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新生活に向けて#1:「引っ越し準備中」

明日から引越しを始めたいと思っています。 4/4(月)に入寮予定。 ついに22年10ヶ月過ごした我が家を出る日が訪れました。 何だか感慨深いです。 祈祷課題 ・新生活のために。正しい生活リズムを作ることができるように。食生活が守られるように。(出来る限り自炊して生活したいと思っています) ・神学校での学びのために。 ・奉仕教会での交わりのために。 ・必要が満たされるように。 *英語の勉強を始めてから今日で10日目です。(1日だけ出来なかったけど…)

小山教会祈祷会

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今日は月1回の小山教会の祈祷会の日。 去年の3月から毎月最終水曜日にやっています。 1年間途絶えることなく続けられたのはとても嬉しいです。 昨年末教会員夫婦が作った「お菓子版小山教会」 教会って、御言葉と祈りによって建て上げられていくものだと思ってます。この教会祈祷会がこれからも続けられていくことを心から願い、祈っていきたいです。 さて、そういうわけで、今日は僕が出席できる最後の小山教会祈祷会です。 行ってきます! *驚いたことに、10日間連続で更新しています。 徐々に更新頻度は下がっていく予定です(笑)。

書籍紹介#1:『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(遠藤嘉信著)

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僕がこれまで読んできた本を、たまに紹介していきたいと思います。 今回は、故遠藤嘉信先生の『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』(いのちのことば社、2007年)をご紹介します。 この本を手に取ったのは、確か大学1年生の頃。 創世記1~3章の講解説教が掲載されている本書。 これまで「知っている」「わかっている」と思い込んでいた天地創造の場面が、 いかに神の愛に満ちているものであったのかに気付かされ、 圧倒させられた記憶があります。 また、僕は本書をすすめる際、 「あとがき」が素晴らしいから是非読んでくれと伝えています。 ひとりの信仰者が死を目前にしたとき、どのような言葉を紡いでいくのか。 自分は信仰者として、どのような言葉を紡いで、死を迎えるのだろうか。 そんな問いを与えられる内容です。 死を迎えるとき、主への感謝と周りの人々への愛ある配慮、 そして神さまの計画を信じ、受け入れること。 信仰者として臨むべき態度。 これらのことをこの書籍のあとがきを通して、僕は教えられました。 だからこそ、この一冊を薦めたい!

最近思うこと#1:「ことば」

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僕らにとって、言葉というものはとても大きな意味を持つと思います。 親の言葉を聞き、しつけをされました。 学校の授業を聞き、教育を受けました。 神のことばを聴き、それを受け入れ信仰を持ちました。 言葉は僕らの信念、思想、生活など、 様々なものに影響を与えるものだと思います。 では、僕らが生涯生きていく上で一番聞く言葉は、一体、誰の言葉だろうか? 恐らく自分自身の言葉を人は一番聞いているはず... 親でもなく、 兄弟でもなく、 恋人でもなく、 配偶者でもなく、 神様の言葉でもない! 僕らは自分の言葉を一生のうちに一番聞いているはずです。 これってとても恐ろしいことだと思います。 イエス様は、マタイによる福音書15:11で「口にはいる物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」と言っています。 自分の内にあるものが言葉となり、それが人に影響を与えます。 自分の言葉を自分が一番聞いているのであれば、 その言葉に影響を受け、自分が育っていくのではないでしょうか? 罪人の僕の言葉が、僕自身を育てているのです。 ここで、僕らは何を基盤にして生きるべきかが問われるのだと思います。 僕らクリスチャンは何を基盤とするべきか? 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:4-9)  御言葉を心に刻むこと、蓄えることが僕らに求められています。 ただ読むだけではいけないようです。 聖書は、どんなときもそれを唱えなさいと言っています。 そして、ローマの信徒への手紙10:17を読む時に、 御言葉を聞くことが信仰の始まりだということに僕らは気付かされます。 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。(ローマの信徒への手紙10:17) 世に遣わされている

激励会と詩編100篇

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今日は礼拝後、教会で激励会をしてもらいました。 小山教会といえば、BBQです笑 とっても美味しいお肉でした。 小山教会名物シュハスコ(ブラジル式BBQ) そして、BBQ後は教会員のみんなが1曲贈ってくれました。 タイトルは「基嗣、ファイト」だとか、そうじゃないとか...笑 (結局のところ、タイトルは不明ですw) 詩編100篇だと思ったら、後半に自分の名前が出てきてとてもビックリさせられました。 こんな曲まで用意してくれるなんて、本当に嬉しかったです。 今日の礼拝説教はローマ12:3-8より、 「喜びをもって主に仕えよ」という説教題だったのですが、 礼拝説教だけでなく、今日一日の教会での交わりを通して、 「喜びをもって主に仕えてくれ!」という思いをもって、 教会員の方々が僕を送り出そうとしてくれるのがわかって、 本当に感謝なときでした。     全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。     喜び祝い、主に仕え     喜び歌って御前に進み出よ。     知れ、主こそ神であると。     主はわたしたちを造られた。     わたしたちは主のもの、その民     主に養われる羊の群れ。     感謝の歌をうたって主の門に進み     賛美の歌をうたって主の庭に入れ。     感謝をささげ、御名をたたえよ。     主は恵み深く、慈しみはとこしえに     主の真実は代々に及ぶ。(詩編100:1-5) 最後に、贈られた曲の歌詞と祈祷課題を掲載します。     喜び祝い 主に仕えよう     喜び歌って 御前に行こう     感謝を歌って 主の門に進み     賛美を歌って 御国に入ろう     神様ありがとう     基嗣に恵みを     神様ありがとう     基嗣、ファイト ◇祈祷課題 ・今週引越しをします。4/1~4に荷物を運び、翌週から寮生活を始める予定。引越しとその準備のためにお祈り下さい。 ・新生活のために。毎日ちゃんと食べていけるように。 ・日々の学びのために。神学と英語の勉強。 *お腹も心も満たされています^^

あと2回

明日は3月最終日曜。 早いもので、小山教会での礼拝も残すところあと2回。 喜びを持って神学校へと送り出してくれる 小山教会のメンバーに、僕は心から感謝してます。 さぁ、明日のCS準備に取り掛かろう。 *facebookでおなじみのリアクションボタンを設置しました。「Like」(いいね)と「Praise the Lord!」(主をほめたたえます!)です。「Pray (for you)」(祈ります)を加えるかは現在検討中です。

「基嗣」という名前

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このブログのタイトル、「天の故郷にあこがれて」はヘブライの信徒への手紙11:16から付けたものです。 ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち 天の故郷を熱望して いたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。(ヘブライ11:16、新共同訳) しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち 天の故郷にあこがれて いたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル人への手紙11:16、新改訳第三版) 新共同訳聖書だと「天の故郷を熱望して」となっているのですが、新改訳聖書第三版だと「天の故郷にあこがれて」と書かれているんです。個人的に後者の方が、言葉の響き的に好きなので、「天の故郷にあこがれて」をタイトルとして採用しています。 では、なぜこのタイトルを選んだのか? というのは、自分の「基嗣(もとつぐ)」という名前と関係があるからです。 この光の感じが好き (出典: flickr ) 小学校低学年の頃、母に僕の名前の意味を尋ねたところ、「『キリストの御国を嗣ぐ』って意味なんだよ」と説明されていましたが、当時の僕にその意味はサッパリでした。寧ろ、「神様の国を自分のモノとするなんて、何ておこがましい名前だ!」なんて思っていました。 この「基嗣」という名前の意味をようやく理解できたのは、それから10年以上経った頃でした。 大学に入学して、僕は信仰書を読もうと思い、故遠藤嘉信先生の 『初めに、神が―創造を貫き、堕落を凌ぐ神の愛』 を買って読みました。その本は、創世記1-3章の講解説教が収録されているものでした。その内容に感銘を受け、それから僕は1年掛けて遠藤先生の本を買い漁りました(笑)。 その時買った中の一冊、 『さあ、天を見上げなさい―神の恩寵とアブラハムの信仰』 にヘブライ11:13-16が書かれていたのです。 この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て

いんぐりっしゅ

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去年1年間やりたかったのに、思うように出来なかったこと。 それは英語の勉強。 もちろん自分の怠惰ゆえにです。 そして、ここ最近、「やらねば!」とますます思わされていること。 それは、やはり英語の勉強。 神学の勉強をする上でも必須な英語。 逃げ続けてきた英語の勉強をそろそろ本気でやらなければいけないようだ。 英語の勉強を"start"(出典: flickr ) そういうわけで、一昨日から英語の勉強を始めています。 今日で3日目突入。 塾で中学英語はずっと教えていたのですが、 勉強していて、高校英語をこんなにも忘れていたのか、と愕然としています。 継続は力なり。 まずは1週間続けることを目標に頑張ります。 お祈り下さい。(切実)

モレノ#1:「手放すということ ~天に宝を積む~」

以前、教会月報『モレノ』( Mo nthly Re port of the church of the N azarene in O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 手放すということ ~天に宝を積む 』(教会月報『モレノ』2010年4月号掲載) 2010年1月15日(金)、僕が中学2年生の夏からやっているクリスチャンバンドShine(シャイン)の新年会をしました。2009年の夏頃から活動休止状態にあったので、今後のあり方をハッキリさせるために、メンバーを集め、話し合う時間を持ちました。 大学卒業が1年後に控えるこの時期、それぞれが進路選択のために歩み出して行きます。 メンバー全員の話を聞いているとき、ヨハネの福音書に記されているキリストの言葉を思わされました。 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。(ヨハネによる福音書21:18) 自分の行きたいところへそれぞれが進める、というのがこれまでの一人ひとりの歩みでした。 しかし、少しずつ、少しずつ、それぞれの場所へと向かっていて、その歩みはもう既に始まっていました。 それはやはり、主の御手に引かれているのだと僕は思います。 その中で僕らは、徐々に自分の歩きたい所を歩けなくなっていくのだな、と思わされます。 それぞれが、それぞれのステージへと向かっていると感じました。 僕らは何かを選ぶとき、何かに向かって歩み出すときに、 何かを手放すこと、諦めることを選択する必要があるのだと思わされます。 新年会で話したことの結論を言うと、(表向きは)バンドは「活動停止」をすることになりました。 そう、僕らにとって一度手放さなければいけないものは、このバンド活動でした。 しかし、主のみこころならばまた集まり、共に活動をしたいという思いから、 「解散」ではなく、「活動停止」という選択を僕らはしました。 2002年7月28日に結成。 7年半ずっと共にあったバンドの終わりの時でした。 終わりを迎えることに悲しみを覚えたりもしますが、主にあって失ったのだと心から思っています。

東日本大震災祈祷会

昨日は神学校の試験が思いの外早く終わったので、関東地区KGK(キリスト者学生会)で東日本大震災の被災者の方々を覚えて祈る集会があることを思い出したので、他の学生たちと共に祈るために祈祷会へ出席してきました。(気付けば、これが学生時代最後のKGKの集会でした) 30分ほど遅刻しての出席だったが、本当に出席してよかった。 祈祷会には、東北地区の学生が来てくれて、被災地の現状を報告してくれました。 ――愛の反対は無関心。 大学へ入学した頃、ある先輩がよく言っていたのを思い出します。 いかに、被災地での生活の困難さを思い巡らして、 その為に祈る力が自分に乏しいのかがよくわかります。 自分の鈍感さがよくわかります。 しかし、それでも隣人の痛みに気付き、 必要な手を差し伸べることが出来る者へと変えられていきたいです。 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。(ローマ15:1,2) そして、僕らには今後来るであろうと予想されている地震のことを知り、 被害が最小限で済むために行動し、祈り求めていくことが求められていると思います。 参考までに、下記のサイトを紹介します。 「地震」や「救援」などのカテゴリーをご覧ください。 「小海キリスト教会牧師所感」 http://d.hatena.ne.jp/koumichristchurch/ 最後に、昨日挙げられていた祈祷課題をいくつか載せます。 ・食料、水、電気、ガソリンなどの必要が満たされるように。 ・寒さの為、体調を崩している方々のために ・福島第一原発の被害が大きくならずに、一日も早くおさまるように。 ・東北地区春期学校(中止になりました)を準備してくれた準備委員の心の慰めのために。

4月から神学生です

今日、日本ナザレン神学校の入学試験を受けてきました。 結果は、無事に合格。 祈り支えてくださったみなさん、本当に感謝します。 今回、教会や支えてくださる方々への報告を目的として、新たにブログを立ち上げました。 少ない更新回数になってしまうかもしれませんが、 日々の出来事や学び、祈祷課題などをここで分かち合っていこうと思っています。 今日は献身の証(神学校に提出したものを訂正・加筆)を掲載します。 祈り支えてくださる方々に是非読んで欲しいと思っています。                             『 召命の証 』 直接献身を考え始めるきっかけとなった出来事がふたつあります。ひとつは、2007年の春、日本大学に入学したての頃でした。入学した頃から、音大に入ることを断念して経済学部に進学したこともあって、将来の進路について考えていました。そんな時、当時KGK(キリスト者学生会)の主事をしていた方に「学生時代に進路を考えるときに直接献身の召しについても祈っておくといいよ」と言われ、私はたまに献身のためにも祈るようになりました。 もうひとつのきっかけは、聖書通読を始めたことです。大学に入学するまで、私は聖書を読むことはとても苦手でした。両親がクリスチャンの家庭に生まれ、幼い頃から教会へ通っていた私にとって、これまで聖書を読むことは義務でしかありませんでした。しかしある日曜日の午後、私は急にマタイの福音書が読みたくなり、一気に読んでみたところ、聖書がとても面白いことに気付いたのです。自ら手を取り読み進めていくうちに、これまで教会で聞いてきたひとつひとつの話がひとつの話に繋がっていきました。まるで点がつながって線になっていくような感覚でした。 それから聖書通読を始め、理解が深まるにつれ、「聖書を学びに神学校へ行くのもいいな」と思うようになりました。しかし、当時は「牧師にはなりたくないから」という理由で諦めていたことを思い出します。 召しの御言葉が与えられたのは、それからすぐのことでした。2008年の夏に召しの御言葉としてヨハネ21:15-19が与えらました。それから私は自分自身の召しについて真剣に祈り求め、この召しを吟味するようになりました。 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペ