しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年9月6日火曜日

説教#3:「神の約束を見つめて」(日大KGK夏合宿#1)

9月1〜3日に日大KGK夏合宿に、講師として参加してきました。
"Let's pray"というテーマと、テーマ聖句としてコロサイ4:2が与えられ、
当日は4回、語らせて頂きました。
祈りに覚えてくださったみなさん、感謝します。
合宿でした説教を、少しずつ公開していきたいと思います。
*普段は新共同訳聖書を使っていますが、今回の日大合宿では、参加者全員が新改訳聖書を使用していたので、新改訳聖書第三版から説教準備しました。

#1「神の約束を見つめて」こちらで説教が聞けます)
聖書 創世記32:3-12、ヨハネ3:16
日時 2011年9月1日(木)
場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会)

【はじめに:信じているようにしか、祈れない】
今回の日大合宿は、「祈り」というテーマが与えられました。
私が大学に入学し、この交わりに加えられる前から、日大KGKは祈りを大切にしている学内グループでした。
そんな日大KGKに集う私たちにとって、
そして何より、キリスト者である私たちにとって、
祈りというものはどのようなものなのでしょうか。
毎日のディボーションのとき、
困難に遭うとき、
喜びのとき、
周囲の人々をとりなす必要を覚えたとき、
病気のとき、
礼拝のとき、
食事のとき、
寝静まるとき、
学内聖研のとき、
祈り会のとき、
何か行動を起こそうとするときなど、
様々な時に、様々な場所で、様々な状況下で、私たちは神の前に祈りを捧げています。
祈りというものは、私たちクリスチャンにとって実に日常的なものです。
そんな祈りについて考える上で、その導入として、ケレスティヌス1世という5世紀のローマ教皇の言葉を紹介したいと思います。
“lex orandi, lex credendi”(レークス・オランディ、レークス・クレデンディ)
これは、「祈りの法則は信仰の法則」という意味の言葉です。
この言葉は、私たちの「祈り方が信じている事を決定する」ということを意味しています。
信じているようにしか祈れない、と言い換える事もできるでしょう。
では、私たちは何を信じているのか。
何に祈っているのだろうか。
当然、ここに集う私たちは神を信じている。
そして、神に祈っている、と答えるでしょう。
では、その神とはどのようなお方でしょうか?
改まって聞かれると、とても難しい質問です。
祈りについて考えるとき、私たちは、「神とはどのようなお方なのか?」という問いに出会うのです。
私にとって、神はどのようなお方なのか。
その答えが深まれば深まるほど、自らの祈りが深められていきます。
今晩、私たちは創世記32:9-12のヤコブの祈りを通して、共に祈りについてみことばから聞きたいと思います。

【ヤコブの抱えた課題】
ヤコブには、彼自身の抱えた大きな問題がありました。
彼はかつて、双子の兄エサウを騙し、長子の権利とその祝福を奪いました。
それによって、エサウの怒りを買い、エサウから逃げるために、自分の家を出て行きました。
家を出た彼は、おじのラバンのもとに行き、そこで長い間暮らしました。
彼はそこで妻、子供たち、そして多くの財産を与えられました。
彼は、ラバンのもとにいる間は、自分が抱えている問題、兄エサウのことを忘れることが出来たでしょう。
愛するラケルを妻として迎えるために働きました。
ラケルのことを考え、エサウとのことなんて忘れていたことでしょう。
また、時に妻たちの争いに巻き込まれ、頭を悩ましました。
エサウとのいさかいは彼にとって、ただの過去のトラブルに成り下がってしまったのかもしれません。
おじラバンに裏切られたときもありました。
いや、それ以上に、その時その時に、
彼の目の前にある現実の方が、彼を悩ませることでした。
今、目の前に見える現実が彼のすべてでした。
しかし、そんな彼に神は働かれます。
あなたが生まれた、あなたの先祖の国に帰りなさい。わたしはあなたとともにいる。(創世記31:3)
それまでも帰りたいと思う事がありましたが、実行はできませんでした。
しかし今回は、神の命令により、自分が故郷に帰る事は決定的になりました。
この神の言葉によって、ヤコブは兄エサウという、自分が向き合わなければならない問題に向き合わざるを得なくなりました。
故郷に帰ったら、エサウに会わなければならない。
兄はきっと怒っているだろう。
自分を憎くて仕方ないだろう。
自分の顔を見たら、兄はきっと殺そうとするだろう。
故郷に帰るということは、ヤコブにとってこのようなことを意味していました。
だから、安心して故郷に帰るには、エサウとの関係を回復させなければいけませんでした。
これはヤコブにとって、重要な問題でした。
彼は重大な問題を抱えて、故郷へ向かう旅路についたのです。
その旅の途上、神に捧げた祈りが、9-12節です。

【ヤコブの恐れ】
ヤコブはエサウとの再会を恐れていました。
長子の権利と祝福を奪われたエサウは、きっとまだ自分を殺したいほど憎んでいるだろう。
彼と会ったら、自分は殺されてしまうかもしれない。
自分だけが殺されるならまだしも、今の自分には家族がいる。
彼らをなんとかして守らなければいけない。
恐れとともに、彼の内に不安が立ち上った事でしょう。
その恐れや不安に駆り立てられて、
ヤコブはエサウに贈り物を用意しようと考えます。
エサウのもとに使いを送り、こう伝えました。
私はラバンのもとに寄留し、今までとどまっていました。私は牛、ろば、羊、男女の奴隷を持っています。それでご主人にお知らせして、あなたのご好意を得ようと使いを送ったのです。(創世記32:4,5)
ヤコブは必死です。
エサウが望むなら、いくらでも自分の財産を渡すつもりでした。
しかし、エサウのもとへ行った使者からの報告は、「あの方も、あなたを迎えに四百人を引き連れてやって来られます。」(創世記32:6)というものでした。
400人もの人たちを引き連れて、エサウが自分に立ち向かってくる。
この400人という群勢から、エサウの恐れをより強く覚え、ヤコブは恐れました。
非常に恐れ、心配しました。(創世記32:7)
もはやヤコブの力では解決出来ない問題だったのです。

【ヤコブの祈りの姿勢】
ここにきて、ヤコブはようやく祈りへと向かいます。
困難に直面する時、私たちは自分の力で何とかしようとしてしまいます。
必要と思われる計画を立てることは重要ですが、その限度を越え、計画に多くの時間を割くという極端な行動に私たちは走ってしまいやすいです。
しかし、「主に身を避ける事は、人に信頼するよりも良い」(詩篇118:8)ということを私たちは思い知らなければなりません。
主に身を避ける事は、私自身を信頼するよりも確実に良いことです。
私たちは、祈りを最初の頼みの綱としなければなりません。
ヤコブはそれが出来ていませんでした。
ヤコブのこの祈りに対する姿勢が、彼の神への信頼の度合いを露呈するものだったことは明らかでしょう。
最初に紹介した、「祈りの法則は、信仰の法則」という言葉と照らし合わせるならば、
ヤコブは神よりも自分の力を信じていたため、祈るのに遅かったと言えるかもしれません。
しかし、 それにも関わらず、このヤコブの祈りは実に率直で、ひとつの祈りの模範とも呼べるものです。 
自分の計画の愚かさと、自分の力の無力さを思い知った彼は、
神に助けを求める他、道はないことに気づき、主を真剣に呼び求めたのです。
ヤコブはこのようにして祈りへと導かれて行きました。

【ヤコブの祈り~主への呼びかけ】
私たちは祈りの時、まず神に呼びかけます。
ヤコブは神にこう呼びかけました。
「私の父アブラハムの神、私の父イサクの神よ。かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ。(創世記32:9)
この呼びかけには、どのような意味があるのでしょうか。
「私の父アブラハム、私の父イサクの神」と呼びかける意味。
それは、神との契約関係を思い起こさせるものでした。
アブラハム契約というものをご存知でしょうか。
創世記12章や13章などに記されているので、あとで確認してみてください。
この契約の内容は、
①アブラハムの子孫が祝福される
②アブラハムの子孫に土地が与えられる約束
③アブラハムを通して、異邦人も祝福を受けるようになる
というものでした。
ヤコブは、 「かつて私に『あなたの生まれ故郷に帰れ。わたしはあなたをしあわせにする』と仰せられた主よ 」と呼びかける事で、
アブラハムの子孫が祝福されるという神との契約を、神に思い起こさせました。
もちろん、神様がその契約を忘れているというわけではありません。
ヤコブはこの契約を祈りの言葉にすることによって、神に訴えているのです。
あなたはアブラハム、イサクの神となると誓ってくださいました。
私はその子孫です。
あなたのアブラハムに与えた契約の約束を思い起こしてください。
その約束への誠実さによって、困難のうちにある私を助け出してください、と。

【ヤコブの祈り~恵みを思い起こす】
そして、ヤコブは祈りの中でこれまで受けた恵みを思い起こします。
私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です。私は自分の杖一本だけを持って、このヨルダンを渡りましたが、今は、二つの宿営を持つようになったのです。(創世記32:10)
これまでヤコブは、数多くの憐れみを受けてきました。
家を出た彼は孤独でした。
しかし、やがて妻が与えられ、子供が与えられました。
財産もなかった。杖一本だけを持って、彼は家を出て行った。
しかし、今や多くの財産を与えられています。
これほどの祝福を置いたのにも関わらず、私を見捨てるのですか。
ヤコブの切実な訴えが、ここにあります。

【ヤコブの祈り~主こそ、我が助け】
そして、ヤコブは今最も必要としている祈りをするのです。
エサウとの関係に関するものでした。
神に助けを請う、具体的な、率直な祈りでした。
どうか私の兄、エサウの手から私を救い出してください。彼が来て、私をはじめ母や子どもたちまでも打ちはしないかと、私は彼を恐れているのです。あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする』と仰せられました。」(創世記32:12)
彼の祈りは遠まわしではなく、とてもストレートです。
また、神が自分の思いをすべて知っているからといって、
自分の思いを言葉にしないという選択を彼はしませんでした。

【約束を信じる】
ここまで見て来た中で明らかなのは、ヤコブの祈りに一貫しているものがあることです。
それは、神の約束に訴えるという姿勢でした。
ヤコブは確信していました。
神の言葉は真実だということを。
この約束が、神によってなされた以上、真実であるということを。
そしてその約束が成就しないはずがないということを。
彼の内に、神の約束を信じるという信仰があったのです。
私たちは神の約束を信じています。
だから私たちはその約束を見つめ、その約束に訴えて、祈ることができるのです。
神はそれを喜ばれます。
聖書の登場人物たちは、神の約束を絶えず思い起こしながら祈っています。
彼らは与えられている約束を見つめ、それを喜びとしていました。
私たちには、聖書を通して、多くの恵みの約束が与えられています。
私たちに与えられている最大の恵みの約束とは、
キリストを通して、永遠のいのちを与えられる、ということです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
永遠のいのちとは、神との永遠の交わりのことです。
私たちは、自分のうちにある罪のために、神との関係が断たれていました。
しかし、キリストの贖いにより、その関係は回復されたのです。
だから、 与えられているこの恵みに感謝して、私たちはキリストの名によって祈るのです。

【祈りの答え】
さて、私たちには、人生のステージによって、祈るべき課題が様々にあります。
友人のこと、進路のこと、結婚のこと、家族のこと、子供のこと、直面している解決が困難な問題など、
人生のステージが進むに従って、祈るべき祈りがそれぞれあります。
私たちは、どのようなときも、神の約束に訴え、祈ることが可能です。
しかし、これは神の約束を信じないと出来ない祈りです。
時に与えられる答えが自分の望んでいたものとは違うものが与えられるかもしれません。
そのようなときでも、神が確かに、自分にとって最も良い道へと導いてくださったということを信じられるかが問われてくるのです。
私たちにはこのような約束が与えられています。
神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)
私たちは自分の祈りがふさわしく取り扱われ、その祈りが聞かれていきます。
すべてのことを働かせて、神は益としてくださいます。
神を愛する私たちは、神のこの約束を信じ、日々祈り、神との交わりをもっていきましょう。