しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年9月20日火曜日

説教#5:「愛のとりなし手」(日大KGK夏合宿#3)

#3「愛のとりなし手」こちらで説教が聞けます)
聖書 創世記18:16-33、Ⅰコリント13:1-13
日時 2011年9月2日(金)
場所 日大KGK夏合宿(津田沼保守バプテスト教会)

【はじめに:ソドムとゴモラ】
私たちは日々、この世界の罪や悪の現実を目の当たりにしています。
私たちの生きるこの世界は、モラルが低下し、不義で溢れています。
人々の罪で溢れ、不正や争いごとが絶えません。
今日のこのテキストに出てくるソドムとゴモラという町は、
聖書において、罪に溢れた世界、堕落の象徴として頻繁に出てくる町です。
そこは不正や悪がはびこりる、不道徳な町でした。
このソドムとゴモラについて、エレミヤ書にはこのように書かれています。
エルサレムの預言者たちの中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行う者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。(エレミヤ23:14)
ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、その罪はきわめて重かったのです。

【主の前に立ち続ける】
そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」(創世記18:20,21)
アブラハムは、主からソドムとゴモラのことを聞きました。
神が知らせなかったら、アブラハムは外からソドムとゴモラが裁きを受け、滅びるのを傍観していたことでしょう。
しかし、神はそれを望みませんでした。
神は、アブラハムが傍観者でいることを望みませんでした。
彼がとりなしの祈り手となる、それが神の望みでした。
神からソドムとゴモラを裁く意思を聞いたアブラハムは、まだ神の前に立ち続けていた。
彼は主の前に立ち続けていなければいけない理由があったからです。
ソドムの地には、甥のロトがいたから引き下がるわけにはいかないのです。
ソドムの地が裁きを受ける事は、ロトも共に裁きを受けるという事を意味していました。
愛するロトの為に、彼は主の前に立ち続けました。
アブラハムは祈りました。
「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者といっしょに殺し、そのため、正しい者と悪い者とが同じようになるというようなことを、あなたがなさるはずがありません。とてもありえないことです。全世界をさばくお方は、公義を行うべきではありませんか。」(創世記18:23-25)
このように愛なる神に訴えるように祈ったのです。
このようなアブラハムの祈りの内容に、私たちは驚きを覚えます。
彼は、ロトのためだけでなく、ソドムの人々のためにもとりなしの祈りを捧げたのです。
ロトさえ救われればいいじゃないか、ではありませんでした。
神の救いはすべての人が主に立ち返ることです。
だから、この祈りは神のみこころにかなうものでした。
事実、主は50人の正しい者のために、思い直されました。
「もしソドムで、わたしが五十人の正しい者を町の中に見つけたら、その人たちのために、その町全部を赦そう。」(創世記18:26)と。
【アブラハムの祈りの姿勢】
しかし、アブラハムの祈りはここでは終わりませんでした。
ここから彼の交渉が始まったのです。
ヤコブのように、アブラハムの祈りも実にしつこい。
そして、この祈りを神は喜んで聞いています。
とりなしの祈りが捧げられることは、神の御心にかなっていることなのです。
彼は祈り続けました。
とりなし続けました。
この彼の祈る姿に、私たちはへりくだりの姿勢を見るのです。
これはとりなす前に、神に願う前にこう祈っています。
私はちりや灰にすぎませんが、あえて主に申し上げるのをお許しください。(18:27)
主よ。どうかお怒りにならないで、私に言わせてください。(18:30)
私があえて、主に申し上げるのをお許しください。(18:31)
主よ。どうかお怒りにならないで、今一度だけ私に言わせてください。18:32)
彼は必死にしがみつきます。
これらの言葉の後、彼は祈ります。
5人足りなくて45人かもしれません。
40人かもしれない。
30人かもしれない。
20人かもしれない。
10人かもしれない、と。
アブラハムは傍観者ではありませんでした。
ロトの愛のとりなし手となったのです。
それだけではなく、ソドムのとりなし手ともなったのです。
私たちはここで問われなければなりません。
自分の遣わされているこの大学のために、この日本のために、どれだけ真剣に神の前にとりなし祈れているのか、と。
神の前に立ち続け、とりなしの祈りを続けられているのか、と。
愛のとりなし手となっているのか、と。
たとえ祈れなくても、こう祈ることができます。
神よ、この人を救ってください!と。
すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを待ち望む姿勢でした。
自分の利益のため、愛のある、愛のあるかのように見える行いは、自己中心の愛です。

【祈りは隣人との関係】
とりなしの祈りは、隣人との関係ということができると思います。
とりなし祈る事は、とりなす相手を愛することです。
人を愛するとき、私たちは自分の必要のために相手に何かをしません。
相手の必要のために何かをしようと思います。
相手の必要を想像し、思い浮かべて、与えるものを与えたり、時間を割いたり、何かをしたり、しなかったりするのでしょう。
愛するとは、想像することです。
同じように、私たちは誰かをとりなすとき、その相手の必要を思い浮かべながら、祈るのです。
愛することは、その人の必要を想像し、祈ることです。
彼、彼女の実際の必要、霊的必要、直面している困難、将来の歩み、その他多くのことを思い浮かべながら祈るのです。
私たちを愛するゆえに、キリストは私たちをとりなしてくださっています。
最後の晩餐の席でなされた大祭司の祈りを私たちは知っています。
キリストの私たちに対する愛に満ちた配慮を知ることができます。
十字架に架かる前、 ゲツセマネでのキリストの祈りを私たちは知っています。
そして、とりなされた私たちは、とりなしてくださるキリストと共に祈るのです。
私たちの内には聖霊が与えられています。聖霊がとりなしてくださっているのです。
私たちが日大を見渡すとき、私たちの内にいる聖霊は悲しみを覚えていることでしょう。
この霊的現実に、目を覚まさなければ、目を覚ましたゆみなく祈ならなければならない。
何に悲しみを覚えているのか。
それは、この大学に集う学生たちに対してです。
日大は8万人以上の学生がいます。
教職員は5000人弱。
卒業生は約100万人。
こんなに多くの人がいます。
その内の1%が神を信じているとしても、信じない者の数が多すぎます。
なぜ、私たちはこの大学に遣わされたのだろうかと問うとき、
第一に覚えたいのは、彼らをとりなすためだということです。
愛する友人たちは、滅びに向かっているソドムとゴモラの地にいます。
そこから救い出されるように祈る。
結果的に、ソドムとゴモラは滅ぼされましたが、ロトは救いだされました。
神の前に、あの友人をとりなす者が自分以外にいるだろうか?
彼にとってのアブラハムはいるのだろうか?
愛のとりなし手となることが求められています。
私が彼のために、アブラハムにならなければならない。

【アブラハムに見いだす祈りの姿勢】
私たちは祈るとき、本当に愛しているかが問われます。
愛のない祈りは、神の前に虚しく響き渡ります。
愛がないなら、やかましいドラやシンバルと同じです。(1コリ13:1)
そして、その祈りはすぐに鳴り止んでしまいやすいのです。
しかし、アブラハムは諦めませんでした。愛のゆえに。
彼のこの祈りが愛のない祈りだったら、すぐに終わるだろう。
しかし、彼は神の前に立ち続けました。
愛のとりなしを続けます。
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさいと私たちは神から命令されています。
あなたの隣人を、あなたがあなた自身のために祈るように、とりなし祈りなさいともとれるでしょう。
しかし、そうは言っても、完全に人を愛することは私たちにはできません。
不完全だけど、愛せているならまだいいです。
悲しいことに、実際に愛せない人は存在します。
そのような人たちも愛せることが理想ですが、現実そう簡単ではありません。
無理に愛することによって、義務的な愛、偽りの愛を相手に示すことは神は悲しまれます。
キリストがその自分が愛せない人も愛し、その人のためにも死んでくださった、ということを知ることが大切です。
キリストが彼を愛してる、だから、大切にその相手を思う。
そして、やがて愛せる日がくるようになることを願いながら、
彼のためにとりなしていくのです。
揺り起こしたり、掻き立てたりしないでください。愛が目覚めたいと思うまでは。(雅歌2:7)
【群れを愛する】
また、神様は私たちの弱さを十分にご存知です。
時にひとりでは祈り続けない私たちの現実も知っておられます。
だからこそ、共に祈り合う教会を与えてくださいました。
キリストのあがないによって、回復したのは、神との関係だけではありません。
人との関係も回復されたのです。
 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。…… こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。(エペソ2:14-16, 19)
罪によって、敵意のあった私たちを、キリストにあって家族とされました。
教会へと招いた。
そして、共に祈り合うこの日大KGKを与えてくださっています。
私は日大KGKの祈りの交わりの中で、祈ることを教えられました。
交わりの中で、私たちは祈ることを学ぶのです。
ひとり、神の前に進み出て、とりなす者へと変えられていきます。
日大KGKの内に、信仰と希望と愛に道溢れた、とりなしの祈りの輪が形成されることを願っています。
日大KGKが、教会が、愛のとりなし手として、
神と人との間に、キリストと共に立ち続けられますように。