しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年12月4日日曜日

説教#144:「神に出来ること、出来ないこと」

「神に出来ること、出来ないこと」
聖書 ルカによる福音書 1:26-38、創世記 18:9-15
2016年 12月 4日 礼拝、小岩教会

【サラとマリア】
きょうは、ふたつの物語を一緒に朗読して頂きました。
このふたつの物語には、
同じような状況に立たされている女性の姿が描かれています。
ひとりの女性の名前は、サラ。
彼女は、神によって遣わされた人を通して、
神が自分の夫のアブラハムに告げた言葉を聞きました。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(創世記18:10)
この話をこっそりと聞いていたサラは、ひそかに笑いました(創世記18:12)。
というのも、彼女はこの時すでに89歳でした。
常識的に考えれば、89歳の女性に子どもが生まれるはずありません。
では、もう一人の女性はどのような人物だったのでしょうか。
ルカによる福音書に登場した女性の名前は、マリア。
彼女のもとにある日、ガブリエルという名の天使がやって来て、
その天使は彼女にこのように告げました。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33)
この天使の言葉に、マリアは戸惑い、恐れを抱きました。
そして、反論します。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。」(ルカ1:34)
彼女がこのように戸惑い、反論する理由はとてもよく理解できます。
というのも、彼女は婚約期間中ではありましたが、
男性と性交渉をした経験などなかったのですから。
彼女が、子どもを身ごもるわけなどありません。
そんなのあり得ない話なのです。


【神に出来ないことは何一つない】
このふたつの物語に共通している点は、
サラも、マリアも、このふたりの女性のどちらも常識的に考えれば、
子どもを産むことが出来るはずがなかったという点です。
「男の子が産まれるでしょう」という言葉を、
サラは信じられず、馬鹿らしいと鼻で笑い、
マリアはあり得ないその約束の言葉に戸惑い、
自分の身にこれから起こるかもしれないことに恐れを抱き、反論します。
ここで、彼女たちは、当然の反応をしていると思います。
面白いことに、サラに対しても、そしてマリアに対しても、
ほとんど同じ言葉が語られています。
主に不可能なことがあろうか。(創世記18:14) 
神に出来ないことは何一つない。(ルカ1:37) 
神が語られる約束を前にするとき、
あり得ないことと決めつけて鼻で笑ったり、
戸惑い、恐れ、反論することしか私たちは出来ません。
しかし、神が「出来る」と語るならば、神の約束した物事は必ず起こります。
「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)。
「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37)。
この強烈な言葉が、約束として彼女たちに語られたのです。
天使ガブリエルが証言しているように(ルカ1:35)、
聖霊が降り、いと高き方の力によって包まれたから、
彼女たちは、身ごもるはずがないのに、子を宿しました。
サラは89歳という老齢にも関わらず、イサクを産み、
マリアは男性を知らない身であったのに、
身ごもり、イエス様を産みました。
まさに、「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37)という、
彼女たちに語られた言葉の通りの出来事が起こったのです。
そのため、この言葉は私たちに
大きな励ましと慰めを与えてくれる言葉といえます。
困難な状況が解決へと導かれることは、不可能としか思えませんし、
希望がないと、鼻で笑うしかありません。
無理なことは無理と、正論を語って神の前に反論を繰り返すのは、
私たちの得意技です。
そんな私たちに対して、神は語られるのです。
「主に不可能なことがあろうか」(創世記18:14)と。
これは、私たちが諦めてしまう現実に希望を切り拓く言葉です。
「神に出来ないことは何一つない」という言葉に確信を持つとき、
秩序のないところに、秩序がもたらされることを、
私たちは待ち望むことが出来ます。
そして、神が望み、神が実行されるならば、
愛のない場所に、愛はもたらされますし、
希望の全くない、私たちが絶望するところに、
希望の光がもたらされます。
私たちが不可能と決めつけてしまう事柄でさえも、
神が働かれるならば、驚くべき方法をもって、
神は必ず解決へと導き、物事を実現すると、
私たちは信じることが出来るのです。
「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37)のですから。
だから、私たちは毎週の礼拝で「使徒信条」によって、
歴史上のすべての信仰者たちと一緒に、このように信仰を告白し続けるのです。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」(「使徒信条」より)
「全能」つまり、どのようなことも出来るお方を、
この世界のすべてを造られた方を私は信じます、と。
これが教会が立ち続けている信仰なのです。

【神の自己制限】
しかし、そのように強く信じる一方で、
私は、少し意地悪な質問をしてみたくなります。
「神に出来ないことは、本当に何一つないのだろうか」と。
たとえば、神は私たちを完全に見捨てることが出来るのでしょうか。
全能の神である主にとって、「出来ないことは何一つない」のですから、
神が望むならば、神は私たちを完全に見捨てることは確かに出来ます。
しかし、神がそれを実行に移さないのは、神が私たちを愛しておられるからです。
神の自由な決断のうちに、神はご自分が出来ることを制限されるのです。
神に出来ないことは何一つない、その一方で、
神はその自由な意志をもって、ご自分の出来ることを実行しない決断をし、
ご自分の出来ることを制限されています。
これはとても興味深い事実だと思います。
神は何でも出来るにも関わらず、
かつて下した愛の決断ゆえに、ご自分の行動を自ら制限し、
その結果として、神に出来ないことが生まれるのですから。
この「神の自己制限」ともいえるような出来事の究極の現れが、
2000年前に起こった、クリスマスの出来事です。
イエス様が人となって、私たちのもとに来られたこと。
神が人間となるということは、神の側から考えれば制限だらけです。
神は、時間にも、場所にも左右されない方です。
しかし、人となってこの地上で生活をするとき、
時間も、場所も制限され、不自由をその身に受けることになります。
人として生きる上で直面する困難や悲しみに対しても、
人間の無力さを感じつつ、乗り越えていかなければなりませんでした。
出来ないことは何一つないにも関わらず、
神が人となるという不可能なことが起こることを通して、
神は、出来ないことを増やすという決断をされたのです。
なぜそのような必要があったのか、正直、不思議でなりません。
しかし、その不思議で、信じられないことを神が決断されました。
その最大の理由は、神があなたがた一人ひとりを、
かけがえのない存在として愛しているからです。
神が私たち一人ひとりを徹底的に愛し抜くために、
どうしても必要だから、イエス様が来られたのです。
人間としてこの地上での生活を送ったイエス様は、
私たちの苦しみに徹底的に寄り添ってくださいました。
人から憎まれ、争いに巻き込まれ、
苦しみや悲しみを、イエス様は経験されました。
罪を抱えているゆえに、どうしても神に喜ばれる生き方が出来ない、
私たち人間の罪深い現実を間近で目撃しました。
そんな私たちの罪をイエス様はすべて引き受けて、
罪の赦しを私たちに与えるために十字架にかかり、死なれました。
最後まで、私たちに寄り添い、私たちを愛し抜いたからこそ、
イエス様は十字架へと向かう道を歩む決断をされたのです。
罪が赦されるということは、私たち人間の力では不可能なことです。
その不可能なことが、イエス様を通して実現したのです。
神が決断し、イエス様が歩んだその不可能と不自由を抱え続ける歩みの先に、
私たちに対する驚くべき救いの現実が広がっているのです。

【心の底からの笑いを与えられる】
ですから、私たちはいつも神の約束へと目を向けるように招かれています。
「神に出来ないことは何一つない」(ルカ1:37) と、
神がいつも私たちに語りかけてくださっているのですから。
私たちを取り囲む現実は、確かに神の介入する余地などない、
そんなの不可能ですと思いたくなることばかりかもしれません。
相変わらず心を痛める出来事は、この世界で起こり続けています。
格差もなかなか改善されませんし、
民族や言語、また文化の違いで、
簡単に見えない壁が築かれてしまっています。
高齢化や少子化の話を耳にすると、
教会の将来の歩みさえも不安に思えてきます。
そのようなことを思うとき、私たち自身は将来に何も期待できず、
また神に必要以上の期待など出来ないと思いこんでしまいます。
それは「来年の今ごろには、
あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」(創世記18:10)
と語り掛けられた、サラが置かれた心境にとても良く似ていると思います。
しかし、自分が子どもを産むことなど不可能だと鼻で笑ったサラは、
それからすぐに子を宿し、1年も経たないうちに息子イサクを産みました。
だからこそ、サラは子どもを産んだ後、
心から笑うことが出来ました(創世記21:6-7参照)。
希望など抱くことできないと最初から諦めた冷え切った笑いが、
心の奥底から沸き起こってくる喜びの笑いへと変えられたのです。
ずっと子どもが与えられずに苦しんでいたその分だけ、
大きな大きな喜びが彼女に押し寄せてきて、
彼女は心の底から笑ったことでしょう。
神が私たちに起こそうとしている、不可能なことはそのようなことです。
自分を取り囲む現実を見るとき、神が働く余地などないようにも思えます。
何の期待も希望も生まれてこないように思え、諦めてしまいます。
希望を抱くような話を聞いても、鼻で笑ってしまいます。
しかし、神が働かれるとき、そんな私たちの冷え切った笑いが、
心の底から湧き出る喜びの伴う笑いへと変えられていくのです。
それが主イエスが私たちのもとに来てくださった意味だと思うのです。
どうかこのアドベントの日々、イエス様が私たちのもとに来てくださった
この意味を、皆さんがいつも思い巡らすことが出来ますように。
私たちが最初から不可能と決めつけてしまっている現実に、
神が働きかけてくださるという期待と希望が、
主キリストにあって沸き起こってきますように。