説教#145:「そして、世界は喜び躍る」
「そして、世界は喜び躍る」
聖書 ルカによる福音書 1:39−45、イザヤ書 61:10−11
2016年 12月 11日 礼拝、小岩教会
【マリア、エリサベトのもとへ挨拶へ行く】
「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)と天使から告げられた、
イエス・キリストの母となるマリア。
彼女はその後、親戚のエリサベトに会うために、旅に出たそうです。
マリアが住んでいたナザレから、
エリサベトのいるユダまで、およそ150kmあります。
当時の移動手段は徒歩ですので、
移動のために3,4日は必要です。
決して近くはないこの道のりを旅することを、
どうやらマリアは「急いで」(ルカ1:39)決断したそうです。
マリアをこのような行動へと駆り立てたのは、神ご自身でした。
神は、ご自分が遣わした天使を通して、
マリアが男の子を産むことを伝えた後、このように語りました。
お腹に子を宿してから、もう6ヶ月になる。
この事実は、「神に出来ないことは何一つない」ことを、
マリアに確信させるものでした。
それと同時に、子どもを身ごもるはずがないのに、身ごもるという、
あり得ない出来事が起こったエリサベトは、
自分と近い境遇にあるとマリアは感じたのでしょう。
だから、是非とも、早い内にエリサベトに会いたい。
そのような願いが、自分の内側から沸き起こり、
その思いに促されて、マリアはエリサベトのもとへ行く決意をしました。
この物語の語り手のルカも、エリサベトのもとへと急ぐマリアに引っ張られ、
どこか急ぎ足で話を進めているようにも感じます。
旅のための身支度や、マリアの旅の様子など全く描くことなく、
物語は一気にエリサベトの暮らす家へと移ります。
【「胎内の子がおどった」】
無事に旅を終えて、エリサベトのもとに到着したマリアは、
エリサベトに挨拶をします。
この時に起こった出来事をルカはこのように記しています。
エリサベトがマリアの挨拶を聞いたとき、
エリサベトのお腹にいる子は、躍りました。
「胎動」が始まる時期は、一般的に妊娠してから5−6ヶ月の時期だそうです。
その頃になると、お腹の中にいる赤ちゃんが、
お腹の中でパンチやキックをしたり、
寝返りをしたりするのがよくわかってくるようになります。
エリサベトがマリアと会った時期は、
身ごもって6−7ヶ月頃のことでしょうから、
胎動にも慣れてきた時期だと思います。
そんな時期に、「胎内の子がおどった」とわざわざ記されているのですから、
これはいつも経験しているような胎動とは違ったのでしょう。
その上、ここで用いられているギリシア語の動詞は、
「飛び跳ねる」という意味の言葉ですので、
通常より激しい胎動であることが伝わってきます。
エリサベトは、この激しい胎動を通して、
お腹の中にいる赤ちゃんが、喜んでいると理解しました。
マリアとマリアのお腹の中にいる赤ちゃんとの出会いに、
お腹の中にいる我が子が、心から喜んで、飛び跳ねている、と。
「イエス」と名付けられる、マリアのお腹の中にいる
この子によって、世界に喜びが訪れる。
その事実をいち早く感じ取って、
エリサベトのお腹の中の子は喜び、躍ったのです。
【「聖霊に満たされる」ということ】
エリサベトはお腹の中の子の普段とは違う胎動を通して、
マリアの身に起こっていることが、
神の計画であると実感し、心から喜びました。
そして彼女は聖霊に満たされて、マリアを祝福したのです。
どのように彼女に働き掛けたのでしょうか。
何より、エリサベトがマリアと出会ったとき、
いつもと違う胎動が起こったことの意味を、
彼女に伝える役割を聖霊は担いました。
そして、聖霊は、彼女の感情に働き掛けて、
喜びを更に増し加えたのだと思います。
そう、聖霊は私たちの人格や生き方にのみ働き掛ける方なのではありません。
私たちの心の動き、感情にも働き掛けることの出来るお方です。
日々の出来事を通して、私たちは様々な感情を抱きます。
喜ぶこともあれば、悲しむこともあります。
楽しいこともあれば、退屈なこともあります。
何とかして眼の前の人を赦したい、愛したいと願うこともあれば、
誰かに怒りを覚えることもあります。
何も感じない鈍感なこともあれば、
酷く繊細になって、傷つきやすくなってしまうこともあります。
平安を感じることもあれば、不安に支配されることだってあります。
私たちの感情はいつも様々な形で揺れ動き、
複雑な思いが私たちの心の中でいつもうごめいています。
私たちが日々抱くそのような感情もまた、
聖霊なる神が働いてくださる領域です。
私たちが抱く様々な感情を、神は愛をもって取り扱ってくださる方なのです。
このときのエリサベストは、まさに聖霊に満たされることを通して、
喜ぶべきことを心から喜ぶ者へと変えられたのです。
罪を赦しと復活の希望、そして永遠の生命を私たちに与えるために、
救い主であるイエス・キリストが誕生するというこの事実を、
エリサベトは聖霊の働きを通して、喜ぶことが出来たのです。
このとき、エリサベトは心から喜んでいることがわかります。
「声高らかに言った」と新共同訳聖書は訳していますが、
もっと原文のギリシア語に近い形で訳してみると、
「とても大きな声で叫んで言った」となります。
エリサベトは心からマリアと、マリアのお腹に宿る子との出会いを喜んで、
とても大きな声で叫んで、祝福の言葉を語ったのです。
【喜ぶ人を通して、喜びは広がる】
これほど大きな喜びが彼女のうちに沸き起こってきたのは、
聖霊の働きと共に、お腹の中にいる自分の子が、
マリアのお腹にいるイエス様と出会って、
喜びのあまり躍りだしていることに感化されたからでしょう。
そう、喜びとは、周囲に広がっていくのものなのです。
それがイエス様との出会いであるならば、
救い主であるイエス様の誕生の知らせであるならば、尚更です。
エリサベトのお腹の中にいる子が喜び、おどりだし、
それに感化され、エリサベトが大いに喜んで、マリアを祝福する。
そして、マリアもエリサベトの喜ぶ姿を見て、
この出来事が喜びであることを強く実感したのです。
そして46節から始まる「マニフィカト」(「マリアの賛歌」)と呼ばれる
神への賛美を歌い始めたのです。
エリサベトの胎動をきっかけに、
徐々に徐々に、喜びが広がっていったのです。
それはイエス様の誕生やイエス様の宣教や語った言葉、
そして、十字架上での死と復活という出来事を通して、
この世界の人々に広がっていきました。
そして、その喜びは私たちのもとにも訪れ、
今も確かに広がっているのです。
まさに、イエス様との出会いを通して喜びを与えられた人々を通して、
喜びはこの世界に広がっていくのです。
イエス様と出会った、あなたがた一人ひとりもまた、
この喜びを携えて生きるようにと招かれています。
イエス様と出会って、心から喜ぶあなたを通して、
神はイエス様と共に生きる喜びを、この世界に伝えようとしているのです。
【そして、世界は喜び躍る】
ところで、イエス様の誕生を喜ぶのは、何も私たち人間だけではありません。
イエス様の誕生は、私たち人間だけでなく、
この世界で共に生きる、神によって造られたすべての被造物の喜びなのです。
ローマの信徒への手紙8章で、使徒パウロはこのように書いています。
すべての被造物が空しいものとされてしまっているとパウロは指摘しています。
「被造物は虚無に服しています」と。
被造物を空しい存在にしたのは、神ご自身ですが、
その根本的な原因を造り出したのは、私たち人間です。
人間が神の前に罪を犯したため、
この地は呪われるものとなった(創世記3:17)と、聖書は指摘します。
事実、私たち人間はこの世界の環境を守り、共に生きるよりも、
自分たちのために利用し、貪ってきた結果、
地球温暖化、酸性雨、海洋汚染、原発事故による放射汚染などを
引き起こしてしまいました。
また、環境が悪化していくことにより、絶滅危惧種も増えている現状です。
これはまさに、パウロが語る被造物のうめき(ローマ8:22)であり、
「滅びへの隷属」(ローマ8:21)を抱える被造物の現実でしょう。
そのため、すべての被造物はあるべき本来の美しい姿が、
神によって回復される日を強く待ち望んでいるです。
イエス様は私たち人間の罪の問題を解決するために来られました。
私たちの罪を赦し、私たちが神に喜ばれる神の民として生きるために、
イエス様は私たちのもとに来てくださいました。
私たちの罪が解決されるということは、
うめき苦しんでいる、滅びへの隷属を抱えているこの現実から、
すべての被造物が解放され、神に造られた良い状態を、美しい姿を回復する。
それは、この世界のすべての被造物にとっての大きな喜びです。
その意味で、被造物が回復されるという希望まで見出すことの出来る、
イエス様の誕生に、この世界は喜び躍るのです。
私たちが思う以上に、イエス様が私たちのもとに来たということは、
驚きと感謝で溢れている、喜びの出来事なのです。
ですから、神によって造られたすべての被造物とともに、
イエス様が私たちのもとに来てくださったことを喜びましょう。
そして、この喜びをしっかりと携えて出て行きましょう。
私たちが心から喜ぶこの良き知らせが、
私たちの愛する家族や友人、
共に生きるすべての人々の喜びとなることを願いながら、出て行きましょう。
さぁ、喜びをもって行きなさい。
聖書 ルカによる福音書 1:39−45、イザヤ書 61:10−11
2016年 12月 11日 礼拝、小岩教会
【マリア、エリサベトのもとへ挨拶へ行く】
「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)と天使から告げられた、
イエス・キリストの母となるマリア。
彼女はその後、親戚のエリサベトに会うために、旅に出たそうです。
マリアが住んでいたナザレから、
エリサベトのいるユダまで、およそ150kmあります。
当時の移動手段は徒歩ですので、
移動のために3,4日は必要です。
決して近くはないこの道のりを旅することを、
どうやらマリアは「急いで」(ルカ1:39)決断したそうです。
マリアをこのような行動へと駆り立てたのは、神ご自身でした。
神は、ご自分が遣わした天使を通して、
マリアが男の子を産むことを伝えた後、このように語りました。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。(ルカ1:36−37)「不妊の女」と呼ばれていたエリサベトが、
お腹に子を宿してから、もう6ヶ月になる。
この事実は、「神に出来ないことは何一つない」ことを、
マリアに確信させるものでした。
それと同時に、子どもを身ごもるはずがないのに、身ごもるという、
あり得ない出来事が起こったエリサベトは、
自分と近い境遇にあるとマリアは感じたのでしょう。
だから、是非とも、早い内にエリサベトに会いたい。
そのような願いが、自分の内側から沸き起こり、
その思いに促されて、マリアはエリサベトのもとへ行く決意をしました。
この物語の語り手のルカも、エリサベトのもとへと急ぐマリアに引っ張られ、
どこか急ぎ足で話を進めているようにも感じます。
旅のための身支度や、マリアの旅の様子など全く描くことなく、
物語は一気にエリサベトの暮らす家へと移ります。
【「胎内の子がおどった」】
無事に旅を終えて、エリサベトのもとに到着したマリアは、
エリサベトに挨拶をします。
この時に起こった出来事をルカはこのように記しています。
マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。(ルカ1:41)救い主であるイエス様を、そのお腹に宿しているマリアと出会い、
エリサベトがマリアの挨拶を聞いたとき、
エリサベトのお腹にいる子は、躍りました。
「胎動」が始まる時期は、一般的に妊娠してから5−6ヶ月の時期だそうです。
その頃になると、お腹の中にいる赤ちゃんが、
お腹の中でパンチやキックをしたり、
寝返りをしたりするのがよくわかってくるようになります。
エリサベトがマリアと会った時期は、
身ごもって6−7ヶ月頃のことでしょうから、
胎動にも慣れてきた時期だと思います。
そんな時期に、「胎内の子がおどった」とわざわざ記されているのですから、
これはいつも経験しているような胎動とは違ったのでしょう。
その上、ここで用いられているギリシア語の動詞は、
「飛び跳ねる」という意味の言葉ですので、
通常より激しい胎動であることが伝わってきます。
エリサベトは、この激しい胎動を通して、
お腹の中にいる赤ちゃんが、喜んでいると理解しました。
マリアとマリアのお腹の中にいる赤ちゃんとの出会いに、
お腹の中にいる我が子が、心から喜んで、飛び跳ねている、と。
「イエス」と名付けられる、マリアのお腹の中にいる
この子によって、世界に喜びが訪れる。
その事実をいち早く感じ取って、
エリサベトのお腹の中の子は喜び、躍ったのです。
【「聖霊に満たされる」ということ】
エリサベトはお腹の中の子の普段とは違う胎動を通して、
マリアの身に起こっていることが、
神の計画であると実感し、心から喜びました。
そして彼女は聖霊に満たされて、マリアを祝福したのです。
あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。(ルカ1:42−43)このとき、エリサベトに働いた聖霊は、
どのように彼女に働き掛けたのでしょうか。
何より、エリサベトがマリアと出会ったとき、
いつもと違う胎動が起こったことの意味を、
彼女に伝える役割を聖霊は担いました。
そして、聖霊は、彼女の感情に働き掛けて、
喜びを更に増し加えたのだと思います。
そう、聖霊は私たちの人格や生き方にのみ働き掛ける方なのではありません。
私たちの心の動き、感情にも働き掛けることの出来るお方です。
日々の出来事を通して、私たちは様々な感情を抱きます。
喜ぶこともあれば、悲しむこともあります。
楽しいこともあれば、退屈なこともあります。
何とかして眼の前の人を赦したい、愛したいと願うこともあれば、
誰かに怒りを覚えることもあります。
何も感じない鈍感なこともあれば、
酷く繊細になって、傷つきやすくなってしまうこともあります。
平安を感じることもあれば、不安に支配されることだってあります。
私たちの感情はいつも様々な形で揺れ動き、
複雑な思いが私たちの心の中でいつもうごめいています。
私たちが日々抱くそのような感情もまた、
聖霊なる神が働いてくださる領域です。
私たちが抱く様々な感情を、神は愛をもって取り扱ってくださる方なのです。
このときのエリサベストは、まさに聖霊に満たされることを通して、
喜ぶべきことを心から喜ぶ者へと変えられたのです。
罪を赦しと復活の希望、そして永遠の生命を私たちに与えるために、
救い主であるイエス・キリストが誕生するというこの事実を、
エリサベトは聖霊の働きを通して、喜ぶことが出来たのです。
このとき、エリサベトは心から喜んでいることがわかります。
「声高らかに言った」と新共同訳聖書は訳していますが、
もっと原文のギリシア語に近い形で訳してみると、
「とても大きな声で叫んで言った」となります。
エリサベトは心からマリアと、マリアのお腹に宿る子との出会いを喜んで、
とても大きな声で叫んで、祝福の言葉を語ったのです。
【喜ぶ人を通して、喜びは広がる】
これほど大きな喜びが彼女のうちに沸き起こってきたのは、
聖霊の働きと共に、お腹の中にいる自分の子が、
マリアのお腹にいるイエス様と出会って、
喜びのあまり躍りだしていることに感化されたからでしょう。
そう、喜びとは、周囲に広がっていくのものなのです。
それがイエス様との出会いであるならば、
救い主であるイエス様の誕生の知らせであるならば、尚更です。
エリサベトのお腹の中にいる子が喜び、おどりだし、
それに感化され、エリサベトが大いに喜んで、マリアを祝福する。
そして、マリアもエリサベトの喜ぶ姿を見て、
この出来事が喜びであることを強く実感したのです。
そして46節から始まる「マニフィカト」(「マリアの賛歌」)と呼ばれる
神への賛美を歌い始めたのです。
エリサベトの胎動をきっかけに、
徐々に徐々に、喜びが広がっていったのです。
それはイエス様の誕生やイエス様の宣教や語った言葉、
そして、十字架上での死と復活という出来事を通して、
この世界の人々に広がっていきました。
そして、その喜びは私たちのもとにも訪れ、
今も確かに広がっているのです。
まさに、イエス様との出会いを通して喜びを与えられた人々を通して、
喜びはこの世界に広がっていくのです。
イエス様と出会った、あなたがた一人ひとりもまた、
この喜びを携えて生きるようにと招かれています。
イエス様と出会って、心から喜ぶあなたを通して、
神はイエス様と共に生きる喜びを、この世界に伝えようとしているのです。
【そして、世界は喜び躍る】
ところで、イエス様の誕生を喜ぶのは、何も私たち人間だけではありません。
イエス様の誕生は、私たち人間だけでなく、
この世界で共に生きる、神によって造られたすべての被造物の喜びなのです。
ローマの信徒への手紙8章で、使徒パウロはこのように書いています。
被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。(ローマ8:19−21)本来、神によって良いものとして、美しい存在として造られた、
すべての被造物が空しいものとされてしまっているとパウロは指摘しています。
「被造物は虚無に服しています」と。
被造物を空しい存在にしたのは、神ご自身ですが、
その根本的な原因を造り出したのは、私たち人間です。
人間が神の前に罪を犯したため、
この地は呪われるものとなった(創世記3:17)と、聖書は指摘します。
事実、私たち人間はこの世界の環境を守り、共に生きるよりも、
自分たちのために利用し、貪ってきた結果、
地球温暖化、酸性雨、海洋汚染、原発事故による放射汚染などを
引き起こしてしまいました。
また、環境が悪化していくことにより、絶滅危惧種も増えている現状です。
これはまさに、パウロが語る被造物のうめき(ローマ8:22)であり、
「滅びへの隷属」(ローマ8:21)を抱える被造物の現実でしょう。
そのため、すべての被造物はあるべき本来の美しい姿が、
神によって回復される日を強く待ち望んでいるです。
イエス様は私たち人間の罪の問題を解決するために来られました。
私たちの罪を赦し、私たちが神に喜ばれる神の民として生きるために、
イエス様は私たちのもとに来てくださいました。
私たちの罪が解決されるということは、
うめき苦しんでいる、滅びへの隷属を抱えているこの現実から、
すべての被造物が解放され、神に造られた良い状態を、美しい姿を回復する。
それは、この世界のすべての被造物にとっての大きな喜びです。
その意味で、被造物が回復されるという希望まで見出すことの出来る、
イエス様の誕生に、この世界は喜び躍るのです。
私たちが思う以上に、イエス様が私たちのもとに来たということは、
驚きと感謝で溢れている、喜びの出来事なのです。
ですから、神によって造られたすべての被造物とともに、
イエス様が私たちのもとに来てくださったことを喜びましょう。
そして、この喜びをしっかりと携えて出て行きましょう。
私たちが心から喜ぶこの良き知らせが、
私たちの愛する家族や友人、
共に生きるすべての人々の喜びとなることを願いながら、出て行きましょう。
さぁ、喜びをもって行きなさい。