しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年1月22日日曜日

説教#151:「言葉よりも、その生き様で」

「言葉よりも、その生き様で」 
聖書 マタイによる福音書8:1-4、レビ記13:45-46
2017年 1月 22日 礼拝、小岩教会 

【主イエスのもとに近寄ってきた「レプラ」患者】
きょうの物語は、イエス様が山から下りて来ることから始まっています。 
イエス様は、マタイによる福音書の5章から始まった
「山上の説教」と呼ばれる教えを語り終えて、山から下りて来ました。
イエス様の教えを聞いて、それに感動し、心を動かされたたくさんの人々が、
この時、イエス様に従ってついて来ました。
するとその時、一人の人がイエス様のもとに近づいてきました。 
イエス様のもとに近づいてきた人は、
「重い皮膚病を患っている」人であったと、マタイは報告しています。
この人が「重い皮膚病」を患っていることは、誰の目から見ても明らかでした。 
それは、「重い皮膚病」に苦しんでいる彼の皮膚の状態が、
誰の目から見ても、明らかに病気であったからというわけではありません。
というのも、この「重い皮膚病」と訳されているギリシア語の「レプラ」は、
特定の病気を指す言葉ではなく、様々な皮膚病を意味する言葉だったからです。
ですから、「レプラ」と呼ばれる病を患っている人の中には、
誰の目から見ても明らかに病気だとわかるような「重い皮膚病」の人もいれば、
言われないとわからないほどの「軽い皮膚病」の人もいました。
それなのに、なぜイエス様のもとに近づいてきたこの男は、
誰の目から見ても「レプラ」患者であると判断出来たのでしょうか。
それには、さきほど読んで頂いた「レビ記」の言葉が深く関係しています。
そこには、このように記されていました。
重い皮膚病(=レプラ。*ヘブライ語では「ツァラアト」)にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。(レビ記13:45)
イエス様のもとに来たレプラを患った人も、
ユダヤの社会に生きていた人ですから、
当然彼も、ユダヤの律法である聖書には従っています。
そうであるならば、レプラを患っている彼も、
イエス様に近づいてきたこの時、律法の命令に従って、
破けた衣服を着て、口ひげを手や布で覆って、 
周囲の人々に向かって叫びながら近寄ってきたことが想像できるでしょう。
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ13:45)と言って。 

【レプラ患者の苦しみ】
でも、そもそも、なぜ皮膚病に苦しんでいる人々が、
「汚れた者」とみなされたのでしょうか。
それは、感染の恐れがある皮膚病を患っていたからというわけでも、
皮膚の状態が、醜い状態で人々に恐怖を与えるからでもありませんでした。
理由はただ一つ、彼らが祭司から
「あなたは汚れている」と宣言されたからです。
レビ記13章によれば、皮膚病の人は皆、
祭司に肌の状態を調べてもらい、今の自分の状態が
神の前に「清い」か「汚れている」かを判断してもらう必要がありました。
ですから、皮膚病になった人が皆、レプラと呼ばれていたわけではありません。
律法に従ってなされた、祭司の判断の結果、
「あなたは汚れている」と宣言された皮膚病の患者が、
「レプラ」を患っている人として扱われました。
「汚れている」と宣言された人は、神の前に出て行って、
神と交わりを持つことができない状態であると人々からみなされます。
ですから、「レプラ」を患うことは、
神の民と呼ばれるユダヤの人々にとって大きな恐怖を伴うことでした。
この汚れが取り除かれるまで、
神殿へ行って、神を礼拝することが出来なくなってしまうのですから。
そして、「あの人は汚れた人だ」と言われる恐怖も伴いました。
また、友人や家族は、自分が「レプラ」という理由で、
接触を恐れ、遠ざかっていきます。
彼のその皮膚病が自分に感染らないなど、誰もわからないのですから。
「レプラ」を患うということは、このような苦しみが伴いました。
その上、レビ記によれば、「その人は
独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13:46)とあるため、
彼自身も家族や友人たちから離れていかなければなりませんでした。
イエス様の前に現れた彼も、同じような状況に立たされていたと思います。
「レプラ」を患ってしまったせいで、神との交わりを失い、
社会から拒絶され、孤独を味わっていました。
そんな病に苦しむ一人の人が、イエス様のもとに近づいて来たのです。
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ13:45)と言いながら。

【遠ざかっていく群衆】
このような人がイエス様のそばに近づいて来たのですから、
山を下りて、イエス様について来た
「大勢の群衆」は戸惑いを覚えたことでしょう。 
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と叫ぶ声は、 
徐々に、徐々に、自分たちのもとに近づいてきます。 
興味深いことに、この物語には、
イエス様についてきた大勢の群衆の反応が全く記されていません。
彼らは完全に沈黙しています。
その上、このレプラを患っている人が癒やされたときも、
彼らは驚くことも、戸惑うことも、また神を賛美することもありません。
この沈黙には、どのような意味があるのでしょうか。
それは、群衆の無関心から来ているのかもしれません。
また、レプラを患っているこの人が近づいてくるのを見たとき、
彼と関わりを持ったら、自分まで汚れた者となってしまう
というような恐れに支配されて、
一歩、また一歩と彼から遠ざかったのかもしれません。
それはとても可能性の高いことだと思います。
レプラという病が、ユダヤの社会でもっていた意味を考えるならば、
レプラに苦しんでいる人との出会いによって、
イエス様の側にいた大勢の群衆は、その場から、
一人また一人といなくなっていったであろうことが簡単に想像できます。 
たとえその場に何人か残っていたとしても、
自分は汚れることがないようにと、彼らは遠巻きに立って、
これから起こることを傍観していたことだと思います。

【近寄って触れる主イエス】
このとき、イエス様は近づいて来たこの人に対して、
一体何をしたでしょうか。
イエス様は、この群衆たちとは全く正反対のことを行いました。 
自分の前でひれ伏して、「主よ、 
御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(マタイ8:2)
と語るレプラを患っている人を見たときイエス様は、
一歩、また一歩と彼のそばに近づいていきました。
そして、手を伸ばして、
病によって弱った、彼のその肌に直接触れて言われました。
「よろしい、清くなれ」(マタイ8:3)と。
この当時、誰もが彼に近づくことを諦めていました。
いや、近づこうとさえ考えていなかったと思います。
その上、彼の肌に直接触れるなど、一体誰が考えたでしょうか?
驚くべきことに、イエス様はこのとき、
誰もが遠ざける、この「汚れている人」に近づいて行き、
その手で触れることによって、彼の病を癒やされたのです。
もちろん、「よろしい、清くなれ」と語るだけでも、
イエス様は彼の病を癒すことは出来たと思います。 
でも、彼に必要だったのは、
その病が癒やされることだけではありませんでした。
彼が必要としていたこととは、誰かから触れてもらうことでした。 
レプラを患って以来、誰にも触れてもらえず、
拒絶され続け、傷ついていた心が癒やされることこそ、彼に必要なことでした。
ただ病気が治るということが、彼にとっての救いではありません。
そして、この病のため、彼は汚れていると人々から見られていたため、
彼は神との交わりも、人との関わりも失っていました。
そのためイエス様は、彼の病を癒やした後、彼が神との関係を回復し、
ユダヤの社会に復帰できるようにと配慮して、こう言われました。
「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」(マタイ8:4)
レビ記によれば、病の癒やしを祭司に確認してもらい、
祭司から「あなたは清い」と宣言されることによって、
彼は正式にレプラ患者ではなくなりました。
イエス様は、律法の命令に従って、彼をレプラから完全に癒やされたのです。

【主イエスが「だれにも話さないように」と言った理由】
ところでこの時、イエス様は
なぜこのことを「だれにも話さないように」と言われたのでしょうか。 
それは、言葉だけでは意味をなさないからだと思います。
イエス様に癒やされたことを誰かに証言するよりも、
この彼が癒された者らしく生きるとき、
それがまさにイエス様を通して、神に癒やされ、救われた証しとなります。
レプラになって以来失われていた、神との交わりや、
家族や友人たちとの関係が回復するのは、彼にとって大きな喜びでした。
ですから、心に溢れる感謝の思いを、
神に対して賛美せずにはいられなかったと思います。
この喜びと感謝に促されて、彼はこれからの人生を生きたと思います。
まさに、主イエスによって癒やされた彼の生き様によって、
神の救いの業が、人々の間で証言されたのです。

【神は「聖なる者となりなさい」と言われる】
では、山からイエス様と一緒に下りてきた
大勢の群衆たちは、どうだったでしょうか。
確かに、彼らはイエス様の教えを聞いて、
それに感動し、心動かされたから、イエス様に従いました。
でも、彼らはこのレプラを患った人と出会ったとき、
イエス様の言葉を忘れてしまっていました。
山の上で、イエス様からこう教えられたではありませんか。
「憐れみ深い人々は、幸いである」(マタイ5:7)と。
でも、憐れみを必要としているこの人と出会ったとき、
彼らは憐れみに生きることが出来ませんでした。
彼と関わることによって、自分が汚れてしまうことを恐れて、
自分たちのそばに近づいてくるこの人から、一歩一歩遠ざかっていき、
ある人は傍観者となり、またある人はその場から逃げ去ってしまいました。
確かに、律法を守ることは重要なことです。
でも、律法を守りながら、彼に憐れみを与える可能性はないかと、
探ることは出来たのではないでしょうか。
また、イエス様は「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)
と言われたではありませんか。
愛することが難しい人をこそ、あなたは愛しなさい、と。
でも、汚れにばかり注目し、自分が汚れることを恐れたため、
彼らは目の前の人を愛することが出来ませんでした。
「レビ記」を通して読んでみるとよくわかるのですが、
神が私たちに求めるのは「汚れるな」ではなく、「聖なる者であれ」です。
そもそも私たち人間誰もが、罪という汚れを抱えています。
人を憎んでしまったり、自分との違いを感じたら排除してしまったり、
自分勝手に生きたりと、神が忌み嫌うことばかり行ってしまいます。
いや、自分でも気づかぬうちに、神に背くことの方が遥かに多いと思います。
そのため、神の前に「聖なる者」となることなど、
本来、私たちには出来るはずないのです。
しかし、それにもかかわらず、
私たちはイエス様によって、「聖なる者」とされています。
イエス様が私たちの罪を赦してくださったからです。
聖なる者とされていることは、完全に神の憐れみによるものであり、
私たちが「聖なる者」とされているということは、
神からの一方的な恵みの贈り物なのです。 
だから、神はこう言われます。
「あなたたちは聖なる者となりなさい。
あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)と。
神が「あなたたちは聖なる者である」と
宣言してくださったことを喜びとして受け止めて、
それに相応しく生きることが、私たちに求められていることです。
それが、神と私たちとの交わりが正しくなされるために、
神が私たちに要求していることです。
あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。(レビ記19:2)
【聖なる者は、言葉よりもその生き様で証しする】
生きた時代こそは違っても、私たちはきっと、
イエス様について来たこの群衆と本質的には同じです。
どれだけ神が語りかけてくださる言葉を聞いても、
様々な言い訳をつけて、自分の生きたいように生きてしまっています。
もちろん、言葉よりも、その生き様にこそ、
私たちの信仰が現れることは、よくわかっています。
でも、それなのに語る言葉や外見をキレイに装って、
自分自身や周囲の人々を誤魔化そうとしてしまいます。 
いや、神さえも私たちは欺こうとしているのかもしれません。
そんなこと、不可能であるにも関わらずに、です。
でも、どれだけ隠そうとしても、その心にあることは、
神の前に明らかであるばかりか、
私たちの行動や生き方、ライフスタイルに気付かぬうちに現れます。 
だからこそ、切実に願いたいのです。
「言葉において信仰的であろうとするのではなく、 
何よりも、生き様において、キリストを信じる者らしくありたい」と。
感謝すべきことに、イエス様が、神に従う道を私たちに示してくださいました。
主キリストにあって、罪を赦された私たちは、
神の恵みによって聖なる者とされています。
そして、「あなたは聖なる者である」と宣言されています。
本来、罪を抱え、汚れている者であるにも関わらず、
「あなた方は、キリストを信じる者らしく、生きること出来る」
と、神は私たち一人一人に言われます。
あなた方は聖なる者とされたのだから、
「あなたたちは聖なる者となりなさい。
あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(レビ記19:2)と。
ですから、神によって聖なる者とされた小岩教会の皆さん、
言葉よりも、その生き様によって、
神への信仰を告白して生きていきましょう。
私たちは自分自身のために、神の聖さを求めて生きるべきではありません。
私たちを愛してくださった神を、心から愛するために、
そして私たちと共に生きる人々と、
私たちが豊かな関係を築いていくために、
私たちは神によって「聖なる者」とされたのですから。
どうか、神があなた方を日々、聖なる者として相応しく整え、
ますますキリストに似た者としてくださいますように。