説教#92:「恵みによって義とされる」

『恵みによって義とされる
聖書 創世記 9:18-29、ローマの信徒への手紙 3:9-24
日時 2015年 11月 8日(日) 礼拝

場所 小岩教会(日本ナザレン教団)

【ノアの「物語のその後」】
私たちの周りには、色々な「物語」があります。
私たちの出会うどの物語にも、必ず結末があります。
読者である私たちが気に入るにせよ、気に入らないにせよ、 
読まれ、語られる物語は何らかの形で、結末を迎えなければなりません。
そして、語られた物語に、愛着を持てば持つほど、 
その物語に出てきた人々の、その後のことが気になり、
「一体、この後どうなったのだろうか」と
「物語のその後」を想像することでしょう。
今日の聖書箇所は、いわば「物語のその後」です。
洪水の後、ノアとその家族はどうなったのだろうかという、
読者である私たちが抱く好奇心に、著者が応えているかのようです。
しかし、一読して抱く感想は、「正直、こんな話は求めていない」でしょう。 
ノアは、天幕の中で、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸になる。
そして、酔いからさめると、
ノアは、自分の裸を見た息子の家系を呪ってしまうのですから。
これが本当に、「神に従う無垢な人」「義人」と呼ばれた
あのノアの姿なのか、と疑ってしまいたくなります。
そのため、ノアの「物語のその後」は好んで語られません。

【地の管理者として生きたノア】
もちろん、今日の聖書箇所で、
ノアにとって不都合なことばかりが語られているわけではありません。
「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った」(9:20)と記されています。
ノアが農夫になったということには、大きな意味がありました。
それは、洪水によって失われていた、大地の豊かさが回復したこと。
そして、ノアがこの地の管理者として、働き始めたことを意味しています。
この地の管理者として生きる。
それは、最初の人間に与えられることによって、
すべての人間に与えられた神の命令でした。
この世界のあらゆるものを管理せよと、
私たち人間は、神から命じられています。
しかしそれと同時に、この地の管理者として生きることは、
最初の人間以来、人類が様々な方法で拒み続けたことでもありました。
そして最終的には、洪水によって、すべてが拭い去られていくことによって、
この地を管理することさえできなくなってしまいました。
しかし、洪水が過ぎ去り、ノアとその家族が箱舟から降りた後、
「ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った」(9:20)のです。
それは、ノアを通して、人間が地の管理者として生きることが、
再開されたことを示しているのです。
ノアは、神が与えてくださった使命を、自分のものとして受け取ったのです。

【呪いの言葉を吐いたノア】
しかしその後、そんなノアが、
ぶどう酒を飲んで酔い、裸になったという愚行が記されています。
聖書は、ノアの行為について、何の評価も下していません。
しかし、ぶどう酒を飲み、裸になったということは、
明らかに、彼にとっての失敗談ではあったでしょう。
ただし、問題はその後のことにありました。
ノアは酔いからさめると、自分が酔って裸になっていることを、
ノアの裸を見た息子のひとりであるハムが、兄弟たちに伝えたと知ります。
そして、それを聞いたセムとヤフェトが、
自分の裸を覆い隠してくれたことも耳にします。
するとノアは、ハムの子であるカナンに対して、
呪いの言葉を語り出したのです。
「カナンは呪われよ奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ。」(創世記9:24)
ハムのしたことの何が悪いことだったのでしょうか。
そして、なぜハムの子孫が呪われなければならなかったのでしょうか。
それについて、聖書は一切証言していません。
ハムが父親の裸を見てしまったとき、
それを兄弟たちに言いふらしてしまったことが、
倫理的に誤った行いと捉えられたのではないかと推測することは可能でしょう。
しかし、それはハムの子であるカナンを呪うほど悪いことだったのでしょうか。
ノアが呪いの言葉を語る際、
著者は「末の息子のしたことを知り」と書いています。
ハムがノアに何をしたのかは敢えて語られず、
読者にハムの行いを想像させるような表現が使われています。
そのため、書き記すことさえも厭うような、
恥ずべきことを、ハムが父親に対してしてしまったという可能性もあります。
しかし、どのような理由があるにせよ、
ノアが実の息子とその子孫を呪ったことは事実です。
実は、この呪いの言葉は、創世記において、ノアが最初に語った言葉です。
ノアの数少ない言葉の中で、最初のものが、
神への賛美や感謝ではなく、実の息子への呪いの言葉であることは驚きです。
そして、この呪いの言葉は、
人間の口からはじめて語られた、呪いの言葉でもあります。
これまで神が人間への罰として、大地を呪うことはありました。
しかし、ここに来て、人間が人間を呪うことになってしまったのです。
ノアが語った呪いの言葉以来、
人間はお互いのことを呪い合い、貶し合うようになってしまったのです。

【正しい者は、一人もいない】
これが「神に従う無垢な人」「義人」と呼ばれるノアの、
「物語のその後」に記されていることです。
ノアの物語はこのようにして終わるという、この事実を受け止める時、
読者である私たちは、嫌でも気づかされます。
「義人」と呼ばれるノアが、「義人ではない」と。
では、ノアが義人でないなら、一体誰が義人であるのでしょうか。
使徒パウロは、ローマの教会の人々に宛てて送った手紙の中で、 
このように書き記しています。
「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。(ローマ3:10-12)
パウロによれば、義人、つまり神と正しい関係を築ける人は、
「一人もいない」「ただの一人もいない」のです。
正しい行いをすることによって、
人間は、神から「あなたは義人だ、正しい人だ」
と呼ばれることは決してありません。
正しい行いをし続ける人など誰一人いないのは、
誰もがよくわかっていることでしょう。
そして、私たち自身の内から出てくるものといえば、
神への賛美や感謝、周囲の人々への愛のこもった言葉よりは、
神を汚す言葉、また人を呪い、蔑む言葉ばかりです。
言葉に出すことはなかったとしても、
私たちは、行いによって神を否定し、
心の中で絶えず人を裁いていたりするものです。
「自分」という存在のすべてが明らかにされるならば、
弁解の余地など、どこにもありません。
それゆえに、パウロは語ったのです。
「正しい者はいない。一人もいない」と。

【恵みによって「義」とされる】
しかし、そんな私たちが「義人」と呼ばれるというのです。
パウロはこのように語っています。
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマ3:24) 
驚くべきことに、ただ神の恵みによって、
私たちには神の義が与えられるというのです。
それは、キリストによる贖いの業、すなわち十字架の死を通してなされた、
神の恵みの業であるとパウロは語っているのです。
私たちが何かをしたからでも、
善い行いを積み重ねたからでもありません。
神との良い関係は、徹底的に神からのみ与えられるものなのです。
その意味で、私たち自身のうちに希望はありません。
私たちの存在や、自分の持っている能力、資質、そして経済力に、
私たち自身を救う力など一切ありません。
パウロを通して示された福音は、そのようなものではありません。
ただ神からのみ、希望は与えられる。
ただ神からのみ、救いは与えられる。
ただ神の恵みによって、私たちは義とされる。
神との正しい関係は、私たちに対する神の恵みの業として、
私たちのものとされるのです。
ただひとつの方法でのみ、
そう、神が私たちに与えてくださるということでのみ、
私たちは、神を信じる信仰も、希望も、救いも持っているといえるのです。
それが、恵みによって義とされるということです。
神が、あなたは義人であると言ってくださるから、
私たちは、義とされているのです。

【恵みによって義とされた者らしく生きる】
では、神の恵みによって義とされているならば、
私たちの日々の行いは全く関係がないし、
あとは好きなように生きても良いということなのでしょうか。
そんなことありません。
「義と宣言された者らしく生きよ」と、神は私たちに求めています。
それは神と正しい関係を築き続け、神を愛する歩みをすることです。
そして、神に愛されたように、私たちの隣人を愛する生き方です。
それは呪いの言葉を口にすることではありません。
神の祝福を携えて人々の前に出て行くならば、
私たちが語るべきなのは、祝福の言葉です。
それらのことは、私たち自身の力では出来ないと感じてしまいます。
しかし、義とされた今、私たちにはそれができると神は宣言されているのです。
それは、少しずつ、少しずつ、
イエス様に似た者へと造り変えられていくことを通して、
私という存在に実現していく神の義です。
主よ、み言葉によって日々私たちを造り変えてくださいと祈りつつ、
神によって与えられた毎日を過ごしていこうではありませんか。

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