しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年3月13日日曜日

説教#108:「十字架の下に集う共同体」

「十字架の下に集う共同体」 
聖書 ヨハネによる福音書19:17-27、ルツ記1:16
2016年3月13日 礼拝、小岩教会 

【主イエスの死刑に悲しむ、母マリアの姿】
イエス様が十字架にかけられたとき、 そのそば近くに、
数人の女性たちと、イエス様の弟子のひとりが立っていました。 
「ゴルゴタ」という名の丘の上で、
目の前で起こっている出来事を見つめ、彼らは心を痛めていました。 
その中でも特に、涙を必死にこらえ、苦しみながら、 
目を背けて逃げ出したい気持ちでいっぱいになりながらも、
その場に立っていたのが、イエス様の母であるマリアでした。
マリアがいつここに来たのかを、ヨハネは記していません。 
しかし、イエス様が逮捕されたのは夜中であり、 
早朝から裁判が始まったことを考えると、 
イエス様が逮捕されて裁判にかけられていることが、
朝目覚めたとき一番に、マリアの耳に入ってきたと想像できます。
そして、自分の息子が死刑間近であると知ると、居ても立ってもいられなくなり、
マリアはすぐさま家を飛び出して、駆けつけてきたことでしょう。
たとえこれまでの一部始終を見ていなかったとしても、
イエス様の姿を見れば、その身に何が起こったかはよくわかりました。
何度も何度もビンタされたため、顔は腫れ上がり、
鞭を打たれて、肉が削がれたため、体中から血が流れていました。
また、イエス様は長い時間連れ回され、裁判にかけられた後、
ゴルゴタの丘まで自分で十字架を背負って歩いたため、弱り果てていました。
その上で、兵士たちに衣服を奪われ、十字架にかけられたのです。
愛する自分の息子の身に、これほど酷いことが起こるなんて、
マリアは考えたこともなかったでしょう。
かつてマリアはイエス様をお腹の中に宿している頃、
神の使いを通して、イエス様の誕生を告げられました。
それによって彼女は、イエス様が神の子であり(ルカ1:35)、
ご自分の民を罪から救う方(マタイ1:21)であることを知りました。
ですから、そのように神が希望をもって誕生を告げた、我が子の将来には、
喜びと栄光に満ちた日々が待っていると思っていたかもしれません。
しかし、そんなことはありませんでした。
今、目を背けたくなるような現実が、彼女の目の前に広がっていました。
愛する息子が傷付けられ、多くの人びとから罵られ、
そして、十字架にかけられて、殺されようとしている。
目の前に広がるこの光景に、彼女は悲しみ、苦しんでいました。
マリアの苦しみを一体誰が理解することが出来るというのでしょうか……。

【マリアに語り掛ける主イエス】
マリアの抱えたこのような悲しみを知り、彼女に寄り添ったのは、
その息子であるイエス様でした。
悲嘆に暮れる母の姿を十字架の上から見て、イエス様は彼女に語り掛けました。
「婦人よ」(19:26) 
イエス様は、実の母親であるマリアに対して
「お母さん」と呼ぶのではなく、「婦人よ」と語り掛けました。
思い返してみると、以前も、イエス様はマリアに同じように語り掛けました。
それは、ヨハネによる福音書の2章に記されている、
イエス様が最初の奇跡を行ったカナという場所でのことでした。
カナで行われた結婚式の途中で、
ぶどう酒がなくなってしまうというトラブルが起こったとき、
マリアは一緒に結婚式に出席していたイエス様に相談をしました。
「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2:3)と。
神の子であり、救い主であるイエス様なら、
何とかしてくれると思ったのかもしれません。
そんな母マリアに、イエス様はこのように言われたのです。
「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4) 
「わたしの時はまだ来ていません」といって、
神が定めるときを見つめるようにとマリアを促した後、
イエス様は、このトラブルを解決されました。
このカナでの結婚式のときと同じように、イエス様がマリアに向かって、
「婦人よ」と再び語りかけられたのは、
イエス様が十字架にかけられたこの時でした。
まさにこの時こそが、カナで行われた結婚式の席で
イエス様がマリアに向かって語った「わたしの時」だったのです。
イエス様は、神が定めたこの時にこそ、
神が行われる業を見つめ、神の御心を知るようにと促しているのです。
自分の息子の死を前にして、嘆き悲しむマリアに、 
「婦人よ」と語り掛けることを通して、イエス様は伝えているのです。
あなたが嘆き悲しんでいるこの出来事が起こるのは、
神の御心によるものなのだ、と。

【母マリアを気遣う主イエス】
しかし、「神の御心なのだから、諦めてこの出来事を受け入れなさい」
というような、冷たい態度をイエス様は取りませんでした。
「婦人よ」と語り掛けた後、死に向かう息子の姿に絶望する
母マリアに、イエス様は語り掛けました。
「御覧なさい。あなたの子です」(ヨハネ19:26) 
そう言ってイエス様は、マリアのそばにいる弟子のひとりを見つめました。
ヨハネは、この弟子のことを「愛する弟子」と紹介しています。
この弟子が誰なのか、ヨハネはその名前を記していませんが、
この「愛する弟子」と呼ばれている人は、
イエス様に信頼され、イエス様に愛された弟子のひとりだったようです。
また彼は、他の弟子たちがイエス様を否定したり、
イエス様のもとから逃げ出していく中、
イエス様の後を追って、イエス様の十字架のそばに立った人でした。
イエス様は、私が愛するこの弟子こそが、
「あなたの子です」と、母マリアに伝えました。
そして続けて、愛する弟子を見つめて言われました。 
「見なさい。あなたの母です。」(ヨハネ19:27) 
イエス様はそう言って「愛する弟子」に、
「マリアはあなたの母である」と伝えたのです。
この当時、マリアの夫のヨセフは既に亡くなっていたと考えられています。
マリアにはイエス様の他に、
少なくとも4人の息子と2人の娘がいたようですが(マルコ6:3)、
彼女の子どもたちは皆、この時はイエス様に従っていませんでした。
マリアにとって、イエス様は、愛する息子であり、
神の使いを通して、誕生を告げられた救い主でした。
そんなイエス様を失おうとしている、この時のマリアの悲しみやその心の痛みを、
心から理解し、寄り添うことの出来る人は、
残念ながら彼女の家族にはいませんでした。
そのため、イエス様が苦しめられ、殺されていく姿を
彼女はたった独りで見つめ、その現実と向き合い、
嘆き、悲しまなければなりませんでした。
そして、心が引き裂かれ、暗闇の中で生きるような経験を、
たった独りでしなければなりませんでした。
だからこそ、イエス様は愛する母を見つめた時、彼女を心から気遣って、
愛する弟子のひとりを信頼し、彼に母マリアを預けたのです。
自分が十字架にかかって死んだ後、悲しみ続けるであろう
母マリアのそばに立って、慰めとなる存在であって欲しい。
そのような願いを込め、イエス様は愛する弟子に言われたのです。
「見なさい。あなたの母です」(ヨハネ19:27)と。

【主イエスにあって家族とされる】
しかし、実際のところ、この愛する弟子とイエス様の母マリアは、
彼らは本当の親子だったわけでもありませんし、
親戚関係にあったわけでもありません。
彼らは、言ってしまえば、赤の他人でした。
このふたりの間に、「母」と「子」と呼べるような繋がりは、一切ないのです。
その意味で、イエス様は誤ったことを語っているといえるでしょう。
それにも関わらず、イエス様は彼らを母と子という関係へと招き、
彼らを「家族」とすることができました。
イエス様が家族と呼ぶものは、どうやら、
私たちが考える家族とは、少し違うもののようです。
イエス様に従い、イエス様によって結ばれている信仰者の群れ、
すなわち教会を、イエス様は家族と呼びます。
イエス様の家族とされている者は、その他の点では、他人同士です。
正直、共通点を探すほうが難しいかもしれません。
価値観も、これまで生きてきた背景も、好みも、話す言葉も違う。
様々な違いを持つ者たちを、イエス様は呼び集め「家族」とされるのです。
イエス様こそが、本来は他人でしかない人々を結びつけてひとつにし、
豊かな交わりを生み出すことの出来る方なのです。
だからこそこの時、イエス様は母マリアを愛する弟子に委ね、
彼らを家族とすることが出来たのです。

【主イエスの十字架の下に集う共同体】
ところで、マリアと愛する弟子が「家族」となったのは、
イエス様が十字架にかけられているときのことでした。
まさに彼らは、十字架の下で家族とされたといえます。
もちろん、表面的には、イエス様の十字架上での死は、
敗北と絶望のしるしでしかありません。
しかし、実際は、イエス様の十字架上での死は、
私たちに和解を与える神の業でした。
エフェソの信徒への手紙の2章には、このように記されています。
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(エフェソ2:14-16)
私たちの罪を赦し、神と私たちとを和解させ、
神との交わりを開くために、イエス様はご自分の命を差し出されました。
そして、神と私たちの和解をもたらすばかりでなく、
イエス様の十字架は、私たち人間同士に和解をもたらすもの。
まさにこの十字架がもたらした和解に基づいて、
他人でしかない者たちが、家族と呼び合える者へと変えられているのです。
教会は、イエス様の十字架によって和解を与えられ、家族とされた共同体です。
ですから、教会はイエス様の十字架の下に集い続けて、
神の愛を見つめ続けるのです。

【十字架の下に集う共同体は、与えられたものを分かち合って生きる】
私たちは、十字架の下にいる人々を通して、
母マリアを愛し、彼女の今後のことに配慮する
イエス様の深い愛を見出すことができます。
この時のマリアのように、私たちも、
様々な思いを抱いて、イエス様の前に出て行くことができます。
私たちは、喜びや感謝を覚える日を過ごすこともあれば、
悲しみや不満、苦しみや嘆きを抱える日も、
悩みや不安な思いに心が支配される日もあります。
私たちがどのような感情を抱いたとしても、
私たちはその心で抱く感情のありのままを抱いて、
イエス様の前に出て行くことができます。
イエス様は、マリアに対してそうであったように、私たちに対しても、
愛を注ぎ、私たちの日々の歩みに心を配っておられる方なのですから。
だから、私たちは主イエスの十字架の下へと出て行くのです。
それと同時に、イエス様の十字架上での死は、
すべての人々に対する、神の愛と赦しのしるしです。
そのため、私たちは十字架の下に行くとき、
神の愛と赦しを見出すことができるのです。
私たちは神から受け取っているものを、
豊かに分かち合う形で与え合うようにと招かれています。
私たちは、神によって愛を与えられました。
神に与えられたこの愛をお互いに分かち合い、愛されたように愛し合うために、
私たちは神にこの場所に招かれました。
また、神に与えられた赦しを確信し、
赦されたようにお互いに赦し合って生きるように、招かれています。
そして、慰め合い、希望を分かち合う交わりに、私たちは招かれています。
これこそ、神によって建てられた神の家族である教会の姿でしょう。
イエス様によって結び合わされた交わりは、今もここにあります。
2,000年もの間、教会はそのような交わりを続けてきました。
ですから、これまでそうであったように、これからも、
私たちは十字架の下に集う家族として、歩み続けて行きましょう。
神から豊かに与えられたものを、喜びと感謝をもって、
お互いに分かち合って歩んでいきましょう。
苦しむ者と共に苦しみ、共に手を取り合って祈り合いましょう。
共に主イエスの十字架の下へと進んで行き、
神の愛と赦し、慰めと励ましを豊かに受け取りましょう。
そんな交わりを、私たちは続けていこうではありませんか。
私たちは主イエスの十字架の下に呼び集められ、

共に歩むように招かれた主キリストにある家族なのですから。