しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年8月7日日曜日

説教#128:「神から受ける報酬」

「神から受ける報酬」 
聖書 マタイによる福音書6:1-4、列王記上17:8-16 
2016年 8月 7日 礼拝、小岩教会 

【善い行いをする動機を問う主イエス】
報酬を受け取ることは、誰もが喜ぶであろう、嬉しいことです。 
自分の行ってきたことが、正しく評価されたことを
目に見える形で知ることが出来るからです。
イエス様は、私たちの行いとそれに対する報酬について、
このように語り始めました。 
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(マタイ6:1a) 
イエス様がここで言う「善い行い」とは、ユダヤの人々の間で、 
信仰者の義務として受け止められてきた3つの行いのことを指しています。 
その3つとは、施しをすることと、祈ること、そして断食をすることでした。 
イエス様は、ユダヤの人々が信仰者の義務として受け止めてきた、 
これらの善い行ないについて、
2節から1つずつ触れて、人々に教えを語りました。
イエス様はその導入として、3つの善い行いについて語る前に
「見てもらおうとして、 人の前で善行をしないように注意しなさい」
と語られたのです。
もちろん、善い行いの種類によっては、
人の前でしなければいけないものもあるでしょう。
そのため、ここでイエス様が問題としているのは、 
「善いことを決して人前でしてはいけない」ということではありません。
「善い行いをする際に、あなたはどのような動機を抱いていますか」
と、イエス様は問い掛けているのです。
イエス様は言われます。 
人から「見てもらおう」という動機で、
つまり自分が人々から賞賛を受けるために、
人の前で善い行いをしないように注意しなさい、と。
本来、善い行いは、共に生きる周囲の人々にとって、良いことだと思うから、
喜ばれることだと思うからなされるものです。
きれいな環境をつくりたいから、ゴミを拾う。
うずくまって助けを求めている友人がいるから、
声をかけて、一緒に時間を過ごす。
このように、本来善い行いというものは、
共に生きる人々を愛するためになされるのです。
しかし、そのような本来の目的を見失い、
自分が賞賛を受けるという報酬を自分で作り出してしまっている。
そして、自分が賞賛を受けることを目的としてしまいやすい人々の姿を見つめて、
イエス様は嘆き、悲しみを覚えて、このような言葉を語られたのです。
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(マタイ6:1a) 

【憐れみ深い者は幸い】
さて、善い行いのひとつの例として、イエス様は2-4節で
貧しい人々に「施しをするとき」について語り始めました。 
ここで「施し」と訳されている言葉は、
ギリシア語では「憐れみ」という意味の言葉が用いられています。
つまり、施しとは、憐れみを行うことなのです。
そうであるならば、貧しい人々への施しだけでなく、
様々な憐れみの行いについて、イエス様が語られていることがわかるでしょう。
イエス様がこれまで語ってきた言葉を思い出してみましょう。
イエス様は、山上の説教のはじまりで、人々にこのように語り掛けました。
憐れみ深いは人々は、幸いである、その人たちは、憐れみを受ける。(マタイ5:7)
「憐れみ深く」あることは、山上の説教のはじめから求められていたことでした。
施しについて語ることを通して、イエス様は、
「あなたは、あなたが憐れみ深くあるとき、
どのような動機でその憐れみの行いをしているのか」と、
この言葉を聞くすべての人々に問い掛けているのです。
自分が賞賛を受けるためであってはならない、
というのがイエス様がここで強く言いたいことです。
自分が賞賛を受けるために、人を憐れむことは、 
ラッパを吹き鳴らして、人の注目を集めているようなことだ、
とイエス様は指摘しています。 
ラッパを吹き鳴らす行為は、王さまが何かの式典に出席することを
人々に広く知らせるために行われました。
しかし、このように、人々の注目を自分に集めて賞賛を得ようとすることは、
決して憐れみの行いとは言えません。
ですからイエス様は、そのような行いを「偽善者」のようだと言いました。
ここで原文のギリシア語に目を向けてみると、面白いことがわかります。 
「偽善者」と訳されているギリシア語が持つもともとの意味は、「役者」です。
つまり、まるでラッパを吹き鳴らすかのように、
自分が人々から賞賛されたいがために、人を憐れみ、善い行いをしている人は、
憐れみ深く、善い行いをしている信仰者を演じているに過ぎないのです。
言い換えれば、その人は「信仰者らしい」行いを行っているに過ぎない、
偽り者だと、イエス様は厳しく語っているのです。

【神の恵みによって、神の子とされている】
では、私たちは憐れみ深い行いを、どのように考え、
そして行えば良いのでしょうか。
イエス様は、このように人々に教えられました。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。(マタイ6:3)
「あなたは、自分の最も身近な親友といえども、
自分の善い行いをわざわざ知らせる必要はない」という意味を込めて、
イエス様はこのように語ったのでしょう。
イエス様の勧めるこの姿勢は、とても徹底しているように思えますが、
なぜこのようにイエス様は語られたのでしょうか。 
それは、人々が義務感に縛られていたからでしょう。
「できれば信仰者として尊敬されたい」。
そのような思いが大きければ大きいほど、
信仰者らしいことをするべきだと思ってしまいます。
信仰者らしくあるために、善い行いをして、それを人々に広めたくなる。
そうやって多くの人びとから、
「あの人は立派な信仰者だ」と認められてホッとする。
そのような人々の姿を見つめて、イエス様は違和感を覚えたのでしょう。
憐れみの行いが、人々の間で心から行われていない、と。
目の前の人を愛し、その人が神に目を向けることこそ、私たちの行いの目的です。
しかし、人々は誰かに認められたいために、
信仰者らしく生きようとしていました。
だから、イエス様は続けてこう語ったのです。
あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(マタイ6:4)
この言葉を通してイエス様は、
天の父である神から受ける報酬にこそ、目を向けるようにと招いています。
それによって、人々からの評価によって、信仰者として認められるのではなく、
神の恵みによって神の子とされていることを思い起こすように、
イエス様は人々に願ったのです。

【神から与えられた恵みの贈り物】
それでは、神から受ける報酬とは、どのようなものなのでしょうか。
「報酬」という言葉から連想するものは、お金や具体的なモノでしょう。
しかし神は、私たちの行いの結果として、
そのようなものを報酬として与えられる方ではありません。
将来、私たちが神の前に立つとき、神が私たちに
「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ25:21)という言葉を
掛けてくださることを、イエス様は譬え話を用いて教えてくださいました。
この言葉こそ、神が私たちに与えてくださる報酬です。
そのことから、神は、私たち自身の行いに従って、
私たちを救おうとは考えていないことがわかるでしょう。
驚くべきことに、私たちが善い行いをするその前から、
神は私たちのために、私たちが、天で受ける宝を備えてくださっています。
神が私たちの歩みを見て、「忠実な良い僕だ。よくやった」
と私たちに声を掛けることを決断するその前から、です。
私たちが将来、天で受ける宝とは、
報酬というよりは、神が一方的に備えてくださった恵みの贈り物です。
では、神が私たちに贈り物として与えてくださる宝とは、
どのようなものなのでしょうか。
それは、「永遠の命」です。
言い換えるならば、私たちが永遠に、神と共に生きることです。
私たちがこの宝を受け取ることが出来るようにするために、
神はイエス様を私たちのもとに送ってくださいました。
イエス様は、私たちの「道であり、真理であり、命である」お方です。
イエス様を通して、私たちは、神から永遠の命を与えられているのです。
ですから、神から報酬を受けるために、
私たちが良いことを行う必要はありません。
また、善い行いを義務として行う必要もありません。
人々から認められるために、無理をして、自分を偽る必要もないのです。
イエス様によって、「永遠の命」というこの宝が私たちに与えられている。
この約束によって、私たちは神の子とされています。
神からの報酬は、恵みの贈り物として、私たちに既に与えられているのです。
この事実が私たちを本当の意味で自由にするのです。
もちろん、「永遠の命」は神から恵みの贈り物として、
私たちに既に与えられているのだから、
私たちは善い行いをする必要は全く無い、ということではありません。
神によってこの良き贈り物が既に与えられていると知るならば、
神の子とされた私たちは、自分たちの身の回りで、
「永遠の命」に溢れる現実を味わい、喜びたいと願うことでしょう。
「永遠の命」によって与えられる現実の豊かさに気付けば、気付くほど、
そのような願いが私たちの心の内に沸き起こってくるに違いありません。
その時、私たちは善い行いへと招かれていきます。
「永遠の命」が約束する、私たちと神との交わりが実現するために、
そして、私たちと私たちが共に生きる人々との間に、
愛に満ちた交わりが実現するために、出来ることをしていきたいと思うのです。
私たち自身が、報酬を受けるためではありません。
私たちが招かれている善い行いとは、
人々の目を自分自身に向けさせるのではなく、
私たちを愛してくださっている神に向けることでしょう。
そして、与えられている「永遠の命」の現実に、一緒に目を向けて、
一緒に喜び、その豊かな交わりを味わうのです。
このように、神からの報酬は、贈り物として既に与えられているのです。
ですから、私たちは神から与えられているこの贈り物を、
大切に、しっかりとこの心に携えて日々歩んで行きましょう。
神が私たちに与えてくださると約束してくださっている「永遠の命」は、
決して古びるものでも、朽ち果てていくものでもありません。
そうではなく、その日が近づけば近づくほど、
ますます輝きを放っていくものです。
今、この地上で「永遠の命」を私たちは、神との交わりと、
隣人たちとの交わりを通して、少しずつ味わうことができています。
しかし、将来、神が私たちに「永遠の命」を実際に与えてくださるその時、
私たちは与えられるものの豊かさに驚き、歓喜の声を上げるのでしょう。
その喜びの瞬間を待ち望みつつ、今与えられている、
「永遠の命」に溢れる、神と、隣人たちとの交わりを、
心から愛し、喜びとして歩んで行こうではありませんか。