しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年5月15日日曜日

説教#117:「平和を実現する共同体」

「平和を実現する共同体」 
マタイによる福音書 5:9、ヨエル書 3:1-5
2016年5月15日 礼拝、小岩教会 

【平和の実現を願うにも関わらず……】
平和が実現すること。 
それは、いつの時代も、人々の心からの願いだといえるでしょう。 
平和の実現が人々の願いであり続けているのは、
平和が実現していないと、多くの人が感じているからかもしれません。
また、平和な日々を過ごしていると思っていたとしても、 
いつかそれが自分から奪い去られてしまうかもしれない
という不安があるからかもしれません。 
だからこそ、これまでの人類の歴史を通して、 
平和を求める取り組みは様々な形でなされてきました。 
虐げられ、抑圧されている人々の人権を取り戻すための運動が行われたり、
過去の過ちから学ぶために、ユダヤ人迫害の行われたアウシュビッツや、
原爆を落とされた広島・長崎に記念館が建てられました。
多くの人から賞賛される、このような取り組みがある一方で、
軍事力に頼る形で問題を解決し、経済的な方法で制裁を加えるなど、
非難せずにはいられないような取り組みも数多くなされてきましたし、
今も世界中でなされているのは、否定の出来ない事実です。
誰の心にも平和を求める思いがあるにも関わらず、平和は一向に実現せず、 
世界各地で起こる紛争や差別などによって、
相変わらず、憎しみの連鎖を生み出し続けています。
それらのことは、私たちにとって、決して他人事ではありません。
私たちの身近なところにも、平和とは決して呼べない現実は広がっています。
違いを受け入れあえず、お互いの間に壁をつくってしまいます。
争いや仲間はずれだって、そこら中で起こっています。
誰もが平和を願っているはずです。
それなのに、私たちのごく身近なところでさえ、平和は実現していないのです。
そのような現実に気付くたび、悲しみを覚えることでしょう。
いや、悲しむことが出来ないほど、
私たちの心は麻痺していることさえあります。
【「シャローム」とは】
だから、イエス様はご自分のもとに集まった人々に、このように語りかけました。
平和を実現する人々は、幸いである、 その人たちは神の子と呼ばれる。(マタイ5:9)
このとき、イエス様が語った「平和」とは、どのようなものなのでしょうか。 
このイエス様の言葉を聞くとき、
旧約聖書における重要な言葉のひとつである、ヘブライ語「シャローム」が
その背景にあることを思い起こす必要があります。
シャロームとは、「平和」や「平安」と訳される言葉ですが、
争いの全くない状態とは少し違ます。 
私たち人間が理想として描く状態ではなく、 
神の意志にかなった世界の状態を「シャローム」と呼びます。 
では、神の意志にかなった世界の状態とは、どのような状態なのでしょうか。
創世記1章に記されている、天地創造の物語を思い起こしてみましょう。
そこでは、このように宣言されています。
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。(創世記1:31)
この世界は、神によって造られ、
神によって「極めて良い」(創世記1:31)と宣言された世界です。
神に「良い」と宣言されたものが、「良い」状態である。
いや、神によって造られたすべてのものが、
ますます「良い」存在として輝くことができる。
そのような世界のあり方こそ、神の意志にかなった世界の状態といえるでしょう。
神に造られたものが、その本来のありのままの姿であることを喜び、
そのものらしくいることが出来る。
そのような状態こそ、シャロームなのです。
本来、私たちの生きるこの世界は、神によって造られたとき、
「シャローム」を保っていました。
しかし残念なことに、長い長い年月を経た今、
シャロームではなくなっています。
神の意志にかなった世界ではなくなっています。
ときに「理想像」を押し付け合い、
またときに憎しみ合い、争い合う。
そのような私たち人間の現実を見たとき、
神は決して「極めて良い」と宣言することはできないでしょう。
それにしても、なぜそうなってしまったのでしょうか。
なぜ神が意図した、シャロームは大きく損なわれてしまっているのでしょうか。
聖書は一貫して、その原因は、私たち人間が
神に背き続けているためだと語ります。
神の意志を無視して、自分の理想を追い求めているためである、と。
神に背を向けているため、
私たちは互いに傷つけ合い、憎しみ合い、
自分なりの平和を押し付け合ってしまっているのです。

【「ローマの平和」】
ところで、イエス様が「平和を実現する人々は、幸いである」
と語った時代は、どのような時代だったのでしょうか。
その当時、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありました。
この時のローマの支配は、
「パクス・ロマーナ(Pax Romana)」=「ローマの平和」と呼ばれています。
たしかに、ローマ帝国の支配のおかげで、 
地中海から海賊は駆逐され、陸地での略奪行為も大いに減少しました。 
ローマ帝国の辺境地域以外には、戦争がなくなりました。 
しかし、争いが完全になくなったわけではありません。
ローマの平和とは、軍事力による平和でした。 
軍事力によって周辺の国々に与える恐れによって、成り立つものでした。
それは、誰かの犠牲の上で成り立つ平和ともいえるでしょう。
明らかに、それはローマ軍を指揮する権利のある、
支配者や権力者の理想としての平和の実現でした。 
人類の歴史を振り返るとき、多くの場合、
「平和」は国家の支配者たちが考える平和なのです。
パクス・ロマーナの時代、ローマ帝国は人々に、皇帝崇拝を要求しました。
それは、人々がローマ皇帝のものとなることです。
しかし、私たち人間は神によって造られたというのが、
聖書の民が信じ続けてきたことです。
ですから、ローマの平和は多くの人びとの目に、
平和に見えたとしても、神のシャロームではなかったのです。
私たちが神のものであることを否定しているのですから。
そのような時代に、イエス様は
平和を実現する人々は、「神の子と呼ばれる」と語りました。
ギリシア語を見ると、イエス様は、
「神の子」を「神の子たち」と複数形で述べていることがわかります。
「神の子」という称号が、平和を実現する人々に与えられるのではありません。
平和を実現する人々が、神の息子、神の娘とされるのです。
ですから、神のものとされている私たちは、
神のシャロームの実現を求めるように招かれているといえます。

【「シャローム」の実現を求める】
「平和を実現する人々は、幸いである」とイエス様が語ったとき、
イエス様が意味した平和は、ローマの平和ではなく、神のシャロームです。
ですから、私たちは「平和」について考えるとき、
「誰にとっての平和なのか」と常に考える必要があります。
この言葉を語ったイエス様ご自身は、
弱い人、虐げられている人と一緒に食卓を囲みました。
イエス様は、虐げられている人々や弱い人々の側に立って、
平和を考え、神のシャロームの実現のために行動したのです。
そんなイエス様は、「平和を愛する人々は、幸い」とは語りませんでした。
また、「平和のために祈る人々は、幸い」とも語りませんでした。 
イエス様は、「平和を実現する人々は、幸い」と語られたのです。 
もちろん、平和を愛することも、
平和のために祈ることも、イエス様の言葉には含まれています。
しかし、私たちの信仰は心の問題で完結するものではありません。
私たちの生き方、存在のすべてに、信仰のあり方は出てくるものです。
ですから、イエス様は、「平和を愛する人々は、幸い」とも、
「平和のために祈る人々は、幸い」とも語らず、
「平和を実現する人々は、幸い」と宣言されたのです。
しかし、私たちは様々な方法で、
神のシャロームの実現を拒んでしまっています。
誰かを憎むことを通して。
自分の正しさを他人に押し付けることを通して。 
また、線を引き、差別することを通して、
神が意図され、喜ばれる関係性を築くことができずにいます。
これが信仰的なことだと言って、 
実は聖書が語っているとは言いがたいことを、
人に押し付ることさえ、時にはあります。
事実、キリスト教の歴史を振り返るとき、
国家の要求や、自らの価値観、時代の要求に合わせて、
聖書を用いてきたことが、数多くあったことに気付かされます。
十字軍の遠征、ユダヤ人迫害、戦争協力、植民地支配などが挙げられます。
これらひとつひとつの出来事の深刻さを知れば知る程、
平和の実現がどれほど難しいかがわかるでしょう。

【聖霊は私たちの平和の絆】
そのため、私たちは神の前に落胆の声を上げざるを得ません。
「私たちの力で平和を実現することは、不可能です」と。
私たちの力では、神が願い、喜ばれる「シャローム」は実現することができず、
互いに憎しみ合い、争い合ってしまっているのですから。
だから、イエス様は私たちのもとに来られたのです。
私たちの住むこの世界に「シャローム」が実現されるために、
およそ2000年前に、イエス・キリストは私たちのもとに来られたのです。
イエス様は、十字架にかかり、私たちに罪の赦しを与えてくださいました。
そうすることによって、神と私たちとの間に平和が実現されたのです。
そして、私たち人間の間に和解がもたらされたのです。
復活した後、イエス様はひとつの約束を与え、天に昇られました。
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1:8)
イエス様が与えてくださった約束とは、
私たちに神の聖なる霊である、聖霊を与えることでした。
私たちは今日、ペンテコステ=聖霊降臨祭礼拝を通して、
この出来事をお祝いするときをもっています。
ペンテコステは、聖霊が、私たちに与えられたことを喜ぶ日です。
この聖霊について、エフェソの信徒への手紙ではこのように記されている。
平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。(エフェソ4:3-4)
聖霊は私たちの平和の絆として与えられています。
私たちの力で、神のシャロームを実現することは不可能です。
それにも関わらず、イエス様は私たちに
「平和を実現する人々は、幸い」と宣言されたのです。
それは、イエス様の十字架を通して、
この世界に神の平和が打ち立てられたからです。
そして、イエス様を自分の救い主として信じる者に、
神は、平和の絆である聖霊を与えてくださいました。
この聖霊なる神と共に歩むことを通して初めて、
私たちは共に歩む人々との間で、平和を、
神の喜びであるシャロームを実現する者とされるのです。
平和の実現のため、神は私たちに聖霊を与えてくださったからです。
私たちの周りには、相変わらず、争いが絶えませんし、
憎しみや妬み、仲間はずれや差別が数多くあります。
その人らしくあるより、国家や組織、家族や時代が提案し、
推奨する「理想像」に近づくことが求められることだってあります。
そのような世界で、私たちは聖霊なる神と共に歩むことがゆるされています。
平和の絆である聖霊が、私たちを常に促し続けるのです。
神が望むシャロームを知り、神のシャロームに生きることを。
どうか「平和の源である神が
あなたがた一同と共に」(ローマ15:33)おられるますように。
聖霊なる神と共に歩み、平和を実現する人々は、幸いです。