しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年8月13日日曜日

説教#179:「言葉が結ぶ実」

「言葉が結ぶ実」
聖書 マタイによる福音書 12:33-37、イザヤ書 55:6-11
2017年 8月 13日 礼拝、小岩教会

【言葉を語ることは、生き方の問題】
人間にとって、言葉はとても大切なものです。
私たちは日頃、言葉で挨拶を交わし合うことで、お互いに繋がりを持ちます。
言葉を用いて、自分の気持ちや意思を伝え、
質問を投げかけて目の前の人のことを、もっとよく知ろうと努めます。
もちろん、口から語られるものだけが言葉ではありません。
話すときの身振り手振りだって、全身を使って発している言葉です。
目の前の人の表情や声の調子によって、言葉が伝わる場合だってあります。
その意味で、この口で語るものだけが言葉なのではなく、
私たちの全存在、全生涯が言葉となり、人に伝わっていくのです。
そうです、まさに、言葉を語るということは「生き方の問題」なのです。
そう考えると、私たちは言葉に対してますます難しさを感じます。
自分が日頃語る言葉や日々の行い、これまでの人生を振り返るならば、
誰の目から見ても誤りや失敗などは、全くないなどということはあり得ません。
共に生きる人たちとの間に、言葉によって、良い繋がりを築くどころか、
かえって争いを生み出してしまいます。
愛や憐れみに満ちた言葉よりも、怒りや嫉妬に満ちた言葉を吐き出して、
簡単に目の前の人を傷つけてしまいます。
たとえ、誰も傷つけないように口を閉じて黙ったとしても、
表情や行動によって誤解を生み出してしまうことだってあります。
その上、口で語ることと実際の行動とが
完全に一致していないことさえあるのが、私たち人間というものです。
ですから、いつも心から沸き起こる言葉をどのように用いるのかは、
私たちにとって大きな課題なのです。

【どのような実を結んでいるのか?】
私たちが用いる言葉について、イエス様は比喩を用いて語りました。 

木が良ければその実も良いとし、
木が悪ければその実も悪いとしなさい。
木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。(マタイ12:33) 

イエス様は、人が語る言葉によって、 
その人の心や存在の良し悪しを判断することが出来ると語っています。
というのも「人の口からは、
心にあふれていることが出て来る」からです(マタイ12:34) 。
確かに、見た目以上に、人の語る言葉や行動には、
その人の人柄が滲み出ているように感じます。
しかしイエス様は、私たちが他人の人柄を判断して、
良い実を結ぶような人たちだけと付き合うことが出来るようにするため、
このような言葉を語ったのではありません。
「友だちは選べ」などと言うことは、
後ろ指をさされながらも罪人と一緒に食事をしたイエス様とは、
正反対の生き方だと思います。
イエス様はこのとき、この言葉を聞いた人たちが
自分自身の歩みを振り返り、
自分が普段、どのような実を結んでいるのかを見つめさせるために、
このように語ったのだと思います。
「自分は良い実を結んでいるのだろうか。
それとも、悪い実を結んでしまっているのだろうか」と。

【私たちの心には、良い木も悪い木も生えている】
では、このときイエス様に直接この言葉を語られたのは、
誰だったのでしょうか。
イエス様は「蝮の子たちよ」と呼びかけているため、
イエス様の目の前にいるのは、ファリサイ派の人たちだとわかります。
ファリサイ派の人たちは、イエス様が悪霊を追い払っているのを見て、 
「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力を用いている」
と疑いをかけました(マタイ12:24参照)。
イエス様は、神の霊の力によって悪霊を追い払っていたため、 
彼らの言葉は、明らかに、神の霊である聖霊を冒涜するような言葉でした。
そのため、イエス様は、ファリサイ派の人々のこのような悪い言葉が、 
悪い思いから出ていると批判したのです。
しかし、だからといって、 
「ファリサイ派の人々は悪で、イエス様に従う人々は善」というように、
白黒はっきりさせることは出来ませんし、するべきでもありません。
というのも、私たち人間は、
良い言葉も、悪い言葉も、同じように語っているからです。
「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、
また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(ヤコブ3:9)
と、使徒ヤコブが語っているように、
良い言葉も、悪い言葉も語るのが、私たち人間の現実なのです。
その意味で、私たちの心には、
良い木か悪い木のどちらかが生えているのではなく、
良い木も悪い木も生い茂っていると考えた方が良いでしょう。
そう考えると、イエス様の言葉を真剣に受け止めるほど、 
私たちの心に恐れが満たされていくことになります。 
イエス様は「裁きの日には責任を問われる」(マタイ12:36)
と語っているのですから。
イエス様は、裁きの日についてこのように言います。

あなたは、自分の言葉によって義とされ、 
また、自分の言葉によって罪ある者とされる。(マタイ12:37)

私たちの心には、悪い木ばかりが生えているわけではありません。 
でも、だからといって、完全に良い木だけでもないのもまた事実です。
ですから私たちは、イエス様の言葉を聞くとき、不安を覚えるのです。
「もしも、悪い実を生み出してしまう悪い木が、1本でもあるならば、 
私たちは神の裁きの対象となり、罪ある者と定められてしまう」と。
そうであるならば、私たちの言葉や行いは多くの場合、 
自分自身を「罪ある者」に定める結果をもたらすものとなってしまいます。 
一体、この現実をどのように受け止めれば良いのでしょうか。 
私たち自身の力では、この現実を抜け出すことは出来ません。
ただ私たちに出来ることと言えば、
この現実に悲しみ、落胆することのみです。

【しかし、罪を赦され、聖霊が与えられた】
しかし、感謝すべきことに、
イエス様によって私たちに救いが与えられています。
すべての人の罪を背負って、
イエス様が十字架の上で死を経験したことによって、
私たちの抱える「悪い木」の問題が解決されました。
そのため、何度切り倒しても、生えてくる悪い木によって、
「罪ある者」と定められているにも関わらず、
私たちには罪の赦しが与えられているのです。
生涯において私たちは悪い木を抱え、
その木が結ぶ悪い実に悩み、苦しみ、
自分では解決できずに失望するしか道がないにも関わらず、
神は私たちを「罪赦された者」と宣言してくださるのです。
そのため、裁きの日において、私たちの抱えるこの悪い木はすべて、
根こそぎ取り除かれ、私たちは神の前で「義」とされるのです。
ですから、イエス様によって実現したこの救いの事実を、
私たちは「良い知らせ」と呼び、いつも喜んで生きることが出来るのです。
しかし、私たちが持つ「悪い木」である、罪の問題が、
完全に解決へと導かれるのは、将来の裁きの日のことです。
なので、罪を赦されていたとしても、私たちは相変わらず、
悪い言葉を語り、人を傷つけ、悩ませてしまうのです。
ということは、今のこの現実を見ないふりして、
私たちは将来に望みを置いておきさえすれば良いということなのでしょうか。
もちろん、そのようなことはありません。
確かに、相変わらず、心から沸き起こり、
自分の口や行いを通して外に出てくる悪い言葉に悩まされます。
私たちは神に罪を赦され、神に受け入れられているにも関わらず、
平和を作り出せないし、愛することも満足に出来ません。
しかし、そんな私たちに、神は聖霊を与えてくださいました。
聖霊は、私たちの心に神の言葉を刻むお方です。
心にあることが、口から出てくるのが、私たち人間です。
そうであるならば、私たちは聖霊によって、 
神の言葉が刻まれることによって、
良い言葉を語り、神の前に喜ばれる行いをすることが出来るのです。
本来ならば、私たちに、そのようなことは出来ません。
神に反抗し、人を愛せず、自分のことばかり愛してしまうのが、
私たちの罪深い現実なのですから。
しかし、それにも関わらず、
聖霊を与えられている私たちには出来るのです。
良い言葉を語り、神の前に喜ばれる行いをすることが出来るのです。
それこそが、聖霊が私たちに伴なってくださることによって起こる、
神の奇跡なのです。
愛する皆さん、あなた方一人ひとりには、
神の聖なる霊が注がれています。
もしも、聖霊によってあなた方の心に神の言葉が刻まれるならば、 
あなた方は良い実を結ぶことになるでしょう。 
ですから、聖霊によって、私たちの心に
神の言葉が深く刻まれることをいつも願い続けましょう。

【神が私たちに与える使命】
聖霊によって私たちの心に刻み込まれる、
神の言葉について、預言者イザヤはこのように語っています。

……わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:11)

イザヤによれば、聖霊が私たちの心に刻む言葉は、
私たちに単なる「良い言葉」を与えるものではありません。
神が私たちに語りかけることによって、
神は、私たちに使命を与えてくださるのです。
どのように生き、どのように言葉を用いて、
どこに向かって歩めば良いのかということを、
神はいつも私たちに語りかけてくださっているのです。
神が私たちに与えてくださっている使命とは、
何よりも、「心を尽くして、神を愛すること」です。
ご自分の一人子であるイエス様の命をかけてまで、
私たち一人ひとりを愛し、どこまでも諦めない神の愛に応えて、
私たちも心から神を愛するように招かれています。
それが実現するために、聖霊は、
私たちと神を霊によって繋いでくださるのです。
また、「神に愛されているように、
共に生きる人々と互いに愛し合う」ようにと、
神はいつも私たちを招いておられます。
神の言葉によって、愛を受け取り、
平和を愛する心を与えられることを通して、
私たちは互いに愛する者へと変えられていきます。
自分勝手で、他人のことをかえりみないことの多い私たちであるにも関わらず、
神が、聖霊によって私たちの心に神の言葉を刻み込んでくださるから、
私たちにはそれが出来るのです。
そうです、もしも、私たちが神の言葉を心に刻まれ、
聖霊に導かれて生きるならば、そこには良い実が結ばれていくのです。
ですから、私たちは自分が生み出してしまう悪い実を見つめるときに、
決して失望してしまうことはありません。
主なる神が約束し、聖霊を通して御言葉を与えてくださっているから、
やがて神によって良い実が結ばれていくことに
いつも希望をもって歩んで行くことが出来るのです。

……わたしの口から出るわたしの言葉も
むなしくは、わたしのもとに戻らない。
それはわたしの望むことを成し遂げ
わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55:11)