しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年7月3日日曜日

説教#123:「だから、主イエスは来た」

「だから、主イエスは来た」 
聖書 マタイによる福音書5:27-30、士師記19:15-30
2016年 7月 3日 礼拝、小岩教会 

【「姦淫するな」と語られた理由】 
モーセの十戒の7番目に記されている言葉について、
イエス様は語り始めました。 
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ5:27-28) 
旧約聖書において「姦淫」とは、
神が喜びとする結婚生活のあり方から外れた状態を意味します。 
既婚の者や婚約中の者と、性交渉を持つことは禁止されていました。 
旧約聖書の時代から、
「姦淫するな」と強く禁じられたのには理由がありました。 
「結婚は、神の業である」というのが聖書の主張だからです。
その結婚した夫婦の関係が、本人たちの手によっても、 
また他の誰の手によっても、傷付けられ、損なわれたりしないために、 
旧約聖書の時代、「姦淫」は厳しく非難され、罰せられました。 
結婚が尊ばれていたからこそ、 
結婚した二人の関係がより豊かなものであり続けて欲しいと
神が願ったからこそ、「姦淫するな」という掟が、
神によって定められたのです。

【「姦淫するな」を他者との関係の中で考える】 
しかし、イエス様は、「姦淫するな」という戒めを
人々に思い起こさせるだけでは、満足されませんでした。 
28節でこのように語ります。 
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ5:28)
イエス様は、実際に行動に移すことだけが
「姦淫」ではないと、ここで語っています 
「みだらない思いで他人の妻を見る」。
つまり、他の人の結婚相手を欲する目的で、 
他の人の結婚相手を見ることが、ここでは禁じられています。
もしも、その心で抱いている思いを行動に移すならば、
「姦淫」の罪を犯してしまうからです。
この言葉は、明らかに、この言葉を聞いた人自身が、
清さを保つために語られているのではありません。 
一番の目的は、他者の夫婦関係に侵入しないためです。 
結婚は、神が私たちに与えてくださった、恵みに溢れた良き贈り物です。
聖書の一番初めの書簡である「創世記」の2章には、
「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と記されています。
この言葉は明らかに、結婚した2人の精神的な結びつき、
そして、肉体的な結びつきを語っています。
注目すべきなのは、続く創世記3章において、
罪がこの世界に入り込んでくるその前の出来事として、
この言葉が記されていることです。 
神は、結婚を私たちに、良いものとして与えてくださいました。
罪がこの世界に入る前から、神は結婚を、
恵みの贈り物として、私たち人間のために定めてくださいました。
このようにして神が定めてくださった結婚という現実が、
人々の間で尊重され、喜ばれ、守られるために、
イエス様は、きょうの言葉を語られたのです。
そして、「姦淫してはならない」という言葉を語り直すことによって、
私たちが共に暮らす人々とより豊かな関係を築いて、
喜びをもって共に生きるために、この言葉があると、
イエス様は教えてくださったのです。

【右の目があなたをつまずかせるなら……】 
だからこそ、イエス様はこの後により厳しい言葉を加えて語りました。
もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。(マタイ5:29-30) 
結婚関係という文脈の中で理解するならば、 
イエス様がこれほど厳しい言葉を語る理由は理解できます。 
あなたがあなたの隣人たちと、共に豊かに生きるために、 
そこにつまずきの石があることに気づいたならば、 
それを取り除く努力をしなさい、というように。 
しかし、この言葉は、結婚関係のみに言える話ではないのでしょう。 
人との関係を悪くして、結果的にあなたも、あなたの隣人たちも
つまずかせてしまうものがあるならば、取り除きなさい、と。
このイエス様の言葉は、とても厳しい言葉だといえるでしょう。 
というのも、もしも、本当にこの言葉の通りに生きようとするならば、 
私たちはすぐに身体のほとんどを失ってしまうことになるからです。
しかし、果たして、身体の一部を取り除きさえすれば、
私たちの問題は解決されるのでしょうか……。
もちろん、そんなことはありません。
目が過ちを犯すからと言って、目をえぐり取ったとしても、
代わりに手が、過ちを犯すでしょう。
また、この手が過ちを犯すからと言って、手を切り取ったとしても、
足や口が、過ちを犯すことでしょう。
そして、私たちは、身体のほとんどを失ってしまうでしょう。
イエス様はそのようなことを望んで、このように語られたわけではありません。
寧ろ、この言葉を通して、
私たちが本当に目を向けるべきものを、イエス様は示してくださっています。
私たち人間が犯す過ちの、その根本的な原因は、
私たちの身体にあるのではありません。
私たち人間には、「罪」という性質が染み付いてしまっています。
罪とは、神に背いて、自分が生きたいように、
自分の心の欲するままに生きる性質です。
身体ではなく、この罪こそが、私たちが犯す過ちの原因なのだと、
イエス様は示そうとしているのではないでしょうか。
だから、身体中を切り裂いたとしても、私たちは罪を犯してしまうし、
罪の問題は、一向に解決へと向かわないのです。

【目を背けてしまう現実】
今日は、マタイによる福音書と一緒に、
旧約聖書の「士師記」の19章を朗読していただきました。 
そこに記されている事件は、旧約聖書の時代に、 
イスラエルの中で起こった事件の中で、
最もショッキングな出来事のひとつであり、
私たち人間が抱える罪の深刻さを教えてくれる物語でもあります。
ある老人のもとに宿泊していた男性の側女が、 
ある晩、町のならず者たちの手に渡され、 
性的暴行を受けた末、彼女は命を落としてしまいました。
翌朝、亡くなった側女を見つけた男性は、 
彼女の遺体を自宅に持ち帰りました。
そして、彼は何と、彼女の遺体を12分割し、
イスラエルの12部族に送りつけたというのです。
このような事件が、聖書に記されていることに、
正直、驚きと戸惑いを覚えます。
できれば目を背けてしまいたいほどの事件です。
この物語を注意深く読んでいくと、
そこに登場する男性たちは、彼女を様々な形で傷つけていることがわかります。
しかし、彼らは何の罰も、何の損害も受けず、
ただこの女性だけが、名前も知られていないこの女性だけが傷つけられました。
イエス様の言葉に照らして考えてみるとどうでしょうか。
イエス様の言葉はこのようなものでした。
「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。
右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。」
しかし、身体を刻まれたのは、過ちを犯した男性たちではなく、
むしろ、被害者である女性の方でした。
そして、この物語において、彼女は誰の助けも得られず、 
その主人のモノであり、道具のように扱われています。 
主人に安全をもたらすために、犠牲となり、 
性的暴力を受け、死に至っています。
男たちの手によって、彼女の命も、尊厳も、完全に抹殺されてしまった
悲しく、悲惨な光景を、私たちは目にするのです。
この物語を読むとき、私たちは、出来る限り、
その悲惨さから目をそらしたいと思ってしまいます。
一人ひとりの罪にとどまらない、人間の罪深い現実があること。
また、男性優位の社会が当時築かれていて、
そのような社会が抱える構造的な罪があること。 
そして、そのような罪深い現実に、
気付かぬ内に、人々が加担してしまっていることが、
この物語を通して描かれています。
ここで物語られている人間の抱える罪は、
何も、私たちと無関係なものではありません。
人がモノのように、道具のように扱われることは、
私たちの暮らす日常に溢れています。
命を直接奪うことはなかったとしても、
人の尊厳が奪われている光景も、様々なメディアを通じて知ります。
そんな現実が少しでも改善されれば良いなと願いながらも、
残念ながら、私たちは何も出来ず、目を背けることしか出来ずにいます。
私たち人間の罪や悪によって、
長い時間を掛けて作りだしてしまった、社会の構造によって、
今も、私たちのそばで傷ついている人はいます。
身体は刻まれていないにしても、
身を引き裂かれるような思いで日々暮らすしかない人がいます。
いや、私たち自身も、そのような罪や悪の波に飲み込まれて、苦しんでいます。

【だから、主イエスは来た】
このような現実が広がっているこの世界に、良い知らせが来たと、
聖書は語り、その良い知らせを教会は希望として抱き続けてきました。
私たち人間が抱えている罪のために、私たちが苦しんでいる。
だから、イエス様は私たちのもとに来てくださった、と。
イエス様は決して私たちの罪から目をそらしませんでした。 
それは、私たち人間を、あなたを、
イエス様が愛して止まなかったからです。
愛して止まない私たちが、罪を抱えて苦しみ、悲しんでいる現実を見たから、
イエス様は、私たちの罪の解決のために行動されました。
だからイエス様は、今日の言葉を語ったのです。
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ5:27-28)
神が与えてくださった喜ぶべき夫婦の関係を、誰も侵害してはいけない、と。
それは、周囲の人々だけでなく、本人もです。
結婚した夫婦だけでなく、共に生きるすべての人々が、
より豊かな関係をお互いの間に築くことができるようになることを、
神は心から願っておられます。
だから、神は、私たちの罪を根本的に解決するために、
私たちの罪を赦すために、
私たちのもとにイエス様を送ってくださいました。
罪に苦しむ私たち人間の現実を憐れんだから、 
そして私たちをこの上なく愛しておられるから、 
神は、ご自分のひとり子であるイエス様を十字架にかけられたのです。
そして、イエス様を十字架にかけることによって、
神は、イエス様を、私たち人間の罪が生み出す、
最後の犠牲者にされたのです。
それによって、私たちは、罪に支配される者ではなく、 
神の愛に支配されて生きることが出来る者とされたのです。
結婚関係において、男性も、女性も傷ついています。
だから、イエス様は「姦淫するな」という言葉を語り直しました。
そして、結婚関係以外でも、人間の罪によって、
多くの人びとが悲しみ、傷ついています。
人がモノのように、商品のように扱われています。
私たちがそのように扱われることもあれば、
知らず知らずのうちに、私たちが隣人たちを、
そのように扱ってしまっていることもあります。
私たち自身の力では、解決することは、難しい問題です。
だからこそ、神の子であるイエス様は、私たちのもとに来てくださったのです。
私たちが、神の愛に生きるために。
私たちが心から喜び、愛する人々と喜びをもって
共に生きることができるようになるために、
神が、イエス様を私たちのもとに送ってくださったのです。
その喜びの現実は、神の業によって、
必ず私たちのもとに来るものだという約束が、私たちには与えられています。
ですから、私たちは、神が約束してくださっている喜びの関係を
踏みにじり、破壊するのではなく、
神が約束された現実がますます私たちのもとに近づいてくることを願って、
共に生きるように招かれている人々と、
互いに愛し合い、赦し合いながら、生きようではありませんか。
そのような関係は、神に愛されたように、
私たちが神と人を愛することから、
私たちの周囲で始まり、夫婦の間にも、家族の間にも、学校でも、
職場でも、今、あなたが暮らす地域においても、広がっていきます。
どうか、あなたがたの間に、主キリストにある平和があり、
神にある喜びの関係が日々築かれていきますように。