しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年12月18日日曜日

説教#146:「マリアと共に歌え」

「マリアと共に歌え」 
聖書 ルカによる福音書 1:46-56、サムエル記 上 2:1-10
2016年 12月 18日 礼拝、小岩教会

【私たちは歌う】 
皆さんはどのようなときに歌を歌うでしょうか。 
もちろん個人差はあるでしょうが、 
私たちは様々なときに歌を口ずさみます。 
単調な作業を続けているときは、 
その場を華やかに、また楽しくするために、 
口笛を吹いたり、鼻歌を歌ったりします。
子育て中の方は、子どもと一緒に遊んだり、 
子どもをあやしたりするために歌います。
「いろは歌」や「アルファベットの歌」など、 
歌を用いて、必要な知識や教養を身につけることは、 
恐らく多くの人たちが経験してきたことでしょう。 
また、単純に歌うことが好きだから歌う人もいれば、
ストレスを発散する目的で、大声で歌う人もあるでしょう。 
このように、私たちは生活の様々な場面で歌を歌ってきましたし、 
きっとこれからも歌い続けます。 
楽しいときも、悲しいときにも、 
嬉しいにも、苦しいときも、
その時、その瞬間の自分の気持ちに寄り添ってくれる歌を 
私たちは選び、歌を口ずさみます。 

【喜びに溢れるマリアの歌】
ただ、歌を歌うことは、 
何も現代に生きる私たちだけが行っていることではありません。
人は、いつの時代も歌い続けてきました。 
いや、きっと現代に生きる私たち以上に、 
古代の人々は歌を歌っていたと思います。 
狩りや農作業の最中や、戦いに出ていくとき、
また季節毎のお祝いや結婚式、葬儀のときなどに人々は歌いました。
このように、歌は人々の生活と切り離すことの出来ないものでした。
だからこそ、多くの人々が歌った歌が、 
聖書にはたくさん収められているのです。
それは、私たちが「讃美歌」と呼ぶもので、
神への感謝や喜び、祈りや信仰の応答を歌うもののことです。
聖書に収められているそのような歌のひとつが、
イエス様の母マリアの歌った讃美です。 
このマリアの歌った歌は、
マリアが親戚のエリサベトから祝福の言葉を受けたときに、 
その応答として歌われたものです。 
エリサベトと会う前のマリアは、
「あなたは男の子を産む」と天使から告げられたため、
戸惑いを覚えていました。 
というのも、自分の子どもとしてこれから産まれてくる子は、 
「神の子」と呼ばれ、神が遣わした救い主だと、
天使がマリアに告げたのですから。 
でも、そんな信じられないことが自分の身に起こることを、
マリアは信じて、受け入れました。
確かに戸惑いを覚えるけれども、 
自分の身に起こるすべてのことは、神の御手のうちにあると信頼して、
マリアは天使が告げる言葉を受け止めたのです。
だからこそ、エリサベトから祝福を受けたとき、
マリアは自分の身に起こった神の業に感謝を覚えて、
喜びのあまり歌い始めました。 

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 
身分の低い、この主のはしためにも 
目を留めてくださったからです。(ルカ1:46-48) 

その心に溢れる喜びに呼応するように、 
彼女はその喜びを神の前に歌っています。 
神の恵みを受けるに値しないほど、 
自分は取るに足りない存在なのに、 
神は私に目を留めて、私にその御手を伸ばしてくださった、と。 
マリアが歌ったこの讃美は、 
サムエル記に登場するハンナという女性の祈りから強い影響を受けています。
ハンナは、長い間子どもが与えられずに、苦しんでいました。
その期間は彼女にとって、
あまりにも長い日々だったと思います。
「主よ、どうかこの私に子どもを与えてください」と祈りながらも、
ハンナは心の何処かでは、それは不可能なことだと決めつけ、
ただその苦しみや悲しみを神の前で吐き出し続けていたことでしょう。
神はそんな彼女をご覧になり、彼女を心に留められました。
神がハンナを心に留めたため、彼女に子どもが与えられました。
不可能だと決めつけて、涙を流し、苦しんでいたことが、 
神の働きによって、覆され、
ハンナを取り囲む状況がまったく新しくされたのです。 
このような神の大いなる業を経験した、このときのハンナの感謝と喜び、 
そして神の業を前にした驚きや、それに圧倒される思いを、 
マリアは自分の今の心境と重ね合わせたのだと思います。 
そして、相応しくないにも関わらずマリアを選び、
彼女を救い主であるイエス様の母親としたという、 
この神の計画を、マリアは「力ある方が、 
わたしに偉大なことをなさいました」(ルカ1:49)と表現し、 
神に感謝の讃美を捧げています。 

【神によって覆される日が来るという約束】
このように、心から神の業を喜ぶ、
この時のマリアにぴったりの讃美が、彼女に与えられ、 
彼女は喜びのうちに神を讃美したことがよくわかります。
しかし、マリアの歌は、 
彼女の喜びを表現するためだけのものではありませんでした。 
神は、喜び歌うこの時のマリアに讃美の言葉を与えることを通して、 
これから産まれてくる救い主であるイエス様によって、 
この世界に起こることを預言されました。 
マリアはこのように歌いました。 

(神の)その御名は尊く、 
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。 
主はその腕で力を振るい、 
思い上がる者を打ち散らし、 
権力ある者をその座から引き降ろし、 
身分の低い者を高く上げ、 
飢えた人を良い物で満たし、 
富める者を空腹のまま追い返されます。 (ルカ1:49-53) 

弱い人々、虐げられている人々が引き上げられる。 
貧しい人々が良い者で満たされる。
このような神の力強い約束が歌われているため、
このマリアの歌は、苦しみや悲しみを抱える
すべての人々の心に、希望の歌として響きました。
私たちが経験する苦しみや悲しみ、嘆きの多くは、
私たちの力では覆すことなど出来ません。
そのため、自分を取り囲む悪い状況を見つめるとき、
私たちは、それが永遠に続くものに思えてしまうことがあります。
しかし、マリアの歌は私たちに告げます。
今、自分を取り囲む状況ですべてが決まるのではなく、 
将来、神によって必ず引き上げられる日が来る、と希望を告げます。
あなたの苦しむその貧しさは、決して永遠のものではない。
あなたの抱える悲しみは、永遠に続くものではなく、終わりを迎える。
あなたの耳にする嘆きの声もやがてなくなり、喜びの声が響き渡る。
神が、あなたを引き上げ、良いもので満たしてくださる。
そのような希望に溢れる現実が、私たちの救い主である
イエス様によって私たちのもとに訪れると、マリアは歌っているのです。
これはまさに、私たちに希望を告げる歌です。

【謙り、低くされよ】
でも、それと同時に、このマリアの歌は恐ろしいメッセージも含んでいます。
マリアの歌にもう一度耳を傾けてみましょう。
マリアはこのように歌いました。

主はその腕で力を振るい、 
思い上がる者を打ち散らし、 
権力ある者をその座から引き降ろし、 
身分の低い者を高く上げ、 
飢えた人を良い物で満たし、 
富める者を空腹のまま追い返されます。 (ルカ1:51-53)

神は約束されました。
思い上がる、傲慢な人々を打ち散らし、
権力を用いて、弱い人々を抑圧する人々を、その座から引き降ろし、
裕福な人々を、空腹なまま追い返す、と。
このような出来事が起こるとき、 
私たちは傍観者でいられるわけがありません。
遠くの方から、神の業が実現するその様子を見て、
うまくやり過ごせることなど、出来るはずがありません。
私たち自身もその当事者の一人です。
私たち自身の驕り高ぶる心を、神は打ち砕かれます。 
権力を振るおうとする私たち自身を、神は低くされます。 
これが、イエス様を通して起こることだと、
マリアによって歌われているのです。
神は、なぜそのようなことをするのでしょうか。
それは、神の国は、思い上がって生きる高慢な人や、
権力を自分の思うがままに振るう人のためにあるのではないからです。
神の国は、自分の身を低くし、謙る心の貧しい人たちのものだからです。

【代々の信仰者たちと共に歌え】
さて、このような歌を、
私たちはマリアと共に歌うように招かれています。 
それは、この歌が、私たちの心にしっくりくるからではありません。 
また、私たちの価値観や信念とぴったり合うからでもありません。
神を信じる私たちにとって、歌うこととは、
神の約束を思い起こすことです。 
神の約束とは、私たちが信じてやまない現実を神が覆すことです。
イエス様を通して、神は私たちの現実を覆されました。
イエス様が来ることによって、神が覆さたものとは、
私たちの罪にまみれた現実です。
イエス様が来られた場所とは、
人の過ちを赦すことが出来ない、
目の前にいる人を心から愛することが出来ない、
そのような私たちがいるところです。
そして、平気で人を傷つける言葉を語ったり、
自分の都合の良いように目の前の人を動かそうとする。
そのような自分のことばかり考えて生きる私たちのもとに、
イエス様は来られました。
私たちが抱えるこのような罪にまみれている現実に、
イエス様は罪の赦しをもたらし、
救いの喜びに溢れる現実へと変えてくださいました。
赦し合い、愛し合うことの出来ない、
神に背き、自己中心に生き続ける私たちに、
赦しと愛を教えるために、イエス様は生命をかけて、
十字架にかかってくださった。
それによって、私たちに愛と赦しを教え、
イエス様によって教えられた愛に基いて生きるようにと招かれました。
神がこのような業をなさるのは、 
神は、私たちに対する憐れみをお忘れにならない方だからです(ルカ1:54)。
代々の信仰者たちは、様々な歌を歌って、 
この憐れみに溢れた神の約束を思い起こし続けてきました。 
旧約聖書の時代、イスラエルの人々は「詩編」を通して歌いました。 
詩編に収められている歌のその多くは、嘆きの言葉で満ちています。
しかし、嘆きの後に、必ず希望があることを、
神の民であるイスラエルは信じていました。 
主なる神の憐れみは決して絶えないのですから。 
きょう一緒に声を合わせて読んだ、詩編126篇は、 
そのことをよく表していると思います。 
詩編126篇は、全体的には喜びに包まれている印象を受けます。
しかし、この詩編を歌った人々は、
故郷エルサレムから遠く離れた、異国の地でこの歌を歌いました。
神が故郷エルサレムに連れ帰ってくださるという約束を聞いて、
彼らは喜びに溢れました。
しかし、その約束は未だに実現していない中で、
彼らはこの詩編を歌っているのです。
しかし、神が自分たちを故郷エルサレムへと連れ帰ってくださるという、
神の約束の言葉を信じて、彼らは歌いました。

涙と共に種を蒔く人は 
喜びの歌と共に刈り入れる。  
種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は 
束ねた穂を背負い 
喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編126:5-6) 

この詩編は、嘆き、悲しみながらも、
今自分たちが抱えるその嘆きや悲しみを乗り越えていく歌です。
たとえ今は涙を流しながら、
毎日の仕事をし続けなければならないとしても、
その種の袋の中身がいっぱいになるほどの涙を流していたとしても、
将来、神の約束が実現するとき、
必ず喜びの歌を歌うことが出来るという、希望に溢れた歌です。
自分の今の気持ちとぴったり合うわけではないけど、
イスラエルの民は、この詩編を歌い続けました。
だから、聖書にこの歌は収められたのです。
そして、聖書の時代の後も、たくさんの賛美歌が
神を信じる人々の手によって作られ続けました。 
その歌の中には、代々の信仰者たちの信仰が刻み込まれています。 
時代を越えて、国や文化、人間が作り出す様々な壁を越えて、 
神の約束を思い起こし続け、教会は歌い続けてきました。
ですから、私たちはマリアだけでなく、 
歴史上のすべての信仰者たちと共に、歌い続けましょう。 
教会は、神の約束に満ちた喜びの讃美を、
いつの時代も歌い続けるようにと、招かれ続けているのです。
ですから、私たちは世の終わりの日まで、
私たちが天の国に辿り着くその日まで、
神の約束を思い起こしつつ、喜びの讃美を歌い続けていくのです。
そして、私たちが天の国に辿り着いた日、
すべての聖徒たちとすべての造られたものたちと共に、
私たちは神を賛美し、喜びたたえる大合唱に加わるのです。
そのような将来に訪れる喜びの大合唱を待ち望んで、
預言者イザヤは、私たち一人ひとりに呼びかけているのです。

新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。(イザヤ42:10)

さぁ、神の約束に満ちた喜びの讃美を
代々限りなく歌い続けようではありませんか。