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8月, 2011の投稿を表示しています

帰省と喜声

8月に予定していた奉仕が無事に終わり、先週末から水曜日まで実家に帰省していました。 久しぶりの我が家は、とてもリラックスできます。 でも、その反面、勉強はまったく手つかず。 神学校に帰ってきて、9月提出予定の宿題の量が思ってたより多くて、びっくりしました。 帰省期間を短めに予定しておいて助かりました。 これからがんばります。 そうそう、両親の支援もあり(感謝)、 帰省中に念願のMacBook Proを購入することができました。 作業のしやすさに驚いています。 ずっと気になっていたevernoteも導入し、 現在、日大合宿の説教準備中です。 さて、そろそろ9月です。 感謝なことに、9月はKGKでの説教奉仕が多く与えられました。 下記の予定です。お祈りください。 9月1-3日 日大KGK夏合宿 9月16-17日 中央線・多摩ブロック合同合宿

モレノ#6:「召しを新たに」

教会月報『モレノ』( Mo nthly  Re port of the church of the  N azarene in  O yama)に掲載した原稿をアップします。                                  『 召しを新たに 』(教会月報「モレノ」2011年9月号掲載) 7月30日(土)~8月8日(月)に山陰地区へ行って来ました。教会のみなさんの祈りに支えられ、無事に10日間の夏季派遣を乗り切ることができました。お祈り感謝します。今回は短く今回の夏季派遣の報告をさせて頂きます。 【自分にとっての「献身の証」】 夏季派遣が終ったからこそ書けることなのですが、正直言うと、今回の派遣はあまり乗り気ではありませんでした。というのは、献身の証( こちら に掲載しています)をする機会が多かったからです。 僕が自分自身の献身を話すとき、召しの御言葉(ヨハネ21:15-19)と共に、教会の転会について語ることを避けることはできません。20歳の時、生まれた頃から通っていた教会から小山教会へ転会しました。その事実は決して変わることがありません。そして、その事は僕の心の内に深く刻まれています。これまで献身の証をする機会が与えられ、その中で教会の転会の話をするたびに僕の心は痛みを感じていました。きっと、この痛みを訪れる教会で毎回感じる。それを思うと、初めて訪れる地、初めて訪れる教会、初めて会う人たちとの交わりを楽しみにしながらも、なかなか今回の夏季派遣に前向きな気持ちで臨む気にはなれませんでした。 7月29日、そのような思いを抱きながら、僕は夜行バスに乗り、山陰地区へと旅立ちました。 【はじめての礼拝説教】 夏季派遣では、礼拝説教の奉仕をさせて頂く機会が与えられました。そのため、説教箇所を決めてから、そのテキストと向き合う日々でした。選んだテキストはⅡコリント12:7-10。パウロは「とげ」を与えられ、そのとげを通して弱さの内に働くキリストの力に気付き、それゆえに自分の弱さを誇るという箇所です。夏季派遣中、このテキストと向き合い続けました。 僕にとっての「とげ」とは、もちろん、教会の転会でした。これが僕に痛みを与え続けていました。この「とげ」が与えられている理由は何なのだろうと、改めて考えなおす日々でした。 【召しを新たにさ

説教#2:「痛みを伴う歩み」

「痛みを伴う歩み」 聖書 詩編126:5-6、Ⅱコリント12:7-10 日時 2011年8月7日(日) 場所 出雲南教会、木次教会 【はじめに:痛みを伴う歩み】 私たちは毎日、多くの「痛み」を抱えながら生きています。 それは、持病や怪我といった身体的な痛みかもしれません。 身体的な痛みは、私たちの生活に制限を与えます。 今まで出来たことを出来なくしたり、 それによって、諦めなければならないことが出てきたりするなど、 その痛みは、時に私たちの心とも関係してきます。 また、それは友人や家族など、周囲の人たちとの関わりの中で受けた傷による、この心の痛みかもしれません。 人それぞれ抱えている「痛み」は様々ですが、 多かれ少なかれ、確かに私たちの内に痛みというものはあります。 私たちは、ある程度の痛みは、受け入れることが出来るにしても、 それが積み重なってきたり、 予想外のタイミングや、想像以上の痛みだった場合、 困惑し、落胆してしまいます。 そして、次第に問いが生まれてきます。 一体、この痛みにはどのような意味があるのか。 なぜ私に、と。 【パウロの抱えた「痛み」】 今日、私たちに与えられたこの箇所で、著者パウロは「ひとつのとげが与」(12:7)えられたと語っています。 パウロに与えられたこの「とげ」とはどのようなものだったのでしょうか。 パウロのいう「とげ」が何なのかを私たちは正確に知ることは出来ません。 しかし、「身に一つのとげが」という言葉から、肉体的疾患を彼は患っていたと解釈することが出来ます。 実際、パウロに与えられたとげがどのようなものであったにせよ、 このとげが痛みを伴うものであったことは明白です。 彼はこのとげによって痛み苦しんでいました。 パウロは、この痛みにより、多くのストレスを抱えたことでしょう。 眠れぬ夜もあったかもしれません。 肉体の不自由さを覚え、自分自身に苛立ちを感じるときもあったかもしれません。 そして、何より、このとげによって与えられている痛みにより、 自分の宣教が妨げられている、制限されていると感じたかもしれません。 このとげが自分の宣教の枷となっている、と。 それを思うと、「これを私から去らせて」(12:8、新改訳)欲しいと願う、 パウロの三度の祈りの必死さ

ティーンズキャンプへ行ってきます

先日、無事に夏季派遣を終え、帰ってきました。 2日ゆっくり休み、今日から3日間、ナザレンのティーンズキャンプ(関東地区)に参加してきます。 ギターと賛美リード、証の奉仕予定です。 参加する中高生たちの信仰の成長のためにお祈り頂けたら幸いです。

説教#1:「キリストにある平安を抱いて」

説教原稿を掲載します。 ひとりでも多くの方に福音が届けられるように用いられたら幸いです。                                  「キリストにある平安を抱いて」 ( こちら で説教が聞けます) 聖書 詩編4:1-9、マタイ8:23-27 日時 2011年8月6日(土) 場所 木次教会 家庭集会 【はじめに:恐れを抱きながら】 私たちは生きる上で、様々な恐怖を抱きます。 幼い頃は、暗闇を恐れました。 夜中、家の中をひとりで歩くのが怖いと思った経験を、恐らく誰もが持っているかと思います。 時が経ち、少しずつ大人になっていくと、私たちは将来のことで悩みだし、ときに恐れを抱きます。 先の見えない、不確かな将来に対する恐れです。 また、人を恐れます。 それは学校の友人、会社の上司、バイト先の同僚、近所のあの人など、 人付き合いの中で、恐怖を覚える時もあります。 そして、未知への遭遇。 テレビや新聞を騒がす大事件、大震災、 そして、死。 私たちが意識するにしても、しないにしても、 私たちに恐れを与えるものはとても多くあります。 【キリストに従った弟子たち】 今日、私たちに与えられたこの箇所では、イエス様の弟子たちが「恐れを抱いた」ということが記されています。 彼らは、イエス様のあとに従って、舟に乗りました。 23節にある、「従った」という言葉は、キリストの後ろを「あちこちついて行く」という意味と、キリストの「弟子である」というふたつの意味があります。 この物語は弟子たちがキリストに「従う」ということから始まりました。 弟子たちにとって、舟に乗ることも「従う」ことでした。 この「舟」という言葉は、弟子たちの群れ、つまり、キリストの教会の象徴として使われる言葉でもあります。 キリストに従い、信仰を持った者たちが舟に乗った。 そのような意味で、この弟子たちの姿を、キリストを信じる私たちと重ね合わせて見ることが出来ます。 【嵐の中で死を見つめる】 舟に乗り込んだ弟子たちは、突然の嵐に襲われます。 このように困難は突然私たちに襲いかかってくるのです。 キリストを信じたから、その後は困難などない、ということはありえません。 私たちは以前と同様に、喜びの時も苦しみの時も経験します。 そし

音楽と僕#3:「バンド」

2002年7月、生涯きっと忘れないであろう2つのことがありました。 ひとつは、キリストを自分の救い主として信じたこと。 毎年夏に参加していた、奥多摩の夏キャンプで、 僕は受洗を決心した。 キリストの十字架の贖いが、自分のためだって実感することができた。 そして、もうひとつ。 その夏のキャンプで出会ったSと、 帰りの電車でした会話をきっかけにバンドを組んだことだ。 (彼にとってもそうだと思うが、) 若干、ノリに任せた(笑) この会話がなかったら、僕は全く違う道を歩んでいたと思う。 S:「クリスチャンでバンドやりたいなー」 僕:「じゃぁ、やるか」 そう、たったこれだけの会話で僕らはバンドを組むことを決めた。 バンドへの憧れと、仲間と一緒に音楽をやれることへの期待で胸はいっぱいだった。 それからメンバーを集め、7年半このバンドは続く。 メンバーの入れ替えがあったけど、最後まで僕らふたりは一緒に演奏することを許された。 Sに言わせれば、僕らは正反対な性格で、一緒にやってこれたのは信じられない、とのこと。 shine(シャイン)。 僕らは自分たちのバンドにこう名付けた。 「光」であるキリストを宣べ伝えるんだ、と。 当時の僕は、「光」という言葉の持つその意味をあまり深く考えていなかった気がする。 クリスチャンは誰もが、福音の光を携えて、キリストを証する者として召されている。 しかし、牧者として、光を証する者になろうとなんて、この頃は考えもしなかった。 この頃を振り返ると、自分が今、献身者として歩んでいるのが不思議でならない。 #1「ピアノ」 #2「ギター」

僕にはひとつの夢がある。 いや、あったという方が正しいだろう。 なぜなら、この夏、その夢が早くも実現するからだ。 僕が抱いていたひとつの夢は、 この春卒業した日大KGKの合宿に講師として足を運ぶ事。 驚いたことに、色々アクシデントが重なった(らしい)ため、 僕のもとに講師依頼の電話が掛かってきた。 驚きと共に、喜び。 卒業してまもなく、こんなにも早く呼んでくれるなんて。 テーマは「祈り」。 正直、どこまで彼らの期待に応えることが出来るかわからないが、 誠実に準備して、当日臨みたいと思います。 *「牧師になったとき、日大KGKの合宿に講師と呼ばれること」に変更しようかな笑