活の出来事なのです。
死は、必ず誰にも、等しくやってくるものです。
しかし、私たちは、神の憐れみによって、恵みによって、 
キリストに結ばれて、復活の命を得ることができます。
そこには、死によって私達が失うものを取り戻す力があります。
復活の命にあずかるとき、私たちは身体が与えられます。
そして、死によって離れ離れになってしまった家族、友人たち、
共に歩んできた愛する人々と再び出会う希望があります。
この地上で死を迎えることによって、失ってしまう交わりは数多くあります。
しかし、感謝すべきことに、
それが、復活とともに再びやって来るというのです。
ですから、神が与えてくださる復活の日は、喜びの日なのです。
このような希望に溢れる約束が与えられているから、
「上にあるものを求めなさい。」
「上にあるものに心を留め、
地上のものに心を引かれないようにしなさい」と
コロサイ書の著者は、励ますのです。
ですから、私たちも上にあるもの、
キリストにある復活の希望に、心を留めて歩んでいきましょう。
希望をもって、神のこの約束を信じつつ、
天の御国を目指して、この地上での日々を共に歩んでいきましょう。