説教#99:「嘆きのある場所に主は来られた」

「嘆きのある場所に主は来られた」
聖書 マタイによる福音書2:13-23、エレミヤ書31:15-17
日時 2015年12月27日 礼拝
場所 小岩教会(日本ナザレン教団・小岩教会)

【嘆きの声が絶えないベツレヘム】
クリスマスを迎え、救い主であるイエス様がお生まれになったことを
私たちは共に喜び、そしてお祝いをしました。
しかし、イエス様の誕生が喜ばれたその背後に、
とても悲しく、そして嘆かわしい事件が起こったことをマタイは記しています。
それは、ユダヤの王であるヘロデによる、幼子たちの虐殺でした。
ヘロデは、ユダヤ人の王が生まれる知らせを受けて、
イエス様を殺そうとしたのです。
ユダヤ人の王として生まれてきたと言われ、
王である自分に取って代わろるかもしれないイエス様の存在を、
ヘロデはどうしても許せなかったのです。
そのため、イエス様は生まれて間もなく、
ヘロデによって、命の危険に晒されました。
しかし、そこには神の助けがありました。
イエス様の父親であるヨセフが見た夢の中に、天使が現れて、
ヨセフにヘロデの計画を教え、エジプトへ逃げるようにと伝えたのです。
そのおかげで、イエス様は
ヘロデの行った幼児虐殺から逃れることができました。
しかし、「それでよかった、めでたしめでたし」とはなりません。
ベツレヘムとその周辺一帯に暮らしていた、2歳以下の、
罪もない男の子たちが一人残らず殺されてしまったのですから。
マタイは、預言者エレミヤの言葉を引用して、
愛する子どもたちを奪われた親たちの、その悲しみと嘆きの声を伝えています。
「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、 慰めてもらおうともしない、 子供たちがもういないから。」(マタイ2:18)
もう子どもたちはいない。
いくら慰めの言葉を掛けられても、
奪われた子どもたちは決して帰ってきません。
ベツレヘムの人々は、ただただ、悲しみに暮れるしかありませんでした。
救い主であるイエス様の誕生の喜びの声をかき消すかのように、
ベツレヘムの人々は、悲しみ、嘆き、叫んでいたのです。

【主イエスが来られた場所】
この悲しい出来事が、預言者エレミヤが語った預言の成就である、
と語られていることに、神に対する不信感や怒りを感じるかもしれません。
「救い主イエスが産まれたその背後に、
何の罪もない幼子たちが殺されるのは、神の計画だというのか?
このような残酷な出来事が、神の望んだことなのか?」と。
しかし、注意深く読んでみると、
この出来事は、神の意図したことではないことがわかります。
15節や23節で、マタイは預言者の言葉を引用する際、
預言者を通して言われていたことが「実現するため」と書き、
起こった出来事は、神の積極的な介入によるものだと語っています。
それに対して、18節のエレミヤ書からの引用について、
マタイは、「実現するため」とは書いていません。
彼は、慎重に言葉を選び、
預言が「実現した」と報告するのみに留めているのです。
神は、ヘロデによるこの幼児虐殺の事件について、予め知ってはいました。
しかしこの預言が成就されることを、神は決して望んだわけではないのです。
もしも私たちが、この世界で起こるすべての出来事は、
神が望んだことであると思うならば、私たちは、
私たち自身が神から与えられている責任を軽視していることになります。
私たちの生涯、そして人間の歴史のその背後に、神の計画は確かにあり、
神は必要に応じて私たちの人生、そして人間の歴史に介入されます。
そのような神の計画を認めると同時に、決して忘れてはいけないのが、
私たち人間には、神の思いを知り、
神に応答していく責任があるということです。
この幼児虐殺という出来事は、明らかにヘロデに責任を追求すべき出来事です。
この預言が実現してしまったのは、
人の命を奪ってまで、自分の地位を守ろうとする、ヘロデの罪が原因であり、
ヘロデのこのような残虐な殺戮行為を許してしまった、
ユダヤの社会構造が抱える悪が原因なのです。
そのため、この幼児虐殺の出来事は、神の計画ではなく、
人間の抱える罪によって引き起こされた出来事なのです。
ですから、なぜ神はこの出来事を許されたのかと
問い続けることも、もちろん大切ですが、
それ以上に、このような嘆かわしい出来事を引き起こしてしまう、
私たち人間の抱える罪や悪の悲惨な現実を、
私たちは見つめるべきなのでしょう。
そして何より、私たちがこのような現実を抱えているから、
神は、イエス様を私たちのもとに送ってくださったのです。
私たちが、自分たちの罪や悪によって苦しみ、悲しむ場所に。
イエス様が来たことによって、
幼子たちが殺されてしまうような、悪い力の働く場所に。
幼子たちを奪われた親たちが、嘆き、悲しむ場所に。
この嘆きや悲しみの原因となっている、私たちの罪の問題を解決するために、
イエス様は私たちのもとに来てくださったのです。
この悲しみと嘆きに溢れる場所に、救いと喜びをもたらすために。

【主イエスは共に嘆く】
悲しみや嘆きがあるのは、当然、イエス様が生まれた時代だけではありません。
それ以前の時代も、そしてその後も、
そう、今を生きる私たちにも悲しみや嘆きは、当然のようにあります。
この1年を振り返るだけでも、この世界にも、
そして私たちの身の回りにおいても、様々なことがありました。
嬉しさで心が弾むときもあれば、
涙を流したときも、不安でいっぱいだったときもありました。
私たちは今日まで、それぞれに様々なことを経験してきました。
喜びに溢れたこと、そして嬉しくて、心が豊かにされたことは、
喜んで、神に感謝をささげましょう。
しかし、当然、そのような時ばかりではなかったはずです。
悲しみや嘆きを覚えるときもありました。
神の言葉も人の言葉も、虚しく響いたときもありました。
詩編の詩人が嘆いたように、神に訴えかけることも多くありました。
わたしの神よ、わたしの神よなぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず呻きも言葉も聞いてくださらないのか。(詩編22:2)
イエス様が来られたのは、まさに、そのような場所です。
私たちがこのように叫けばざるをえない場所に、イエス様は来られたのです。
私たちが、抵抗もできず、ただ嘆くことしかできない場所。
希望を見出せず、不安を感じ、ただ塞ぎ込むしかない場所。
喜びを取り戻せず、悲しみに支配され続ける場所。
人を愛することに、疲れ切ってしまった場所。
そのような場所にイエス様は来てくださり、
私たちと共に歩むことを選んでくださったのです。
私たちが悲しみ、そして嘆く場所に、救いと喜びをもたらすために。

【主イエスは、救いと喜びをもたらすために来た】
神が、イエス様によって、私たちに与えてくださる大きな希望は、
私たちが日々抱く悲しみや嘆きが、
最終的には取り去られるという約束が与えられていることです。
神は、ヨハネの黙示録を通して、私たちに約束してくださいました。
「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(黙示録21:3-4)
涙は拭い去られ、悲しみや嘆きは過ぎ去る。
神が人と共に住み、人と共にいるとき、
そのような希望に満ちた日が来るというのです。
その日は、まだ完全な形でやって来てはいません。
しかし、神の子であるイエス様が私たちのもとに来て、
私たち人間と共に住み、共にいてくださいました。
私たちが悲しみ、嘆く場所にイエス様が来て、
私たちと共にいてくださることを通して、この希望は明らかにされました。
イエス様が私たちの涙を拭い、悲しみも嘆きも取り去ってくださるのです。
預言者たちの言葉が、イエス様によって確かに実現したように、
イエス様が再び私たちのもとに来られるときに、
この言葉は、完全な形で実現するのです。
これは私たちに与えられている大きな希望の言葉です。
私たちが悲しみ、嘆く場所に、
イエス様が救いと喜びをもたらしてくださるというのですから。

【神にできないことは何一つない】
しかし、神の与えてくださった、この喜ばしい約束の言葉と出会うとき、
喜ぶ一方で、不信仰な自分と私たちは出会います。
今、私たちが抱えている悲しみや嘆きが過ぎ去るなんて信じられない。
そんな日が訪れるはずがない、と叫ぶ自分自身の存在です。
しかし、そのようなときこそ、
イエス様がお腹に宿っていることを告げられたマリアが、
天使に告げられたあの言葉を思い起こしましょう。
「神にできないことは何一つない。」(ルカ1:37)
神の子であるイエス様が私たちと一緒に歩み続けてくださるため、
私たちの抱える嘆きや悲しみが、やがて喜びや感謝に変わる。
そのような奇跡さえ、私たちは望み見ながら歩むことができるのです。
神にできないことは何一つないのですから。
そうであるならば、嘆きや悲しみに満ちている場所が、
イエス様が来られることによって、喜びに変わるかもしれないのです。
イエス様が来て、私たちと歩んでくださるということは、
それほど驚くべきことなのです。
それは、神が引き起こしてくださった奇跡の始まりです。
イエス様が私たちのもとに来てくださったのだから、
私たちは神に信頼を置き、神が将来なさる業に希望を抱くことができるのです。
私たちが悲しみ、嘆きを覚えるこの場所から、
涙が拭い去られ、悲しみや嘆きが取り去られる日が来ることを。
私たちが神に感謝すべきことは、
神の約束してくださったその日が来るのを、
私たちは、たったひとりで待ち望む必要がないことです。
その日が来るまで、たった一人で嘆きや悲しみと向き合う必要はないのです。
この礼拝堂を見渡してみましょう。
イエス様が私たちと一緒に歩んでくださると共に、
そう、私たちには共に歩むようにと招かれている、
主イエスによって結ばれている、愛する兄弟姉妹たちが与えられているのです。
ですから、これまでそうであったように、これからも、
私たちは共に歩み続けていきましょう。
どれほど悲しみや嘆きに打ちひしがれても、
神が与えてくださる約束の日があると、互いに励まし合いながら、
天の御国へと続いていくこの旅路を、共に歩んでいきましょう。

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