説教#4:「ひとり、神の前に進み出る」(日大KGK夏合宿#2)

#2「ひとり、神の前に進み出る」こちらで説教が聞けます)
聖書 創世記32:22-32、コロサイ4:2
日時 2011年9月2日(金)
場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会)

【はじめに:祈りは生き方と結びついている】
昨夜、“lex orandi, lex credendi”(レークス・オランディ、レークス・クレデンディ) という言葉を紹介しました。
「祈りの法則は信仰の法則」という意味のこの言葉は、
時に”lex vivendi”(レークス・ヴィヴェンディ)、「生活の法則」という意味の言葉が後に付けられて語られます。
祈りの法則は信仰の法則、信仰の法則は生活の法則なのです。
私たちの祈りが私たちの信仰と結びついているならば、
生活、つまり生き方と結びつかないわけがありません。
今朝私たちに与えられたテキスト、創世記32:22-32は、
ヤコブの人生の転換点と言える、とても重要な場面です。
ヤコブが神に向かっていく姿から、私たちは祈りについて教えられたいと思います。

【ヤコブの計画】
ヤコブは創世記32:9-12の祈りの後、兄エサウとの和解のためにひとつの計画を立てました。
それはこのような計画でした。
エサウへの贈り物として彼の所有する家畜を選び、選んだ牛やろば、羊、やぎ、らくだを一群れずつしもべたちの手に渡しました。
そして、その贈り物をいくつかの群れにわけて、自分の先へ進ませ、兄エサウをなだめようとしました。
私より先に行く贈り物によって彼をなだめ、そうして後、彼の顔を見よう。もしや、彼は私を快く受け入れてくれるかもわからない(創世記32:20)
ヤコブは、贈り物によってエサウの顔を見ようとしました。
贈り物によって、エサウとの関係を回復しようとしました。
贈り物によって和解しようとする姿勢は、決して正しいとはいえない姿勢でしょう。
これは、異教徒が異教の神々に向かっていく姿に似ています。


【目を覚まし、主に向かえ】
彼は出来る限りの計画を立て終え、眠りにつこうとします。
しかし、エサウのことを考えると眠れません。
これで本当に赦してもらえるのだろうか。
不安が募ります。
兄はまだ怒りに燃え、自分を殺さないだろうか。
恐れがヤコブの心を支配しました。
彼は祈らざるを得ませんでした。
彼は夜中に起き上がり、家族や持ち物すべてをヤボク川の向こうへ渡らせました。
そして、彼はひとりになりました。
ひとりだけ、あとに残りました(創世記32:24)
私たちは普段、集団の中で生きています。
時に人の目を気にして、
周りの人々に配慮しながら生きています。
悲しみのとき、周囲の人たちに励まされます。
喜びのとき、周囲の人たちと喜びます。
ヤコブはそのような交わりから、一人にされました。
ヤボク川を境界線として、一人になりました。
一人、神の前に彼は進み出て行きました。
ひとり静まり、自らの抱える問題について祈り続けます。
私たちには神の前に出ていく必要があります。
そして、神と出会うことが必要です。
今、神と出会っているでしょうか?
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4:2)
このヤコブの姿を思うとき、今年の日大KGKのテーマ聖句を思い起こさせます。
彼は目を覚まして、たゆみなく祈り続けました。
ひたすら祈り続けました。
そう、夜明けまで、祈りをもって、「ある人」、神と格闘したのです。

【神との格闘~もものつがいを打たれて】
ヤコブの格闘は、神への祈りであったとともに、実際に彼はこの身体で戦いました。
それは、彼がもものつがいを打たれたということから明らかです。
もものつがいとは、股関節のことで、彼はそれを外され、残りの生涯は足をひきずっていました。
これまでヤコブは自分の力で多くのものを勝ち取ろうとしてきました。
この神との格闘においてもそうです。
そんなヤコブがもものつがいを打たれたのです。
それによって、自らの力で何かをすることが不可能になりました。
ようやくヤコブは神に完全に拠り頼むのです。
自分が拠り頼むべきなのは、自分自身ではない。
神なのだ。
自分がはじめに向き合うべきなのは、エサウではない。
神なのだ、と。
神こそ我が救いである。
救いの神にヤコブはしがみつきます。
「わたしを去らせよ」という神の言葉を拒み、祝福を求め続けます。
私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。(創世記32:26)
神の祝福こそ、人が、自分が求めるべきものだということに気付いたのです。
彼は自らの命に危機感を覚えていました。
この世での命だけではありありません。
彼が最も危機感を覚えたのは、永遠のいのち、つまり神との関係です。
神の祝福は十分に彼のうちに注がれていました。
拒んでいたのは、ヤコブの方でした。
彼の抱える問題が、神との関係を阻害したのです。
その問題は、エサウではありませんでした。
エサウの問題は彼の抱える表面的な問題にすぎません。
もっともっと根深くヤコブのうちに巣食うもの。
彼にはもっと本質的な問題がありました。
それは、罪の問題です。

【ヤコブという名の意味】
さて、聖書において名前は、その人がどのような生涯を歩んだかを示すものでもあります。
2人の人物を例に挙げてみましょう。
1人目はアブラハム、彼の名前の意味は「群衆(多数のもの)の父」という意味です。
信仰によって、彼は私たちの父です。
彼の生涯を通して、それが示されています。
ローマ4章を読むと、その理由は明らかです。
そして、もう一人はモーセです。
彼の名前は、「引き上げる」という意味の言葉から付けられました。
彼は、ナイル川から引き上げられました。
それによって、王女の子とされ、生かされます。
本当の両親のもとにいたら、当時のエジプトの王の政策によって殺されていたでしょう。
また、ナイル川から引き上げられなかったら、やがて死んでしまったでしょう。
彼はそこから引き上げられ、生かされた。いのちを与えられた。
そして、モーセの召しは、エジプトからイスラエルの民を救い出し、カナンの地へ導くことでした。
エジプトの国での奴隷状態から、約束の地の住人へと引き上げる。
実に、彼の生涯を明確に言い表しています。
では、ヤコブという名はどのような意味をもった名前だったのでしょうか。
「ヤコブ」という名前の意味について考えるとき、ヤコブの抱える罪が見えてきます。
創世記25章に記されている、ヤコブの出生の記事を読むと、
彼は兄エサウのかかとをつかんで出てきたため、ヤコブとつけられたことがわかります。
このヤコブという名前の積極的な意味は、「神があなたの後衛となってくださるように」です。
神が彼の後ろで守ってくださるようにという、彼の両親である、イサクとリベカの祈りでした。
しかし、このような意味もあります。
他の人の歩みにつきまとう、出し抜くというような敵対的な意味です。
事実、彼は自分自身の行動によって、その名を貶めることになってしまいました。
このヤコブという名を、裏切りと同義にしてしまったのです。
ヤコブが人を出しぬくことにおいて、最も顕著だったのが、
兄エサウを出し抜き、彼が与えられる予定だった長子の権利と祝福を奪うという出来事でした。
ヤコブが兄エサウと向き合うだけでは不十分だったのです。
彼は自分自身と向き合わなければいけませんでした。
自分自身の抱える、この罪の性質に。
これが神との関係、そして隣人との関係を阻害しているという事実に気づかなければなりませんでした。
ヤコブは祈りの中で気付かされていくのです。
神との格闘の中で気付かされていくのです。
はじめは、エサウのことを何とかしてください、という祈りだったでしょう。
しかし、やがてエサウの問題は、自分の罪の問題だということに祈りの中で、この格闘の中で気付かされていきました。
自分の名前を言うことは、時に自分自身を明らかにする行為となります。
彼は名を聞かれたとき、「ヤコブです」と答えました。
私はこのような罪深い歩みをこれまでしてきた罪人です。
ヤコブの悔い改めの姿でした。
彼は、自分の罪と向き合い、
罪が神と向きあわなくさせていることに気付いたのです。
自分の罪が神との関係を断ち切っていたのだと。

【新しい名、イスラエル】
祝福を求めた先、彼が出会ったのは自分の罪でした。
しかし、それだけにはとどまりませんでした。
彼は神と本当の意味で出会います。
そして、新しい名前が与えられたのです。
イスラエルという名前が。
名前が新しく与えられるという出来事は、聖書において、新しくされたことを意味しています。
もはや古い人ではない、新しい人とされたのだ、という宣言です。
何によって新しくされているのか。
それは、キリストの贖いによってです。
キリストの十字架上での死によって、私たちと神との関係は回復したのです。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ6:23)
神は「あなたの名は何というのか」(創世記32:27)と問われます。
言い換えると、「あなたは誰なのか?」と。
この問い掛けに対して、ヤコブはイスラエルという新しい名で答える者へと変えられました。
そして、私たちも新しい名が与えられているのです。
クリスチャン、キリストを信じる者という名が。
私たちは、神に罪赦され者です。
かつては罪の奴隷の状態にありました。
しかし今や神の子とされているのです。
キリストによて、神の子だと答えることができるのです。
何という恵みでしょうか!
ヤコブの祈りは、ヤコブを取り巻く状況を変えることはありませんでした。
依然として、エサウとの関係は変わりません。
しかし、変わったのはヤコブでした。
彼が変えられたのです。
このペヌエルという場所で。
ペヌエルは、「神の御顔」という意味です。
「私は顔と顔とを合わせて神を見たのに、私のいのちは救われた」という意味です。


【神の御顔を見る】
はじめ、ヤコブはエサウの顔を見ようと必死でした。
エサウに何とかして赦してもらおうと、必死に計画を立てました。
必死に神に祈りました。
しかし、彼がまず向き合うべきは神御自身でした。
見つめるべきは神の御顔でした。
神との関係が回復されることこそ、彼の一番の必要でした。
ひとり、神の前に進み出たとき、主は彼をこのように取り扱われました。
そして、ヤコブは家族のもとに戻っていったのです。共同体の中にへと。


【日大KGKのテーマ聖句】
今年度の日大KGKのテーマ聖句は、コロサイ4:2と聞いています。
目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。(コロサイ4:2)
ここでパウロは、「目をさまして…祈りなさい」と言っています。
神との交わりではなく、眠りへと向かっていってしまう祈りは求められていません。
惰性の祈りではない、理性の伴う、目を覚ました祈りをしなさいとパウロは促しています。
目を覚まし、神の前に進み出て、神との交わりを持ちなさい、と。
続けて、「感謝をもって…祈りなさい」と言っています。
ヤコブにとって、感謝を呼び起こすものとは、このペヌエルでの経験でした。
もものつがいを打たれたこの痛みが、感謝を呼び起こすのです。
私たちも神の恵みへの感謝を思い起こしながら祈るべきなのです。
最後に、「たゆみなく祈りなさい」と。
ヤコブの祈りの特徴は、しつこさです。
彼は荒削りな信仰者でしたが、神の前に出続けました。
多くの問題を抱えていましたが、神の前に出続けました。
彼の祈りが変えられていったように、私たちがたゆみなく祈り続けるならば、祈りは祈りの中で取り扱われ、変えられていくのです。
キリストが私たちのためにとりなしてくださっています。
そして、聖霊が言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして(ローマ8:26)くださっているのです。
エサウから神へとその顔が向いていったように、
私たちも神の前に進み出て、祈りつづけるとき、
目の前の問題ではなく、神へとその目が向いていくのです。
私たちは日々、神と出会っているでしょうか。
ひとり、神の前に進み出て、
目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈り続けていきましょう。

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