しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年3月31日木曜日

新生活に向けて#1:「引っ越し準備中」

明日から引越しを始めたいと思っています。
4/4(月)に入寮予定。
ついに22年10ヶ月過ごした我が家を出る日が訪れました。
何だか感慨深いです。


祈祷課題
・新生活のために。正しい生活リズムを作ることができるように。食生活が守られるように。(出来る限り自炊して生活したいと思っています)
・神学校での学びのために。
・奉仕教会での交わりのために。
・必要が満たされるように。


*英語の勉強を始めてから今日で10日目です。(1日だけ出来なかったけど…)

2011年3月30日水曜日

小山教会祈祷会

今日は月1回の小山教会の祈祷会の日。
去年の3月から毎月最終水曜日にやっています。
1年間途絶えることなく続けられたのはとても嬉しいです。

昨年末教会員夫婦が作った「お菓子版小山教会」
教会って、御言葉と祈りによって建て上げられていくものだと思ってます。この教会祈祷会がこれからも続けられていくことを心から願い、祈っていきたいです。

さて、そういうわけで、今日は僕が出席できる最後の小山教会祈祷会です。
行ってきます!

*驚いたことに、10日間連続で更新しています。
徐々に更新頻度は下がっていく予定です(笑)。

2011年3月29日火曜日

書籍紹介#1:『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(遠藤嘉信著)

僕がこれまで読んできた本を、たまに紹介していきたいと思います。
今回は、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』を紹介します。
『初めに、神が』(Amazonより)
この本を手に取ったのは、確か大学1年生の頃。
創世記1~3章の講解説教が掲載されている本書。
これまで「知っている」「わかっている」と思い込んでいた天地創造の場面が、
いかに神の愛に満ちているものであったのかに気付かされ、
圧倒させられた記憶があります。

また、僕は本書を薦める際、「あとがき」が素晴らしいから是非読んでくれと伝えています。
ひとりの信仰者が死を目前にしたとき、どのような言葉を紡いでいくのか。
自分は信仰者として、どのような言葉を紡いで、死を迎えるのだろうか。
そんな問いを与えられる内容です。
死を迎えるとき、主への感謝と周りの人々への愛ある配慮、そして主の計画を信じ、受け入れること。信仰者として臨むべき態度を、このあとがきを通して、僕は教えられました。
だからこそ、この一冊を薦めたい。

2011年3月28日月曜日

最近思うこと#1:「ことば」

僕らにとって、言葉というものはとても大きな意味を持つと思います。

親の言葉を聞き、しつけをされました。
学校の授業を聞き、教育を受けました。
神のことばを聴き、それを受け入れ信仰を持ちました。
言葉は僕らの信念、思想、生活など、
様々なものに影響を与えるものだと思います。

では、僕らが生涯生きていく上で一番聞く言葉は、一体、誰の言葉だろうか?
恐らく自分自身の言葉を人は一番聞いているはず...

親でもなく、
兄弟でもなく、
恋人でもなく、
配偶者でもなく、
神様の言葉でもない!

僕らは自分の言葉を一生のうちに一番聞いているはずです。
これってとても恐ろしいことだと思います。

イエス様は、マタイによる福音書15:11で「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」と言っています。
自分の内にあるものが言葉となり、それが人に影響を与えます。
自分の言葉を自分が一番聞いているのであれば、
その言葉に影響を受け、自分が育っていくのではないでしょうか?

罪人の僕の言葉が、僕自身を育てているのです。

ここで、僕らは何を基盤にして生きるべきかが問われるのだと思います。
僕らクリスチャンは何を基盤とするべきか?
聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:4-9) 
御言葉を心に刻むこと、蓄えることが僕らに求められています。
ただ読むだけではいけないようです。
聖書は、どんなときもそれを唱えなさいと言っています。
そして、ローマの信徒への手紙10:17を読む時に、
御言葉を聞くことが信仰の始まりだということに僕らは気付かされます。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマの信徒への手紙10:17)
世に遣わされている僕らが、御言葉を蓄え、それに生かされている時、
より喜びをもって福音を伝えられる者へと変えられていくのではないでしょうか?

自分を、そして人を生かす言葉を発する者になりたいと願います。
そう願う僕は、ますます主のことばを蓄え、心に刻みつけたい。

聖書は神様からのラブレター(出典:flickr


*以前、KGKでした証の一部を掲載しました。

2011年3月27日日曜日

激励会と詩編100篇

今日は礼拝後、教会で激励会をしてもらいました。
小山教会といえば、BBQです笑
とっても美味しいお肉でした。

小山教会名物シュハスコ(ブラジル式BBQ)
そして、BBQ後は教会員のみんなが1曲贈ってくれました。
タイトルは「基嗣、ファイト」だとか、そうじゃないとか...笑
(結局のところ、タイトルは不明ですw)
詩編100篇だと思ったら、後半に自分の名前が出てきてとてもビックリさせられました。
こんな曲まで用意してくれるなんて、本当に嬉しかったです。

今日の礼拝説教はローマ12:3-8より、
「喜びをもって主に仕えよ」という説教題だったのですが、
礼拝説教だけでなく、今日一日の教会での交わりを通して、
「喜びをもって主に仕えてくれ!」という思いをもって、
教会員の方々が僕を送り出そうとしてくれるのがわかって、
本当に感謝なときでした。

    全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
    喜び祝い、主に仕え
    喜び歌って御前に進み出よ。
    知れ、主こそ神であると。
    主はわたしたちを造られた。
    わたしたちは主のもの、その民
    主に養われる羊の群れ。
    感謝の歌をうたって主の門に進み
    賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
    感謝をささげ、御名をたたえよ。
    主は恵み深く、慈しみはとこしえに
    主の真実は代々に及ぶ。(詩編100:1-5)

最後に、贈られた曲の歌詞と祈祷課題を掲載します。

    喜び祝い 主に仕えよう
    喜び歌って 御前に行こう
    感謝を歌って 主の門に進み
    賛美を歌って 御国に入ろう

    神様ありがとう
    基嗣に恵みを
    神様ありがとう
    基嗣、ファイト

◇祈祷課題
・今週引越しをします。4/1~4に荷物を運び、翌週から寮生活を始める予定。引越しとその準備のためにお祈り下さい。
・新生活のために。毎日ちゃんと食べていけるように。
・日々の学びのために。神学と英語の勉強。


*お腹も心も満たされています^^

2011年3月26日土曜日

あと2回

明日は3月最終日曜。
早いもので、小山教会での礼拝も残すところあと2回。

喜びを持って神学校へと送り出してくれる
小山教会のメンバーに、僕は心から感謝してます。

さぁ、明日のCS準備に取り掛かろう。


*facebookでおなじみのリアクションボタンを設置しました。「Like」(いいね)と「Praise the Lord!」(主をほめたたえます!)です。「Pray (for you)」(祈ります)を加えるかは現在検討中です。

2011年3月25日金曜日

「基嗣」という名前

このブログのタイトル、「天の故郷にあこがれて」はヘブライの信徒への手紙11:16から付けたものです。
ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:16、新共同訳)
しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル人への手紙11:16、新改訳第三版)
新共同訳聖書だと「天の故郷を熱望して」となっているのですが、新改訳聖書第三版だと「天の故郷にあこがれて」と書かれているんです。個人的に後者の方が、言葉の響き的に好きなので、「天の故郷にあこがれて」をタイトルとして採用しています。

では、なぜこのタイトルを選んだのか?
というのは、自分の「基嗣(もとつぐ)」という名前と関係があるからです。

この光の感じが好き (出典:flickr
小学校低学年の頃、母に僕の名前の意味を尋ねたところ、「『キリストの御国を嗣ぐ』って意味なんだよ」と説明されていましたが、当時の僕にその意味はサッパリでした。寧ろ、「神様の国を自分のモノとするなんて、何ておこがましい名前だ!」なんて思っていました。

この「基嗣」という名前の意味をようやく理解できたのは、それから10年以上経った頃でした。
大学に入学して、僕は信仰書を読もうと思い、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』を買って読みました。その本は、創世記1-3章の講解説教が収録されているものでした。その内容に感銘を受け、それから僕は1年掛けて遠藤先生の本を買い漁りました(笑)。

その時買った中の一冊、『さあ、天を見上げなさい―神の恩寵とアブラハムの信仰』にヘブライ11:13-16が書かれていたのです。
この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:13-16)
この箇所を読んだ時、僕は「基嗣」という自分の名前の意味に気付くことが出来たのです。
キリストを信じるものは、その罪を赦され義とされるばかりではなく、
神の子どもとされていて、キリストの御国の相続人とされています。
それを受け取る事を熱望する。
天の故郷にあこがれて生きる。
そのような生き方が求められている名前なのだと気付かされたのです。
だから、僕は「基嗣」という名前を誇りに思っています。
これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。(テトスへの手紙3:7、口語訳)
そして、この地上において、天の故郷にあこがれ歩む旅人である、
と生涯告白して生きていきたいと思ってます。

そういうわけで、このブログのタイトルは「天の故郷にあこがれて」


*遠藤先生の説教集に関しては、後日、書籍紹介という形でブログに掲載したいと思います。

2011年3月24日木曜日

いんぐりっしゅ

去年1年間やりたかったのに、思うように出来なかったこと。
それは英語の勉強。
もちろん自分の怠惰ゆえにです。

そして、ここ最近、「やらねば!」とますます思わされていること。
それは、やはり英語の勉強。

神学の勉強をする上でも必須な英語。
逃げ続けてきた英語の勉強をそろそろ本気でやらなければいけないようだ。

英語の勉強を"start"(出典:flickr
そういうわけで、一昨日から英語の勉強を始めています。
今日で3日目突入。
塾で中学英語はずっと教えていたのですが、
勉強していて、高校英語をこんなにも忘れていたのか、と愕然としています。

継続は力なり。
まずは1週間続けることを目標に頑張ります。

お祈り下さい。(切実)

2011年3月23日水曜日

モレノ#1:「手放すということ ~天に宝を積む~」

以前、教会月報『モレノ』(Monthly Report of the church of the Nazarene in Oyama)に掲載した原稿をアップします。

                               

手放すということ ~天に宝を積む』(教会月報『モレノ』2010年4月号掲載)

2010年1月15日(金)、僕が中学2年生の夏からやっているクリスチャンバンドShine(シャイン)の新年会をしました。2009年の夏頃から活動休止状態にあったので、今後のあり方をハッキリさせるために、メンバーを集め、話し合う時間を持ちました。

大学卒業が1年後に控えるこの時期、それぞれが進路選択のために歩み出して行きます。
メンバー全員の話を聞いているとき、ヨハネの福音書に記されているキリストの言葉を思わされました。
はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネによる福音書21:18)
自分の行きたいところへそれぞれが進める、というのがこれまでの一人ひとりの歩みでした。
しかし、少しずつ、少しずつ、それぞれの場所へと向かっていて、その歩みはもう既に始まっていました。
それはやはり、主の御手に引かれているのだと僕は思います。
その中で僕らは、徐々に自分の歩きたい所を歩けなくなっていくのだな、と思わされます。
それぞれが、それぞれのステージへと向かっていると感じました。

僕らは何かを選ぶとき、何かに向かって歩み出すときに、
何かを手放すこと、諦めることを選択する必要があるのだと思わされます。
新年会で話したことの結論を言うと、(表向きは)バンドは「活動停止」をすることになりました。
そう、僕らにとって一度手放さなければいけないものは、このバンド活動でした。
しかし、主のみこころならばまた集まり、共に活動をしたいという思いから、
「解散」ではなく、「活動停止」という選択を僕らはしました。

2002年7月28日に結成。
7年半ずっと共にあったバンドの終わりの時でした。

終わりを迎えることに悲しみを覚えたりもしますが、主にあって失ったのだと心から思っています。
「音楽に生きる」ってことをしていた昔の自分では、手放せなかったと思います。
いつの頃からか忘れてしまったけれど、
僕の中でバンド活動に対する執着はなくなっていて、
僕は「音楽に生きる」ということをしなくなっていました。
自分自身の変化を、最近思い知らされ、驚くばかりです。
この7年半を振り返るとき、まず挙げられる変化の内のひとつだと思います。

中高時代の自分の信仰の支え、
神の言への確かな信頼・確信、
ずっと交わりが続いていくだろう信仰の友たち、
バンドを通してのたくさんの人との出会い、
会衆賛美のあり方、
自分自身の賛美への姿勢、など…

2010年の自分自身の年間聖句(Ⅱコリント4:16-18)ではないけども、
失うものにとらわれるのではなく、そこにとらわれていたら見えない部分に目を向けるとき、
神様がこの7年半を通して与えてくださった恵みの多さに気付くことが出来ます。
神様を感謝できていることに、心から喜びを感じます。

だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(Ⅱコリント4:16-18)

こうして、バンド活動の「終わり」を迎えて思うのは、この世だけで終わるものではない、という事実です。
キリストにあって、天に宝を積み、
キリストにあって、天の故郷での交わりへとこれは繋がっていくのだと思います。

終末を生きる僕らキリスト者の歩みの中で、
「終わりのとき」を見つめることはとても大切なことだと思います。
今回の活動停止のことを通して、
信仰によって僕らは終わりまでの行いを、
恵みとして色んな形で気付かされ、
受け取ることが出来るのだなと思いました。
主にあって手放すとき、諦めるとき、
自分で手に入れたのではなく、神にあって与えられた、という事実にも気付かされます。

こうやって、バンドの2728日間という歴史を振り返っていく中で、
喜びと感謝に溢れると共に、今後も音楽を通して主を証したいと願っています。
どのような活動が僕に許されるのか。
主がその場所を備えてくださるように、
そして、主に導かれたその先で、喜びをもって賛美出来るように祈り求めていきたいと思います。


*バンド音源は下記URLで試聴可能です。
http://www.myspace.com/shine02728

*活動期間2728日とURLの最後の数字が同じということがビックリです。
(2002年7月28日結成のため、02728)

2011年3月22日火曜日

東日本大震災祈祷会

昨日は神学校の試験が思いの外早く終わったので、関東地区KGK(キリスト者学生会)で東日本大震災の被災者の方々を覚えて祈る集会があることを思い出したので、他の学生たちと共に祈るために祈祷会へ出席してきました。(気付けば、これが学生時代最後のKGKの集会でした)

30分ほど遅刻しての出席だったが、本当に出席してよかった。
祈祷会には、東北地区の学生が来てくれて、被災地の現状を報告してくれました。

――愛の反対は無関心。
大学へ入学した頃、ある先輩がよく言っていたのを思い出します。

いかに、被災地での生活の困難さを思い巡らして、
その為に祈る力が自分に乏しいのかがよくわかります。
自分の鈍感さがよくわかります。
しかし、それでも隣人の痛みに気付き、
必要な手を差し伸べることが出来る者へと変えられていきたいです。
わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(ローマ15:1,2)
そして、僕らには今後来るであろうと予想されている地震のことを知り、
被害が最小限で済むために行動し、祈り求めていくことが求められていると思います。
参考までに、下記のサイトを紹介します。
「地震」や「救援」などのカテゴリーをご覧ください。

「小海キリスト教会牧師所感」
http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/

最後に、昨日挙げられていた祈祷課題をいくつか載せます。

・食料、水、電気、ガソリンなどの必要が満たされるように。
・寒さの為、体調を崩している方々のために
・福島第一原発の被害が大きくならずに、一日も早くおさまるように。
・東北地区春期学校(中止になりました)を準備してくれた準備委員の心の慰めのために。

2011年3月21日月曜日

4月から神学生です

今日、日本ナザレン神学校の入学試験を受けてきました。
結果は、無事に合格。
祈り支えてくださったみなさん、本当に感謝します。

今回、教会や支えてくださる方々への報告を目的として、新たにブログを立ち上げました。
少ない更新回数になってしまうかもしれませんが、
日々の出来事や学び、祈祷課題などをここで分かち合っていこうと思っています。

今日は献身の証(神学校に提出したものを訂正・加筆)を掲載します。
祈り支えてくださる方々に是非読んで欲しいと思っています。

                           

召命の証

直接献身を考え始めるきっかけとなった出来事がふたつあります。ひとつは、2007年の春、日本大学に入学したての頃でした。入学した頃から、音大に入ることを断念して経済学部に進学したこともあって、将来の進路について考えていました。そんな時、当時KGK(キリスト者学生会)の主事をしていた方に「学生時代に進路を考えるときに直接献身の召しについても祈っておくといいよ」と言われ、私はたまに献身のためにも祈るようになりました。

もうひとつのきっかけは、聖書通読を始めたことです。大学に入学するまで、私は聖書を読むことはとても苦手でした。両親がクリスチャンの家庭に生まれ、幼い頃から教会へ通っていた私にとって、これまで聖書を読むことは義務でしかありませんでした。しかしある日曜日の午後、私は急にマタイの福音書が読みたくなり、一気に読んでみたところ、聖書がとても面白いことに気付いたのです。自ら手を取り読み進めていくうちに、これまで教会で聞いてきたひとつひとつの話がひとつの話に繋がっていきました。まるで点がつながって線になっていくような感覚でした。
それから聖書通読を始め、理解が深まるにつれ、「聖書を学びに神学校へ行くのもいいな」と思うようになりました。しかし、当時は「牧師にはなりたくないから」という理由で諦めていたことを思い出します。

召しの御言葉が与えられたのは、それからすぐのことでした。2008年の夏に召しの御言葉としてヨハネ21:15-19が与えらました。それから私は自分自身の召しについて真剣に祈り求め、この召しを吟味するようになりました。
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。(ヨハネの福音書21:17-18、新改訳聖書第三版)
この御言葉が与えられてから、直後のKGKの夏期学校で、私は進路の分科会に出ることにしました。その分科会で、「あなたが痛みを覚える場所に、神様は同じように痛みを覚えていて、そこにあなたを遣わされる」という言葉が語られたとき、「献身して神学校へ行きたい」という思いが起こされました。

私が痛みを覚える場所、それは教会でした。2008年の春期学校(KGK)で聞いたメッセージの中で、その痛みには気付かされていました。春期学校ではネヘミヤ記から講解説教がなされていて、その中で「あなたの再建する場所はどこか?」という問いを投げかけられました。そのとき、私は自分の内にある教会への痛みに気付かされました。それまで、所属教会で御言葉から説教が語られていないという事に対して何処か引っかかる部分がありましたが、それが自分にとって深い痛みとしてあるのだと気付かされました。(教会の問題について詳細にここに記すのは控えます。)

これらの事があった後も、私はすぐに直接献身を決断することはしませんでした。残り2年半という大学生活の中で、直接献身について吟味する時間が多く与えられていることに、きっと意味があるのだろうと思ったからです。
その吟味期間において、ひとつの試練が与えられました。それは、「教会の転会」という出来事でした。直接献身の召しについて悩んでいる中にいる私が直面したのは、やはり教会の問題でした。

ある日、家に帰ると母が「明日は違う教会に行く」と言うのです。それは、私が生まれてから20年間ずっと所属していた教会を離れる、ということを意味していました。母の言葉は、両親のひとつの決断でもありました。そして、その理由は明確でした。当時所属していた教会に様々な問題を見出し、特に両親はその中で葛藤をしていました。両親の苦しむ姿や御言葉から説教が語られていない現実に私も心を痛めていました。私は、大学卒業後は家を出るつもりだったので、家族と共に礼拝に出席出来る残り少ない期間を大切にしたいと思い、両親と共に教会を転会する決断をしました。
この出来事の背後に、両親の祈りとこのことを分かち合った友人たちの祈りとがあったことを心から感謝します。

それから、出席教会を小山教会へと変え、3ヶ月後の2008年12月に私は家族と共に小山教会に籍を移しました。小山教会での交わりの中で、私は教会を愛する者へと変えられていきました。自分の目に映る教会のあり方を変える前に、自分の内にある「教会に対する姿勢」がまず問われ、再建されていく必要があったのだと思います。

それから、私が献身の決意を固め、そしてそれをしようと思っていることを小山教会の総会で公にされたときに、喜んで送り出そうとしてくださっている教会員ひとりひとりの姿を見て、「あぁ、自分はこの教会から献身していいのだな」と思わされました。そして、召しを自分のものとして受け取るだけでなく、教会のものとしても受け取ることが出来ました。

しかし、この決意を固めたときに恐れが私の内に起こりました。2010年は教会役員として奉仕する機会を与えられたこともあり、その責任の重さやこの先の自分自身の歩みについて考えるとき、本当にこのままの自分で大丈夫なのかという不安でした。
このように恐れを覚えていた私でしたが、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。」(マタイ8:26)という御言葉が与えられました。この御言葉を通して、様々な恐れが私の内に起きたり、時に忍耐を強いられたり、不安を覚えたりしますが、「すべてのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28) ただ神に信頼して歩めばいいのだという事に気付かされました。

そして、「わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:19) と言われる主イエスからの召しに、私は喜びをもって応答したいと願っています。