説教#130:「神の名を呼ぶ」

「神の名を呼ぶ」 
聖書 マタイによる福音書 6:9-10、創世記 28:10-19 
2016年 8月 21日 礼拝、小岩教会 

【神を「父」と呼ぶこと】 
イエス様は「だから、こう祈りなさい」と言って、 
私たちに祈りを教えてくださいました。 
その祈りは、このような言葉から始まりました。 
天におられるわたしたちの父よ(マタイ6:9a) 
この祈りを、教会は「主の祈り」と呼んで、毎週祈り続けています。 
毎週のように祈り続け、イエス様が教えてくださった祈りの言葉を覚え、 
記憶に、そして心に刻み込んでいます。 
祈りは、神との対話ですから、 
まず初めに、神に呼びかけることから始まります。 
イエス様が教えてくださったこの祈りは、 
神を「お父さん」と呼ぶことから始まっています。 
聖書を読むと、神について、様々な呼び方があることに気付くでしょう。 
全能の神(詩編91:1)、生ける神(ヨシュア3:10)、
恵み深い神(詩編68:11)。 
私の羊飼い(詩編23:1)、私の光(詩編27:1)。 
そして、アブラハムの神、イサクの神(創世記28:13)などというように。 
イエス様は、そのような数ある神への呼びかけ方の中から、 
神を「お父さん」と呼ぶことを選ばれました(マラキ2:10参照)。
この呼び方は、父親と子どもの関係にある親密さが、 
神と私たちとの関係の中にあることを示すものです。 
しかし、それは、自分の父親を通して、
神がどのようなお方なのかを知ることが出来る、という意味ではありません。 
私たちひとりひとりには、血のつながりのある父親がいます。 
しかし、彼らには、理想的で尊敬できる側面もあれば、 
人間的な弱さを抱え、決して喜ぶことのできない一面も持っています。 
そのため、父親との間に良い関係を築けない人も、 
父親から愛情を受けられず、傷付けられてきた人もいます。 
ですから、自分の父親を見つめて、
父親との関係の中で受け取るイメージを神に当てはめるような仕方で、
神を「父なる神」と理解するべきではありません。 
そうではなく、ただ神おひとりが、私たちの父であると、 
私たちは、イエス様が教えてくださった、
この祈りを通して知ることが出来るのです。 
そして、イエス様を通して、私たちは「父なる神」について、
その生涯をかけて学び続けていくのです。

【神を「私たちの父」と呼びかけることの意味】
ところで、神を自分の父と呼ぶことが出来るのは、
本来は、神の独り子であるイエス様ただひとりです。 
それにも関わらず、なぜ私たちもイエス様と同じように、神を「お父さん」と、
それも、「私たちの父よ」と呼ぶことができるのでしょうか。 
聖書において、神がどのような方として描かれているのかを、
思い起こしてみましょう。
神は、この世界を造られた方です。
また、イスラエルという民族の神であり、
私たち人間の力ではたどり着くことの出来ない、「天におられる」方です。
このように考えてみると、
神は私たちからとても遠い存在のように思えてきますし、
その上、神のことを「お父さん」と呼ぶことなど出来ないと感じるでしょう。
しかし、それにも関わらず、私たちは
神を「私たちの父」と呼ぶことが出来るというのです。
それは、私たちが自分自身の努力によって、獲得したことではありません。
神が、イエス様において行われたことにおいて、私たちは神の子とされたのです。
ローマの信徒への手紙8章において、使徒パウロはこのように書いています。
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。(ローマ8:14-15)
神の霊である聖霊を、イエス様は私たちに与えてくださいました。
聖霊を与えられている者たちは、神の子とされているのです。
そのため、私たちは、神を「私たちの父」と呼ぶことが出来るのです。
この世界のすべてを造られた方を、私たちの神と呼び、
この世界の歴史を導いておられる神を、
私たちの父と呼ぶことが許されているのです。 
神を「お父さん」と呼べる。
これは、神から与えられた、驚くべき、恵みの贈り物なのです。
このように、神に向かって「父よ」と祈るとき、
そこに「私の」ではなく、「私たちの」と付けて、
イエス様が祈ったことの意味に目を向けてみましょう。
この「私たち」に含まれている人々は、
どこまでの範囲を示しているのでしょうか。
この「私たち」という言葉は、明らかに、
イエス様がこの祈りを教えた人々だけを指す言葉ではありません。
そして、「主の祈り」を礼拝で祈っている、
今ここにいる私たちのみを指す言葉でもありません。
「私たちの父よ」と神に祈るとき、
そこには、この世界のすべての信仰者たちが含まれています。
それは、今この地上で生きている人々だけが、
「私たち」なのでもありません。
かつて主キリストにあって天に召されて、神の御許にいる人々も含んでいます。
そして、これから教会の交わりに加えられる人々も含んで、
イエス様は「私たちの父よ」という呼びかけを教えられたのです。
ですから、私たちが、神の前に立って、
「天におられる私たちの父よ」と神に呼びかけて祈るとき、 
私たちと共に、すべての信仰者たちが共に祈るのです。
アブラハムも、モーセも、ダビデも、マタイも、ヨハネも、パウロも、 
この「私たち」には含まれているのです。 
礼拝堂において、家庭において、この世界の何処においても、
私たちが神に向かって「私たちの父よ」と祈るとき、
アウグスティヌスも、ルターも、カルヴァンも、ウェスレーも、バルトも、
そして、私たちと共に教会で交わりをもったすべての人々も、
この「私たち」に含まれているのです。
そのようにして、私たちは彼らと共に祈るようにと招かれているのです。
「私たちの父よ」と、神の名を呼んで祈ることは、
これほど豊かな意味を含む呼びかけなのです。 

【神を賛美するために造られた】
このように神に呼びかけた後、イエス様は最初に、 
「御名が崇められますように」(マタイ6:9b)と祈りました。
イエス様は、当時の人々が心から欲している願いを
祈ることはされませんでした。
まず初めにイエス様が祈るようにと示されたのは、
神の名が聖とされることです。
言い換えるならば、神が賛美されることです。
私たち人間は、神を賛美するために造られました(詩編102:19)。
しかし、「御名が崇められますように」と祈るように勧めるということは、
実際のところ、神の名が崇められていないということを意味しています。
事実、自分自身のことを思い起こしてみると、
この祈りと正反対の思いを抱いて生きていることがあります。
自分がほめられ、賛美されることを願って、行動してしまう。
また、自分の利益を追い求め、自分の栄光のために、神を利用し、
時には神を押しのけることもあります。
しかし、神を賛美するために造られた私たちにとって、
それはとても窮屈で苦しい生き方です。
自分が人々からの賞賛を得て、人々から賛美されるために、
必要以上に努力をし、自分を飾らなければならないのですから。
それに対して、神を賛美するということは、
私たち自身や、私たちと共に生きる人々の存在の、
ありのままの姿を受け入れて、神に造られたことを喜ぶことです。
ですから、神の名が崇められることを求めることは、
私たちが、自分らしくあるために必要な祈りなのです。
ですから、イエス様はこの祈りを私たちに教え、
神を賛美する生き方へと、私たちを招かれたのです。

【ふたつの嘆願の祈り】
このように祈った後に、10節で、イエス様は、
ふたつのことを神に求めるようにと招かれました。
ひとつめは、「御国が来ますように」(マタイ6:10a) という祈りです。
イエス様が「来てください」と祈るように教えた、
御国、すなわち神の国とは、どのようなものなのでしょうか。
神の国とは、線引きや壁のないところです。
この世界は、性別や階級、人種や経済状態、話す言語や文化によって、
人々の間に様々な線を引き、壁を作り出します。
そのような線引きや、壁と出逢うとき、
私たちは超えられない境界線や壁があることに苦しみを覚えます。
また、理解し合えない人々との間には、線を引くことによって、
距離を保つことでしか、平和を保つことが出来ない現実に、悲しみを覚えます。
しかし、神の国は、そのようなところではありません。
神の国には、私たち人間が、自分の都合で引く様々な境界線も、国境も、
そして、超えられない壁さえもありません。
神の国は、すべての人々に開かれた国なのです。 
私たちを取り囲む現実を見る限り、
周囲の人々との間に引いてしまった境界線や、
作り出してしまった高く分厚い壁を乗り越えたり、それらをなくすことは、
私たちの力では不可能なことと思えます。
しかし、神の国が私たちのもとに完全な形で来るとき、
そのような境界線や壁はなくなるのです。
だから、イエス様のこの祈りを聞いた教会は、
「御国が来ますように」と祈り続けましたし、
私たちもこの祈りに加わるようにと招かれているのです。
そして、ふたつ目の祈りは、「御心が行われますように、 
天におけるように地の上にも」(マタイ6:10b) という祈りです。
この祈りは、多くの人々が祈りたい祈りではないと思います。
というのも、私たちの心からの願いは、
私たちが心で抱く思いや、計画、夢といったものが、実現することだからです。
しかし、イエス様が私たちに勧めるこの祈りは、
「神が私たちのすべての願いをかなえてくださいますように」
というような祈りではありませんでした。
私たちの思いではなく、神のみ心こそが行われるようにと、
イエス様は祈っています。
そのため、「主の祈り」を祈る度に、私たちの心では、 
自分の思いと、神の御心がぶつかり合う音が、
大きな大きな音を立てて響くことになります。 
神のみ心に従うことは、時に、耐え難いことだと感じると思います。
それは、神のみ心を知り、神の計画を前にするとき、
私たちが思い描く計画や夢を諦める必要があるからです。
しかし、このように私の抱く思いと、神の御心がぶつかり合うときにこそ、
私たちは、自分が神の子とされていることを思い起こす必要があります。
そして、私たちの父である神のみ心とは、
子である私たちを思う、愛に満ちた計画であることに目を向けましょう。
もちろん、私たちに神の計画のすべてを見つめることは出来ませんし、
完全に理解することも出来ません。
しかし、神の計画は、愛に満ちた計画であり、
将来に必ず希望と平和を与えるものです。
そのことを、預言者エレミヤを通して、神はこのように言われました。
わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。(エレミヤ29:11-12)
神の御心とは、神が私たちに災いを与えるための計画ではなく、
将来と希望を与える平和の計画であることを、
イエス様は強く確信していました。
ですから、イエス様は十字架に架けられるその前日の夜に、
ゲツセマネの園で「アッバ、父よ」と祈ったのでしょう(マルコ14:36)。
御自分を愛し、相応しい道へと導かれる、父なる神の業に信頼して、
イエス様は、神の御心にその身を委ねて祈ったのです。

【「アッバ、父よ」と祈れる希望】
このように、イエス様が教えてくださった祈りの意味を味わい知り、
改めて、この世界に目を向けるとき、
私たちを取り巻く日常は、
神の名が崇められていない環境であることに気付かされます。
また、御国が来ているとは思えない現実が横たわり、
神の御心ではなく、人々が自分勝手な思いを振りかざし、
お互いに傷つけ合っている光景が広がっていることに気付かされます。
だからこそ、私たちは父なる神である主の名を呼んで、祈り続けましょう。 
子である私たちを愛してくださる父なる神が、
私たちの現実に働きかけてくださることを求めて、祈り続けましょう。
この祈りにおいて、私たちの慰めであり、希望は、
神が「私たちの父なる神である」ということです。
だから、私たちはイエス様と共に、
「アッバ、父よ」と、神に向かって祈ることができるのです。
御自分の子を愛して止まない、私たちの父である神に信頼しつつ、
神のみ心を求めて、この世の旅路を歩み続けて行きましょう。

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