しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年1月1日日曜日

説教#148:「主イエスに結ばれて生きよ」

「主イエスに結ばれて生きよ」
聖書 ルカによる福音書2:21、申命記30:1-10
2017年 1月 1日 礼拝、小岩教会

【1月1日は主イエスの「命名日」】 
新年あけましておめでとうございます。 
皆さんの新しい1年の歩みの上に、主キリストの平和と祝福を祈ります。 
さて、新しい年を迎えるとき、
私たちはこれからの1年の予定をあれこれと思い巡らし、
色々な計画を立て、いくつかの決意をもって新しい年を歩み始めます。 
そのような計画や決意の影には、 
昨年の1年の歩みを振り返った中で都合の悪いことや反省をリセットし、 
出来るなら忘れ去って、切り替えて歩みたいという思いがあります。 
もちろん、それは決して悪いことではありません。
起こった出来事を完全になかったことにすることは出来ませんが、
それでも、信仰者は主キリストにあって、 
いつでも、いつからでも新しく歩み始めることが出来るのですから。 
でも、私たちを取り囲む年末年始の雰囲気に流されて、 
一緒に忘れてしまってはいけないことがあります。
それは、イエス・キリストがお生まれになったという知らせです。
クリスマスの後こそ、私たちはイエス様の誕生を喜ぶべきではありませんか。
きょうの箇所で、ルカは短いけれども、重要なことを私たちに伝えます。 

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:21)

教会はおよそ2000年間の間、 
12月25日にイエス様の誕生をお祝いしてきました。 
12月25日から数えて8日目が、1月1日です。 
そのため、新しい年の最初の日は、 
イエス・キリストの「命名日」としてお祝いされています。 

【幼子はイエスと名付けられた】 
ヨセフとマリアは、自分たちの子が誕生してから8日目に、
その子に「イエス」と名付けました。
この「イエス」という名前は、 
マリアが身ごもっていることを天使から告げられたときに、
「その子にイエスと名付けなさい」と命じられた名前でした。 
そのため、イエス様が、両親によって
「イエス」と名づけられたというこの出来事は、
マリアとヨセフが、神の言葉に従って生きようとしている証でもありました。 
もちろん、彼らには他の名前をこの子につける自由も与えられていました。 
しかし、彼らは神の言葉に従って、「イエス」という名を付けました。
この「イエス」という名前がもつ意味は、「神は救い」です。
彼らは、産まれてきた自分たちの子を通して、 
神がこの世界に伸ばそうとしておられる救いの御手が
実現することを心から願い、信じました。
だから、命じられたとおりに「イエス」と名付けたのです。

【神の永遠の契約のしるしとしての「割礼」】
ここで、ルカはイエス様が名付けられた日は、 
イエス様が割礼を施された日だったと報告しています。 
割礼とは、男の子のおちんちんの先の皮を、
石やナイフで切り取る儀式のことです。 
ユダヤの社会において、割礼はとても重要視されていて、 
生後8日目の男の子は必ず割礼を受けたそうです(レビ12:3)。 
なぜそれほどまでに、この割礼という儀式は重要視されたのでしょうか。
そして、割礼には、一体どのような意味が含まれているのでしょうか。 
旧約聖書の「創世記」には、割礼の意味について、このように記されています。 

それ(つまり割礼)によって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる。(創世記17:13b)

神の命令に従って、割礼を施すということは、 
身体に神の永遠の契約を刻み込むということを意味していました。 
神の契約とは、旧約聖書を通して私たちに語られている言葉です。 
私たちは、あまりにも簡単に忘れやすい存在です。 
大切な人の言葉でさえ、右から左へと抜けていくことだってあります。 
そのため、イスラエルの人々が自分の全存在をかけて、そして全生涯をかけて、 
神の言葉を聞き、神の契約に生きるために、そのしるしとして、
割礼を施すようにと、 神は旧約聖書の時代から命じてこられました。 
この割礼とは、神の契約を身体に刻み込むため、神の恵みのしるしであり、 
神に選ばれた「神の民」であるしるしとして、受け止められていました。
イエス様はユダヤ人として産まれたのですから、 
産まれたときに割礼を施されるのは、当然のことでした。 

【大切なのは心の割礼】 
しかし、この「割礼」というものは、 
見せかけだけのしるしになってしまう可能性を常に抱えていました。 
神に選ばれた民であるということを誇りながらも、 
実際の信仰のあり方、その行いや生き様、そしてその心で思うことは、 
神の民に決して相応しくないという人々は当然のようにいました。
律法は、心を尽くし、魂を尽くして、神を愛するように求めます。
しかし、神を愛しているといいながら、実際のところは
他の神にも仕え、自分自身の欲するがままに行動してしまう。
自分という存在こそが、最も愛するべき対象であるため、
人を心から愛せないし、赦すことも出来ない。
寧ろ、自分の利益のために愛する人さえも利用してしまう。
また、自分の正しさを振りかざし、人を批判し、責め立てることによって、
平和を作り出さず、争いの種を振りまいてしまう。
これが、多くの人々の抱える現実でした。
この問題は、現代に生きる私たちにとっても共通する問題だと思います。
自分の信仰が見せかけのものになってしまう危険を、
私たちはいつも抱えているのですから。
神は、私たちが抱えるこのような現実をよくご存じでした。 
そのため、モーセを通して、神はこのように語られました。 

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。(申命記30:6)

大切なのは、身体に神の契約が刻まれることではないと、
神は私たちに教えます。
信仰的に見える身なりや行い、振る舞いが重要なのではなく、
あなたの心に神の契約が刻まれているかどうかが重要なのです。
ここでモーセは、「あなたの神、主が
あなたの心に割礼を施す」と語っています。
神が、あなたにとって不必要な、いやあなたを苦しめている、
「罪」を完全に切り取り、心の割礼を施されます。
身体の割礼は、私たちにとって無関係なものとしか思えません。
しかし、心の割礼は、ユダヤ人も異邦人も関係なく必要なものです。
そして、驚くべきことに、この心の割礼は、
私たちの側の努力ではなく、神の恵みの業としてなされるのです。
だから、心の割礼を受けた者として生きなさいと、
神は私たち一人ひとりを招いておられます。
「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛し」なさい、と。
この心の割礼を受けた者として、相応しい歩みをしたのが、
イエス・キリストという方でした。
イエス様は、その身に割礼を受け、身体に神の契約を刻まれました。
しかし、イエス様はそれで良しとはせず、
その行いにおいても、言葉においても、思いにおいても、
神の民として相応しい歩みを続けました。
心を尽くし、魂を尽くして、神を愛し、隣人を心から愛し、赦し続けました。
たとえ、裏切られ、十字架に架けられ、死を目前としたときも
「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と神に祈りました。
まさに、イエス様は、割礼を見せかけのものにすることをせず、
神の民として、神の契約をその身とその心に刻まれた者として相応しい方でした。

【洗礼によって、主イエスに結ばれる】
でも、正直言って、私たちはイエス様のように歩むことは出来ません。
自分の抱える人間的な弱さに落胆することばかりです。
今日から変わろうと思っても、
今まで積み上げてきたものをすべて崩して、
新しく歩み出すことは怖くて出来ません。
相変わらず、相手の気持ちを考えることなく、
人を裁き、批判してしまい、
後から後悔することを繰り返してしまいます。
謝罪をする勇気も持てず、平和を作り出すよりも、
壁を作り出すことの方が上手に出来てしまいます。
そんな私たちが、イエス様のように、
心を尽くし、魂を尽くして、神を愛し、
隣人を心から愛し、赦し続ける歩みなど出来るのでしょうか……。
「いや、出来る」。
「神の恵みによってあなたにはそのような歩みが出来る」と、
聖書を通して、神は私たちに語り掛けておられます。
モーセは私たちに告げます。

あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。(申命記30:6)

神が、私たちが抱える罪を取り除いてくださるから、
私たちは心から神に従うことが出来る、というのです。
そして、ガラテヤの教会に向けて、使徒パウロはこのように語りました。

キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。 (ガラテヤ5:6)

重要なのは、キリストに結ばれることと、パウロは言います。
では、一体どのようにして、
私たちはイエス様に結ばれることが出来るのでしょうか。 
教会は、父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授け続けてきました。
この洗礼を通して、神の恵みの業によって、
私たちはイエス様に結ばれるのです。
ですから、洗礼を既に受けている皆さん、
あなたがたは、イエス様と既に結び合わされていて、
イエス様と共に歩んでいる、神の恵みの現実に生かされています。
そのため、パウロがあなたがたに語るように、
あなたがたにとって、「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」。
愛がなければ、何をしても、無に等しいのです(Ⅰコリ13:2)。
そして、まだ洗礼を受けていない皆さん、
あなたがたは常に洗礼へと招かれています。
神は、洗礼を通して、永遠の契約を私たちの心に刻み込みます。
それは、神が私たちを天の国へと招くという、愛に溢れた約束です。
そして、洗礼は、私たちが神の民であることのしるしであり、 
私たちが神に愛されている、神の子であることを
常に思い出させるためのしるしです。 
イエス様は、私たち一人ひとりをいつも招いておられます。
「わたしにつながっていなさい。
わたしもあなたがたにつながっている」と(ヨハネ15:4)。
どうかこの新しい年も、イエス様にしっかりと結ばれて、
愛の実践を伴う信仰を抱いて歩んで行くことが出来ますように。
主キリストの恵みと平和が、あなたがたと共に豊かにありますように。