しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年7月17日日曜日

説教#125:「神の前に誠実に生きる」

「神の前に誠実に生きる」 
聖書 マタイによる福音書5:33-37、ルツ記2:10-13
2016年 7月 17日 礼拝、小岩教会 

【「偽りの誓いを立てるな」】
私たちはなぜ誓うのでしょうか。 
なぜ制約をして、固く約束をするのでしょうか。
それはきっと、自分の誠実さを相手に伝えるためでしょう。 
たしかに自分は、このことを果たしますというとき、 
その保証として、人は何かの前に誓うのでしょう。 
ときには、誓約書にサインをして、その誓いを破った場合は、
何らかの損害を被るというリスクを引き受けることもあります。
また、自分の正しさを証明するために誓うこともあるでしょう。
何か疑いをかけられたとき、人は誓います。
絶対自分ではない、と。
イエス様は「誓い」について、人々に語る際、
昔の人々が命じてきた言葉を取り上げました。 
偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ(マタイ5:33) 
偽りの誓いを立ててはならない。
聖書を用いてわざわざ語らなくとも、 
すべての人が、当然偽って誓うことはあるべきではないと思うことでしょう。 
しかし、現に、偽りの誓いはなされています。
他の人を騙して、出し抜くために、または、騙した相手を冷やかすために。
また、自分だけが損をしないために、偽りの誓いはなされます。
ユダヤの社会において、偽りの誓いは、
主なる神に対して行われることがないように、と考えられました。 
「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と訳されているギリシア語の原文は、 
「あなたの誓いは主に返しなさい」と訳すことができます。 
つまり、ここで語られていることは、「誓い」というものは、 
神に対して返済すべき義務を負ったことになる、ということです。 
神に対して誓ったならば、
その誓いを、あなたの行動を通して返す義務があるのだから、
必ずその誓ったことを果たしなさいということになります。
しかし、もしも、神に対して偽りの誓いをした場合、
誓ったことを神に返すことなど、決して出来ません。
そのため、誓ったことを神に返すことが出来ないのならば、
神に対して返済の義務が果たせない状態になってしまいます。
つまり、この「偽りの誓いを立てるな。
主に対して誓ったことは、必ず果たせ」という言葉は、
あなたが神の前で誓いを立てるなら、
必ずその義務を果たせる誓いをしなさいと言っているのです。

【神の前に誠実に生きる】
このような言葉に対して、イエス様は「しかし、わたしは言っておく。
一切誓いを立ててはならない」(マタイ5:34)と語りました。 
天にかけても、地にかけても、神の都であるエルサレムにかけても、 
また、自分自身の頭にかけても誓ってはならない、と。 
ただ「然り、然り」「否、否」と言いなさい、とイエス様は言います。
イエス様は、なぜこのように言われたのでしょうか。 
それには、ふたつの理由があると思います。 
ひとつは、自分の語る言葉に真実に、また誠実であれ、ということです。 
天地やエルサレム、あるいは人の頭を引き合いに出して、 
自分の言葉を保証することをするべきではないとイエス様は言っています。
当時の人々は、誓いを立てる際、
天地やエルサレムによって誓いを立てたのでしょう。
また、ある人々は、人間の体の一番高いところにあり、
最も大事な部分である「頭」によって誓いを立てました。
自分の誠実さを人々に保証するものとして、
人々は、これらのものによって誓ったのです。
しかし、イエス様からすれば、
それは誠実さも、真実さもないのに等しいことでした。
だから、イエス様は「一切誓いを立ててはならない」と言われたのです。
そして、イエス様の言葉を聞く人々にこのように言われたのだと思います。
もしも、あなた自身の語った言葉が真実で、また誠実なものならば、
他のもので保証を得る必要などないだろう?
あなたは、その口で語ったように、その誓いにふさわしく行動して、
誠実さと真実をあらわしなさい、と。
つまり、私たちが、自分の語る言葉に真実に、また誠実に生きることこそ、
まさに神の意思であると、イエス様はここで語っているのです。
ふたつ目の理由は、そもそも神の前に誓わない誓いなどない、ということです。 
人々は、天と地によって、
また、エルサレムや自分の頭によって、誓いを立てました。
しかし、それらすべてのものは、神によって造られたものです。
聖書は、その初めから、この世界は神によって造られたと宣言しています。
「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)と。
エルサレムは、神の都とも言われる場所ですし、
また、人の命は神によって与えられたものですので、
自分の髪の毛さえも、人は自由に色を変えることができません。
この世界のすべてのものは、神によって造られました。
その意味で、何一つとして神に属していないものはありません。
つまり、そうであるならば、天や地、またエルサレムや自分の頭にかけて、
誓いを立てなくとも、あなたが何かを誓い、何かを約束するならば、
それは、神の前で誓いを立てて、固く約束しているのと代わりがない、
とイエス様はここで述べているのです。
それは、言い換えると、神殿や礼拝堂で神を礼拝するときだけが、
神の前に生きているときではない、ということです。
私たちは、いつでも、何処にいようとも、神の前に立って生きています。
ですから、私たちは、「誓う」という行為について、
イエス様から問われているのではないのです。
「誓い」という行為が大切なのではなく、
誓ったように誠実に生きることができているか、
そして、そもそも常に神の前に立って生きているのだから、
常に、誠実に、また真実な心をもって、
日々歩むことが出来ているかが問われているのです。

【誠実に生きる共同体】
私たちの生きるこの世界のすべては神によって造られていて、
すべてのものが神に属しているのだとすれば、
私たちは、神の前に立っていないときなどありません。
そうであるならば、一人でいようとも、誰と一緒にいようとも、
私たちは神の前に立って歩んでいるといえます。
ただ、中でも、私たちが誰かと共にいるときにこそ、
私たちは、神の前に誠実に生きることが出来ているか、
どうかが問われているのだと思います。
つまり、人の前で誠実に生きることが出来ているかです。
神の前に誠実に生きようとする者たちは、
神に対してもそうであるように、
人に対しても誠実であれと、招かれているのです。
きょうはルツ記2章を一緒に朗読していただきました。 
そこには、ボアズとルツという、ふたりの男女の美しい対話が描かれています。 
ルツという名の女性は、夫を亡くした後も、義理の母であるナオミを見捨てず、 
彼女のことを気にかけて、一緒に生活をしました。 
ボアズは、ルツのそのような行いを知り、
彼女を正当に評価しています(ルツ2:11-12)。
そして、夫を亡くしたため苦しい生活を送っている彼女たちに、
ボアズは、自分ができる限りの保護を与えました。
ボアズにとって、ルツはイスラエル人ではないよそ者でした。
しかし、それにも関わらず、自分の畑でルツが落ち穂を拾うことを許し、
ルツが他の人々にいじめられないようにも配慮しました(ルツ2:8-9)。
食事のときにはルツに声を掛け、
仲間たちとの食事の輪へと招きました(ルツ2:14)。
イスラエルの人々から嫌われているモアブ人であったルツにとって、
それは大きな慰めとなったことでしょう。
このような配慮に富んだ扱いをボアズから受けたため、
ルツは心からの感謝をボアズに伝えました。
「あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、 
心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」(ルツ2:13) 
このルツの言葉を通して、ボアズが誠実に自分のすべきことをしたこと、 
そして、その結果、彼女に慰めが与えられたことを知ることができます。
このようにルツ記には、ボアズやルツが、
何が神から求められているのかを自分自身に問い掛け、 
神に祈り求め、その時々に決断を下すことによって、
それぞれが出来る限りの誠実さをもって歩んだ姿が記されています。 
ここに、神の前にも、人の前にも、
誠実に歩もうとする共同体の姿を見つめることができるのです。

【誠実に歩むことが出来る世界を求める】
もちろん、すべてがボアズとルツのようにうまくいくとは限りません。 
しかし、神のみ前を常に歩んでいる私たちは、 
神から委ねられている務めを誠実に果たすようにと招かれているのです。
そう、神の前にも、周囲の人々の前でも、
たった一人で歩んでいるかのように思えるときも。
私たちは、誠実さや真実な心を、とても簡単に投げ捨てることができます。
もちろん、目に見えて偽りであることを、私たちは滅多にしないでしょう。
誰の目から見ても、誠実さを投げ捨てていることは、怖くてできません。 
だから、誠実な思いの中に、数パーセントの嘘や、不誠実な企みを、
私たちはたくみに織り混ぜるのです。
しかし、それは本当の意味で神の前に誠実に生きているとはいえません。
神の前に誓っていれば、それは当然、偽りの誓いとなります。
神の前に誓っていなかったとしても、
私たちは常に、神の前を歩んでいるのですから、
神の目には、不誠実な私たちの姿が写ってしまうことでしょう。
しかし、そうはいっても、
心から、心の底から、神の前においても、人の前においても、
誠実に、真実な心をもって生きることは、とても困難な道です。
誠実に生きたいのに、誠実さだけではやっていけないとも思える、
現実の壁にもぶつかるでしょう。
何度も、何度も、それが出来ない自分自身に失望することにもなりかねません。
だからこそ、私たちは神に祈り求めたいと思います。
私たちの抱えるそのような弱さを知っている神が、
私たちを、神の前に誠実に生きる者へと、
日々造り変えてくださることを。
そして、私たちを悩ませ、苦しめる、私たちの周囲の環境が、
何かによって保証しなければ、相手に信頼してもらえない、
偽りや不誠実、不信のあることが当たり前である世界が、
神の前に誠実に歩むことを喜びと出来る世界へと変えられることを。
そのような世界が、神の業によって作り出されていくことを願いつつ、
私たちは、祈りつつ、神の前を誠実に歩んで行こうではありませんか。
私たちが神の前に誠実に生きるとき、神は、私たちのその誠実さを用いて、
私たちの暮らす日常に、福音の光を照らし出してくださるに違いありません。