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説教#99:「嘆きのある場所に主は来られた」

「嘆きのある場所に主は来られた」 聖書 マタイによる福音書2:13-23、エレミヤ書31:15-17 日時 2015年12月27日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団・小岩教会) 【嘆きの声が絶えないベツレヘム】 クリスマスを迎え、救い主であるイエス様がお生まれになったことを 私たちは共に喜び、そしてお祝いをしました。 しかし、イエス様の誕生が喜ばれたその背後に、 とても悲しく、そして嘆かわしい事件が起こったことをマタイは記しています。 それは、ユダヤの王であるヘロデによる、幼子たちの虐殺でした。 ヘロデは、ユダヤ人の王が生まれる知らせを受けて、 イエス様を殺そうとしたのです。 ユダヤ人の王として生まれてきたと言われ、 王である自分に取って代わろるかもしれないイエス様の存在を、 ヘロデはどうしても許せなかったのです。 そのため、イエス様は生まれて間もなく、 ヘロデによって、命の危険に晒されました。 しかし、そこには神の助けがありました。 イエス様の父親であるヨセフが見た夢の中に、天使が現れて、 ヨセフにヘロデの計画を教え、エジプトへ逃げるようにと伝えたのです。 そのおかげで、イエス様は ヘロデの行った幼児虐殺から逃れることができました。 しかし、「それでよかった、めでたしめでたし」とはなりません。 ベツレヘムとその周辺一帯に暮らしていた、2歳以下の、 罪もない男の子たちが一人残らず殺されてしまったのですから。 マタイは、預言者エレミヤの言葉を引用して、 愛する子どもたちを奪われた親たちの、その悲しみと嘆きの声を伝えています。 「ラマで声が聞こえた。 激しく嘆き悲しむ声だ。 ラケルは子供たちのことで泣き、  慰めてもらおうともしない、  子供たちがもういないから。」(マタイ2:18) もう子どもたちはいない。 いくら慰めの言葉を掛けられても、 奪われた子どもたちは決して帰ってきません。 ベツレヘムの人々は、ただただ、悲しみに暮れるしかありませんでした。 救い主であるイエス様の誕生の喜びの声をかき消すかのように、 ベツレヘムの人々は、悲しみ、嘆き、叫んでいたのです。

説教#98:「この方こそ、私たちを導く光」

「この方こそ、私たちを導く光」 聖書 マタイによる福音書2:1-12、イザヤ書60:1-6 日時 2015年12月20日 礼拝 場所  小岩教会(日本ナザレン教団) 【星を追いかけてやって来た学者たち】 それは、今から2000年と少し前の出来事でした。 夜空に強く光り輝く星が現れたそうです。 その星を追いかけて、東の方からやって来た学者たちがいました。 彼らは、この強く光り輝く星を見つけた時、 この星はユダヤ人の王が産まれるしるしに違いないと確信し、 産まれてくる子と会うため、意を決して、ユダヤの地へと旅立ったのです。 彼らはユダヤの都であり、当時のユダヤの王ヘロデのいる、 エルサレムへ向かい、ヘロデ王に尋ねました。 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:2) ここで「ユダヤ人の王」と言われている者は、 旧約聖書の時代から人々が待ち望み続けた救い主、メシアのことでした。 ユダヤの人々が強く待ち望み続けた救い主が産まれるしるしを見たと、 東の地から異国の学者たちがやってきて伝えたのです。 この突然の知らせを受けた、当時のユダヤの王であるヘロデは、 この知らせを喜びませんでした。 彼は、不安を抱きました。 ヘロデのこのような反応のわけは、 ヘロデという人物について知れば、納得できるものです。 ヘロデは、自分の地位を守るため、家族を殺した人物として、 当時の人々に知られていました。 自分の家族に手をかけてまで、王で在り続けようとするヘロデが、 「ユダヤ人の王が産まれる」という知らせを受けた時、 不安を抱いたのは当然のことでした。 それは、自分に取って代わる王が現れるという悪い知らせなのですから。

説教#97:「神は私たちと共におられる」

「神は私たちと共におられる」 聖書 マタイによる福音書1:18-25、イザヤ書7:10-17 日時 2015年12月13日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【喜びから絶望へ】 ここに、一人の悩める男性の姿が描かれています。 彼の名前はヨセフ。 そう、主イエスの父親として知られている、あのヨセフです。 彼は人生における、最も喜ばしいイベントのひとつである 結婚と出産を通して、ひとつの試練を与えられました。 彼に与えられた試練について、マタイはこのように記しています。 母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。(マタイ1:18) 本来、婚約期間は、結婚するふたりにとって、 結婚して二人で共に歩み始める時を、一緒に喜び待ち望む時間です。 それは、ヨセフとマリアにとっても同じでした。 しかし、そのような喜びに溢れる婚約期間中に、 妻になるマリアが身ごもったことがわかったのです。 この出来事は、とても深刻な現実をヨセフに突きつけました。 愛するマリアの身に起こったことが、ヨセフには信じ難かったことでしょう。 自分の身に覚えがないヨセフにとって、 マリアが身ごもっていることは、マリアが自分以外の男性と、 肉体関係をもったのではないかという疑いを産みました。 当然、神がマリアに働いて、聖霊によって、 マリアが子を宿したことなど、ヨセフにはわかるがはずありません。 マリアは、自分の身に起こったことを、 一生懸命ヨセフに説明したことでしょう。 主の天使が自分のもとにやってきて、 神のわざによって、自分は身ごもったことを伝えてくれたのだ、と。 しかし、ヨセフはどこまでその言葉を信じられたのでしょうか。 常識的に考えて、身重になったマリアを見たら、 自分以外の男性と性交渉を行ったとヨセフが考えるのは当然です。 結婚を待ち望み、喜び溢れていたヨセフでしたが、 マリアが結婚前に身重になったことを通して、 彼は絶望のドン底に突き落とされたのです。 なぜなのか……なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか……。 ヨセフの苦悩に満ちた嘆きが聞こえてきます。

説教#96:「新しい時代の訪れ」

「新しい時代の訪れ」  聖書 マタイによる福音書1:1-17、イザヤ書9:5-6  日時 2015年12月6日 礼拝  場所  小岩教会(日本ナザレン教団) 【イエス・キリストへ至る系図】 マタイによる福音書は、アブラハムから始まり、  イエス・キリストで終わる系図を記すことから始まります。 ここに名前が記されている人々は、旧約聖書の時代に生きた信仰者たちです。 アブラハムやダビデのように、 旧約聖書で詳しく取り扱われている者もいれば、 エリウドやエレアザルのように、全く知られていない者もいます。 彼らは、神の民として選ばれ、その生涯を神とともに歩んだ人々でした。 その意味で、この系図は、旧約聖書の信仰者たちの歴史が凝縮されている、 ということもできるでしょう。 私たちが信じるイエス・キリストの物語を語り始める際、  著者は、旧約聖書の時代に生きた信仰者たちの系図を記すことによって、  旧約聖書の歴史とその時代の人々が抱いていた信仰を 無視してはいけないと語っているのです。

説教#95:「栄光の王とは誰か?」

「栄光の王とは誰か?」  聖書 マタイ1:1-11、サムエル記下12:1-10 日時 2015年11月29日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【マタイ福音書の華々しい幕開け】 マタイによる福音書は、イエス・キリストの系図を記すことから始まります。 その冒頭において著者は、これから福音書の中で物語られ、  紹介されていくことになるイエス・キリストについてこのように述べています。  「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」(マタイ1:1)と。  イエス・キリストは、信仰の父であるアブラハムの子であり、  イスラエルの偉大な王であるダビデの子であると述べることから、 著者はこの福音書を始めました。  旧約聖書に登場する、ふたりの偉大な信仰者、 信仰の父であるアブラハムと、イスラエルの偉大な王であるダビデ。 イエス・キリストが、このふたりの子孫であると紹介をされ、 マタイによる福音書は、とても華々しく幕を開けるのです。 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)と。 著者は、系図を記すことから、この福音書を始めました。 現代に生きる私たちならば、この方法はまず選ばないでしょう。 しかし、旧約聖書を知る人々にとって、 系図から福音書が始まるのには大きな意味がありました。 著者は、旧約聖書の時代から イエス・キリストにまで至る一本の線を引いています。 それは、単なる血のつながりによる系図ではありません。 この系図は、神への信仰によって貫かれています。 ここに記されている、神の恵みによって選ばれた人々は、 神が約束してくださった言葉を次の世代へと語り伝えていきました。 神が約束してくださったこととは、救い主が来るということです。 ですから、アブラハムからキリストに至るまでの系図は、 旧約聖書の時代から人々が待ち望み続けた 救い主キリストが私たちのもとに来たということを意味します。 それは、偶然の思いがけない出来事ではなく、 神の計画のうちに起きた出来事であると証言されているのです。

説教#94:「私たちが築くべきもの」

「私たちが築くべきもの」 聖書 創世記11:1-9、ヨハネの手紙 一 4:16-21  日時 2015年11月22日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【「聞かない」共同体】 それは、この世界の人々が同じ言葉を話していた時代のことでした。  人々は、自分たちが世界中に散らされることを恐れ、こう言いました。 「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」(創世記11:4)  このように言った人々は「天まで届く塔のある町」を建てることによって、 ひとつになろうとしました。 この当時の人々は、今の私たちとは異なり、同じ言葉を用いていました。 しかし、それにも関わらず、彼らは全地に散らされることを恐れました。 「同じ言葉を用いていても、自分たちはひとつになれない」と 人々が考えていたことがわかります。 たとえ同じ言葉を話していたとしても、思いをうまく共有できず、 異なる考えや価値観を受け入れ合うことができない。 目の前の相手の言葉を聞き、理解できるのに、理解し合うことができない。 お互いの言葉を「聞かない」こと。 これが、この町の人々が抱えた問題でした。 その解決策として、「天まで届く塔のある町」を建てることによって、 人々はひとつになろうとしました。 「天まで届く塔」とは権力の象徴でした。 人々は、権力を用いることによって、ひとつになろうとしたのです。 しかし、それは神の意図したこととは正反対のことでした。 神は私たち人間を祝福して 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)と言われました。 この世界に広がっていくことは、神の祝福の現れであり、 神が望んだことでした。 そのため、「天まで届く塔のある町」を建設し、 人々が世界に広がっていくことを止めようとしたことは、 神の祝福を否定し、拒否することでした。 人々は、人間同士の声を、お互いに聞かないばかりでなく、 神の声さえも聞かない状態だったのです。

説教#:93:「神の祝福の証人」

「神の祝福の証人」   聖書 創世記10:1-32、ルカによる福音書24:45-48 日時 2015年11月15日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【神の祝福「産めよ、増えよ」】 この世界を造られたとき、 神はこの地上のすべての生き物を祝福して言われました。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記1:28)と。 この祝福の言葉は、洪水の後、ノアとその家族にも語られたものでした。 そして、この神の祝福は、ノアの3人の息子である セム、ハム、ヤフェトの3人から、  この世界のすべての民族が広がっていくことによって、 この地上に実現しました。 創世記10章の系図は、そのような神の祝福の現実を物語っています。 ノアの3人の息子たちの子孫によって、地上のすべての民族は分かれ出て、 この地上に産まれ、増え、そして地に満ちていったのです。 神の祝福とは、ただ単にこの地上に 人間が増え広がっていくというものではありませんでした。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福された時、 神は、人間やすべての生き物に「多様性」という豊かさを与えられました。 そう、神は、すべての人間、すべての生き物を 全く同じようには造らなかったのです。 創世記10章に記されている民族や国の名前を思い巡らすだけで、 そこに様々な違い、多様性があることに気付くでしょう。 言語、文化、住んでいる場所、肌の色、髪や眼の色、考え方、好みなど、 私たち人間には、様々な違いというものが、 「多様性」という形で与えられているのです。 神は、私たちひとりひとりを、とてもユニークな存在として造られ、 私たちひとりひとりの存在を心から喜んでおられるのです。 神は、そのような「多様性」を良しとされ、 人間がこの世界に広がっていくのを喜ばれたのです。

説教#92:「恵みによって義とされる」

『恵みによって義とされる 』 聖書  創世記 9:18-29、ローマの信徒への手紙 3:9-24 日時 2015年 11月 8日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【ノアの「物語のその後」】 私たちの周りには、色々な「物語」があります。 私たちの出会うどの物語にも、必ず結末があります。 読者である私たちが気に入るにせよ、気に入らないにせよ、  読まれ、語られる物語は何らかの形で、結末を迎えなければなりません。 そして、語られた物語に、愛着を持てば持つほど、  その物語に出てきた人々の、その後のことが気になり、 「一体、この後どうなったのだろうか」と 「物語のその後」を想像することでしょう。 今日の聖書箇所は、いわば「物語のその後」です。 洪水の後、ノアとその家族はどうなったのだろうかという、 読者である私たちが抱く好奇心に、著者が応えているかのようです。 しかし、一読して抱く感想は、「正直、こんな話は求めていない」でしょう。  ノアは、天幕の中で、ぶどう酒を飲んで酔っぱらい、裸になる。 そして、酔いからさめると、 ノアは、自分の裸を見た息子の家系を呪ってしまうのですから。 これが本当に、「神に従う無垢な人」「義人」と呼ばれた あのノアの姿なのか、と疑ってしまいたくなります。 そのため、ノアの「物語のその後」は好んで語られません。

説教#91:「神の約束を信じて生きる」

『神の約束を信じて生きる 』 聖書  創世記 9:1-17、コロサイの信徒への手紙 3:1-4 日時 2015年 11月 1日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【神の恵みにより、祝福を受ける】 ノアの時代に、世界を襲った洪水の水は引いていきました。 そのため、箱舟に乗ったものたち、ノアとその家族と動物たちは、 箱舟を降りることができました。  彼らが箱舟から降りたその後、 神はノアとその息子たちを祝福して、このように言われました。  「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)  この言葉がこのタイミングで語られたことには、大きな意味がありました。  神はこれと同じ祝福の言葉を、この世界を造られた時に語られました。 神は、人間だけでなく、この世界全体に、 そう、神が造られたすべてのものに向かって、 「産めよ、増えよ」と、この世界の創造のはじめに祝福されたのです。 しかし、その後引き起こされた洪水によって、 すべての地上の生き物は、ことごとく滅ぼされてしまいました。 それはまさに、神の語った「産めよ、増えよ」という祝福を 否定しているかのような出来事でした。 このような悲惨な結果をもたらした洪水の原因は、人間の側にありました。 人間の悪が地上に増し加わっていったため、神は心を痛めながら、 洪水によって人間を裁く決断をされたと聖書は証言しています。 しかしそれにも関わらず、神は、 お造りになったすべてのものを完全に滅ぼすことはされませんでした。 神は、ノアとその家族を箱舟に乗せ、彼らを洪水から救われたのです。 また、洪水によってもたらされた水で、 この世界を覆ったままにすることはされず、 神は水を引いてくださいました。 そして、洪水の後、神は再び祝福を与えられたのです。 「産めよ、増えよ、地に満ちよ」(創世記9:1)  この祝福の言葉から、洪水後の新しい時代が幕を開けました。 ただ、一方的に神から与えられるという形で、洪水後の時代は始まったのです。

説教#90:「我らは礼拝の民」

『我らは礼拝の民 』 聖書  創世記8:6-22、ローマの信徒への手紙12:1-2 日時 2015年 10月 25日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【外の状況を把握できない箱舟に乗った人々】 ノアが生きた時代、大洪水に襲われた世界は、水で覆われていました。 その水の上を、ノアとその家族、動物たちを乗せた箱舟は、 長い間漂っていました。 聖書の記述を見る限り、それはおよそ1年間にも及ぶ長い日々でした。 箱舟に乗ったものたちにとって、箱舟に乗った1年間はとても長く、 いつ降りることが出来るかもわからない、 永遠に続くような時間だったことでしょう。 彼らは、世界を覆う水が引いていき、 再び、乾いた大地が現れる日を、ひたすら待ち続けたのです。 天からの雨が降り止んだ150日後、山々の頂きが現れ始めました。 その40日後、ノアは窓を開き、外の様子を伺おうとしました。 箱舟は、怒涛のように押し寄せてくる水から、身を守るために作られたため、 窓を多く作ることも、大きく作ることも出来なかったことでしょう。 そのため、箱舟についている窓から、 外の様子を完全に把握することは出来ず、 知りうることは限られていました。 ですから、ノアは外の様子を知るために、鳥を用いたのです。 コンパスのない時代、船乗りたちにとって、 鳥を連れて行くことは、なくてはならない航海上の慣習だったようです。 鳥を放ち、その鳥が飛んでいく方向によって、 彼らは陸地の方角を見定めることが出来たそうです。 ノアは、古代の船乗りたちの慣習と同じことをしているのだと思います。 乾いた大地はあるのか。 そして、その乾いた大地は何処にあるのかを正しく見定めるために、 自分が置かれている状況を知るために、ノアは鳥を放ったのです。

説教#89:「神は心に留めた」

『神は心に留めた 』 聖書  創世記7:17-8:5、ヨハネによる福音書14:15-18 日時 2015年 10月 18日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【洪水の脅威】 ノアの時代に、神はこの地上に洪水をもたらしました。 その当時に引き起こされた洪水のもつ脅威を、著者は物語っています。 雨は40日40夜、地上に絶えず降り注ぎ、 みるみるうちに、水が地上を覆っていきました。 その水は、次第に増していき、すべての山を覆いました。 そして、すべてのものは洪水によって拭い去られました。 それは徹底的な死と破壊の出来事でした。 著者は、7:21-23で、地上で生きていた生きものがすべて、 この洪水によって息絶えたと記しています。 地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。(創世記7:21-23) 著者は、言葉を言い換えることによって、 3度も、洪水によってすべての生きものが死んだことを伝えています。 それほどまでにこの洪水は脅威的なものであり、 恐るべきものであったと著者は強調しているのです。

説教#88:「神の配慮」

『神の配慮 』 聖書  創世記7:1-16、ルカによる福音書12:6-7 日時 2015年 10月 4日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【箱舟に乗り込む】 「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。」(創世記7:1) 「箱舟を作りなさい」(創世記6:14)と神から命じられたノアが、 この箱舟に乗り込む日が、ついにやってきました。 その日、箱舟に乗ったのは、ノアとその妻、彼らの3人の子どもたちと、 それぞれの妻たちの合計8人と、多くの動物たちでした。 箱舟に乗った動物たちに注目してみると、 とても不思議な命令を神がしていることに気づきます。 神はこのように言われました。 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。(創世記7:2) 興味深いことに、神は動物について、 「清い」動物と「清くない」動物という分類をしています。 そして、その上で、「清い」動物も「清くない」動物も、 箱舟に乗せなさいと言われたのです。 神がここで語る「清い」「清くない」という言葉は、祭儀上の分類です。 つまり、神に礼拝を捧げる上で、必要となってくる、 動物の分類がここでなされているのです。 生け贄として、神に捧げることのできる「清い」動物なのか、 神に捧げることのできない「清くない」動物なのか。 神に礼拝を捧げる人間が食べたり、 触れたりすることのできる「清い」動物なのか、 それとも、食べたり、触れたりしてはいけない動物なのかといった分類です。 重要なのは、それぞれの動物が「清い」か「清いくない」のかを 人間の側が決めたわけではないことです。 「清い」「清くない」ということを定めたのは、神であり、 どちらの動物も、箱舟に乗せるようにと言われたのも、神です。 そのため、神に命じられたとおり、ノアは「清い」動物たちも、 「清くない」動物たちも、箱舟へと乗せたのです。 「清い」「清くない」ということに目を向けるときに思い起こしたいのは、 神は、造られたすべてのものを「良い」と言われたことです。 その意味で、「清い」「清くない」という分類を、 「良い」「悪い」と同じように考えてはいけ

説教#87:「神と共に歩む」

『神と共に歩む 』 聖書  創世記6:9-22、ヘブライ人への手紙11:7 日時 2015年 9月 27日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【見よ、地は堕落している】 神にとって、この世界は喜びでした。 この世界のすべてのものは神によって造られ、 神によって生命を与えられました。 造られたすべてのものは、お互いに良い影響を与え合い、 お互いに支え合って生きていました。 ですから、神は造られたすべてのものを見つめて言われたのです。 見よ、それは極めて良かった。(創世記1:31) しかし、6章では、それとは全く正反対のことが記されています。 見よ、それ(地)は堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。 (創世記6:12) 極めて良いものとして造られたこの世界が、今や、 堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいました。 ここで「堕落する」と訳されている言葉は、 道徳的な堕落ではなく、大地や町などの破壊や滅亡を表すため、 「破壊する」と訳した方が良いでしょう。 見よ、それ(地)は破壊され(堕落し)、すべて肉なる者はこの地で破壊(堕落)の道を歩んでいた。 (創世記6:12) このように訳してみると、 神が「極めて良い」ものとして造られたこの世界を、 人間が破壊しているという現実を、神が見つめたということがわかります。 喜び、愛すべきものとして造られたこの世界を、 神が愛してやまない人間たちが破壊している。 この現実に、神は心を痛め、悲しまれたのです(創世記6:6)。 愛する人間が神に背き、徐々に徐々に、悪い方向に向かっていく。 神よりも自分を愛し、自分中心に生きる人間の姿。 共に生きる人々と愛し合うよりは、争い合い、傷つけ合い、利用し合う。 そのようなこの世界の現実を見つめることは、 神にとって、心が引き裂かれるような痛みを伴うことでした。 そのような中、神にとっての慰めは、神に従う人がいたということです。 しかし、神に従って生きようとする人は、 ほんの一握りの人々にすぎませんでした。 多くの人々は、神の前に堕落の道を歩んでいたのです。

説教#:86「傷付き、葛藤する神」

『傷付き、葛藤する神 』 聖書  創世記6:1-8、ローマの信徒への手紙8:18-23 日時 2015年 9月 20日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【「神の子ら」の結婚】 創世記6章は、とても不思議な物語から始まります。 そこには、神の子らが人間の娘たちを好き好んで選び、自分の妻にしたこと。 そして、その行いを見た神が、人間に向かって 「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。 人は肉にすぎないのだから」(創世記6:3)といって、 人間の寿命を定めたことが記されています。 1-4節に記されているこの物語は、歴史上多くの解釈者たちを悩ませてきた、 聖書の中で解釈がとても難しい箇所のうちのひとつです。 この箇所を読むときに抱く一番の疑問は、 「神の子」たちとは一体だれなのか、ということでしょう。 古代世界において、「神の子」という言葉を聞いたとき、 人々がまずはじめに連想したのは、王のことです。 古代世界において、王は「神の子」と呼ばれてきたからです。 3節を見てみると、「神の子」たちと呼ばれる王たちの行ないを見て、 人間が永遠に生きないようにと、神が人間の寿命を定めたという、 神の裁きの言葉が記されています。 そのため、1-4節の物語では、 この世の王たちの行いが批判されているのです。 では、王たちのどのような行ないに対して、批判がなされているのでしょうか。 2節には、このように記されています。 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。(創世記6:2) この箇所は、創世記3章に記されている、 神が「食べてはいけない」と言われた善悪の知識の実を食べてしまった、 エデンの園でのアダムとエバの姿を思い起こさせる記述となっています。 日本語の訳ではわかりにくいのですが、 ヘブライ語で見ると、この箇所と3:6に記されている、 善悪

説教#85:「ただひとつの慰め」

『ただひとつの慰め 』 聖書 創世記5:11-32、 ローマの信徒への手紙14:7-9 日時 2015年 9月 13日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【「アダムの系図の書」を読む】 私たちが聖書を読むとき、 そのつまずきの原因のひとつとなるのが、「系図」の存在でしょう。 初めて聞くような名前が連なり、読んでいて正直わけがわからなくなります。 一体この系図が、この場所におさめられていることに、 どのような意味があるのでしょうか? 創世記5章の系図を読む際に、注目すべきなのは、 この系図の記述にパターンを見出すことができることです。 6-8節のアダムの子セトについての記述を見てみましょう。 そこにはこのように記されています。 セトは105歳になったとき、エノシュをもうけた。セトは、エノシュが生まれた後107年生きて、息子や娘をもうけた。セトは912年生き、そして死んだ。(創世記5:6-8) セトの記述と他の人々の記述を比べてみるとき、 この系図において、名前と年齢以外の言葉が、 ひとつの型として繰り返されていることに気付くでしょう。 そして、このパターンに当てはまらない人物が、 この系図の中に4人いることを発見できます。 それは、アダム、エノク、レメク、そしてノアの4人です。 この4人に注目する時、創世記5章に記されている 「アダムの系図の書」が創世記に収められた理由が明らかになります。

説教#84:「愛と赦しが響き合う共同体」

『愛と赦しが響き合う共同体 』 聖書 創世記4:13-26、マタイによる福音書18:21-22 日時 2015年 9月 6日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【神の御心から外れていく人間の姿】 創世記の著者は、カインによる弟アベルの殺害という悲しい事件を記した後、 カインとその子孫たちの系図を記しています。 カインの系図を記す際に、創世記の著者が注目したのは、 アダムから数えて七代目にあたるレメクという人物でした。 聖書は多くのことを語っていないため、 私たちは、レメクについて、十分な情報を得ることはできません。 私たちに知ることが許されているのは、 レメクの家族の構成と、彼が残したひとつの歌です。 レメクの家族については、19~22節に記されています。 そこからわかることは、彼にはアダとツィラという2人の妻がいること、 そして、ヤバル、ユバル、トバル・カインという3人の息子たちと、 ナアマという娘がいることです。 見過ごしてはいけないのは、レメクに2人の妻がいることです。 創世記はここまで、一人の男性と一人の女性が結婚するという、 婚姻関係が保たれてきたことを報告してきました。 ここで突如として訪れるのが、婚姻関係の乱れです。 レメクが2人の女性を妻にしていることについて、 創世記は直接は、良いとも、悪いとも評価していません。 しかし、創世記2章にはこのように記されていました。 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記2:24) この言葉を、レメクの結婚に照らして考えるならば、 彼の結婚は、神が喜ばれるものでなかったのは明らかでしょう。 レメクに2人の妻がいたと報告することを通して、 神が望み、神が喜ばれる姿から、 人間が少しずつ、少しずつ、逸れていく現実が描かれているのです。

説教#83:「誠実に愛し合う交わり」

『 誠実に愛し合う交わり 』 聖書 創世記4:1-16、Ⅰヨハネ3:11-18 日時 2015年 8月 30日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【カインの捧げ物とアベルの捧げ物】 エデンの園を追放されたアダムとエバの間に、 2人の子どもが与えられました。 その子どもたちの名前は、カインとアベル。 創世記4章は、この兄弟たちの間に起こった悲しい事件を記しています。 兄のアベルは、土を耕す者として働き始めました。 そして、弟のアベルは、羊を飼って生活をしていました。 ある日、このふたりの兄弟は、神のもとへ行き、捧げ物を捧げました。 その時の様子が、3〜5節に記されています。 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。(創世記4:3−5) 神に捧げ物を捧げた結果、弟アベルの捧げ物は神の目に留まり、 兄カインの捧げ物は神の目に留まりませんでした。 なぜ神は、アベルの捧げ物を目に留め、 カインの捧げ物には目に留めなかったのでしょうか。 アベルは最も良いものを神に捧げたのに対して、 カインは最も良いものを捧げることを惜しんだからでしょうか。 それとも、カインの心の問題なのでしょうか。 とても気になるところですが、 カインの捧げ物に神が目を留めなかった理由について、 創世記の著者は沈黙しています。 著者が注目したのは、 神に捧げ物を受け入れられなかったカインが、 一体どのような反応をしたのか、ということにありました。

説教#82:「神は道を開かれる」

『 神は道を開かれる 』 聖書  創世記3:22-24、ヨハネの黙示録22:1−5 日時 2015年 8月 23日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【喜びの園エデン】 神はかつて、人間のためにエデンという名の園を造られたと、 創世記は証言しています。 エデンから、一つの川が流れ出ていました。 その川は園を潤し、世界中を潤していました。 園の中に目を移すと、そこには神に造られた様々な生き物がいました。 また、そこには見るからに好ましく、 食べるに良いものをもたらすあらゆる木が、神によって置かれていました。 そして園の中央には、命の木と善悪の知識の木という、二本の木がありました。 神は人間を連れてきて、このような園に住まわせました。 彼はそこで、神によって与えられたパートナーと共に生活をしました。 人間はこの園で、神と語り合い、豊かな交わりをもつように、 また、この大地を管理するようにと招かれたのです。 ヘブライ語の「エデン」という単語には、「喜び」という意味があります。 エデンの園とは、まさにその名の通り、 神が造られたこの世界のすべてのものに対する喜びと、 人間を含む他の被造物たちや、神との交わりから得る 喜びが豊かに溢れる場所でした。 聖書の記述を通して、エデンの園を思い描けば思い描くほど、 そこには喜びが溢れていたのだと実感します。 しかしある日、その喜びは園から奪い去られます。 神は、エデンの園から人間を追放する決断をしなければなりませんでした。 その原因は、神の側ではなく、人間の側にあったと聖書は証言しています。

説教#81:「それでも神は探し求める」

『 それでも神は探し求める 』 聖書  創世記3:1-21、ローマの信徒への手紙6:23 日時 2015年 8月 16日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【探しまわる神と、神を避けて隠れる人間】 ある日、風の吹くころ、 神の造られたエデンの園において、神の声が静かに響き渡りました。 主なる神は、人に呼びかけて言われました。 「どこにいるのか」(創世記3:9) 神は園の中を歩き回り、人を探していました。 共に交わりをもつ存在として、神によって造られた人間を求めて、 神は園の中を探して、歩きまわっておられたのです。 しかし、神が求めた人間は、探しまわる神の足音や、 彼らに呼びかける神の声を聴いたとき、 どうしたことか、彼らは神を避けて、園にある木々の間に隠れたのです。 人間は本来、神と交わりを持つ存在として造られました。 そのため、このような行動はとても不自然なものでした。 彼らに一体何があったのでしょうか?

説教#80:「助け手と共に生きる」

『 助け手と共に生きる 』 聖書  創世記2:18-25、エフェソの信徒への手紙5:21-33 日時 2015年 8月 9日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【「彼に合う助ける者を造ろう」】 「極めて良い」(創世記1:31)。 神はこの世界を造られたとき、このように宣言されました。 それは、神が造られたこの世界全体が「良い」ということ。 そして何より、神に造られた個々の存在すべてが「良い」 という宣言に他なりません。 ですから、神は、私たち人間に対しても宣言されたのです。 「あなたは極めて良い」と。 しかし、創世記2章を読むとき、「極めて良い」と宣言された方が、 人間に対して「良くない」と語られたことに気づきます。 神はこのように言われました。 人が独りでいるのは良くない。(創世記2:18) 人間は、神と交わりをもつ存在として人間を造られました。 その意味で人間とは、交わりを求めて生きる存在です。 そのため、神は人間が、孤独のうちに生きることを望みませんでした。 それは人間にとって「良い」状態ではないからです。 しかし、人間にとって、共に生きる対等な関係をもつ存在がいなかった ということが、問題でした。 もちろん人間は、神と交わりを持つことが出来ました。 しかし、神との間に完全に対等な関係を築くことはできません。 神と人間。 造り主と被造物。 この間には越えることのできない壁があるからです。 そのため、神はひとつの決断をされました。 彼に合う助ける者を造ろう。(創世記2:18) ここで語られている「彼に合う助ける者」とは、 「彼に向き合う者としての助け」という意味の言葉です。 それは、人間がお互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、 お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、 対等な関係を築くことのできる他者のことです。 私たち人間には、そのような存在が必要だと、神は確信し、 「助ける者」を造られたのです。

説教#79:「人間とは何者なのでしょうか?」

『 人間とは何者なのでしょうか? 』 聖書  創世記2:4b-17、ヨハネによる福音書20:19-23 日時 2015年 8月 2日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【詩編の詩人が覚えた驚き】 「この世界は、神によって造られた」と 高らかに宣言することから、創世記は始まりました。 神が造られたこの世界は、創世記1章が証言しているように、 実に素晴らしく、美しいもので溢れています。 聖書が語る証言を聞くだけでなく、 絶景といわれる風景を見たり、 夜、満天の星空を見上げたり、 この世界で共に暮らす、動植物たちを見つめることを通して、 私たちは、神が造られたこの世界の素晴らしさを実感することができます。 先ほど一緒に交読しました詩編8篇の詩人は、 この世界を造られた神の創造のわざを見つめたとき、 神を賛美せずにはいられませんでした。 詩人は、このようにうたいました。 あなたの天を、あなたの指の業を   わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは   人間は何ものなのでしょう。 人の子は何ものなのでしょう   あなたが顧みてくださるとは。(詩編8:4-5) 彼は、驚きと不思議を覚え、 「人間は何ものなのでしょう」と声を上げました。 神が造られた世界の素晴らしさに気付けば気付くほど、 自分の存在がいかに小さいことか実感します。 そして、そんな私たち人間を、神が心に留めてくださるという事実に、 詩人は驚きつつも、感謝と喜びを覚えてうたったのです。 「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう」(詩編8:5)と。 神がこの世界を「極めて良い」(創世記1:31)ものとして造られたのは、 神が人間を愛されたからです。 その事実を真剣に受け止めた時、 詩人の心にひとつの疑問が浮かんでたのでした。 「神がこれほどまでに愛される私たち人間という存在は、 一体何者なのだろうか」と。 この疑問は、詩人にとって喜びと感謝であると共に、

説教#78:「神は安息へと招かれる」

『 神は安息へと招かれる 』 聖書  創世記2:1-4a、マルコによる福音書3:1-6 日時 2015年 7月 19日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【目まぐるしい日々を過ごす私たち】 現代に生きる私たちは、とても目まぐるしい日々を過ごしています。 仕事に追われ、ノルマに苦しみ、 まるで働くために生きているかのようだと、錯覚してしまうほどです。 時間が足りないのでしょうか? 技術の発展により、生活は日を増すごとに便利になっており、 昔に比べて時間を節約できるようになっているはずです。 それにも関わらず、「時間が余って仕方がない」 と考えている人は少数派のはずです。 「時は金なり」という言葉があるように、 私たちは時間をとても大切なものとして考え、 出来る限り時間を、最大限に有効に使いたいと願っています。 しかし、そう願えば願うほど、様々な日常の事柄に、 私たちは追われる毎日を過ごすことになります。

説教#77:「神が極めて良いと言われたのだから」

『 神が極めて良いと言われたのだから 』 聖書  創世記1:26-31、マルコによる福音書7:14-23 日時 2015年 7月 12日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【多くの言葉に囲まれて生きている私たち】 毎日のように、様々な言葉が、私たちに向かって語られています。 友人や家族の言葉。 それは口から語られる言葉だけでなく、 メールや書き置きなどで、文字によって伝えられたり、 態度や仕草を通して伝えられたりします。 また、テレビから流れる声、書籍、新聞やインターネットなどを通して、 様々な言葉が、情報として雪崩れ込んできます。 街へと出て行くと、そこでは人々の話し声や選挙演説などが聞こえ、 たくさんの広告が目につきます。 このように、周囲にある様々な言葉に耳を傾けてみると、 私たちは、実に多くの言葉に囲まれて生きていることに気付くでしょう。

説教#76:「主の招く声が聞こえてくる」

『 主の招く声が聞こえてくる 』 聖書  創世記1:3-31、ヘブライ人への手紙1:1-4 日時 2015年7月5日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【「神の言葉を聞く存在」としての招き】 創世記1章は、神の創造のわざを高らかに賛美しています。 そこには、神が6日間かけて、この世界を造られたことが記されています。 創世記1章は、この6日間の創造について語る際、 すべての日を、このような言葉から始めています。 神は言われた。(1:3, 6, 9, 14, 20, 24) 創世記1章の天地創造の物語は、 すべての日を「神が語られた」ことから始めています。 そして、「神が言われた」という言葉に続くのは、 「神が語りかけると、そのようになった」ということです。 このことが、創世記1章では繰り返し語られています。 神が「光あれ」と語り掛けると、光が存在するようになり、 「地は草を芽生えさせよ」と語り掛けると、草花が地に広がる。 また、「生き物が水の中に群がれ。鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」 と語ると、その通りになりました。 このような神の語り掛けによって、 それまで存在していなかったものが、存在するようになったのです。 まさに「神の言葉がすべてのものの存在の根拠である」と 創世記1章は宣言しています。 ということは、神によって造られたすべてのものは、 「神の言葉を聞く存在である」といえるでしょう。 私たち人間も同様に、神の言葉によって創造されました。 神から語り掛けられる存在として、私たちは造られたのです。 創世記1章は、「あなたは神の言葉を聞く存在である」と、私たちに語り掛け、 私たちを「神の言葉を聞き続ける歩み」へと招いているのです。

説教#75:「光が私たちのもとに」

『 光が私たちのもとに 』 聖書  創世記1:3-5、コリントの信徒への手紙二 4:1-6 日時 2015年6月28日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【祝福の宣言「光あれ」】 「光あれ」(創世記1:3)。 神はこう語ることから、この世界の創造を開始しました。 光は、旧約聖書において、生命や秩序を表すものとして描かれています。 2節によれば、この世界は、生命も秩序もない「混沌」とした場所でした。 そのような混沌であるこの世界に、 神は「光あれ」といって、光を与えられたのです。 それは、この世界に対する神の祝福の言葉でした。 「光あれ」と語ることを通して、秩序のないところに、秩序を与え、 生命のないところに、生命を与える「光」を、神は創造されたのです。 そうです。 この世界は、「光あれ」という神の祝福の宣言から始まったのです。 この世界の初めに、呪いではなく、祝福の言葉を神は語られたのです。

説教#74:「混沌ではなく、神の国の福音を担う」

『 混沌ではなく、神の国の福音を担う 』 聖書  創世記1:1-2、ヨハネによる福音書1:1-5 日時 2015年6月21日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【宣言「神が、天と地を造られた!」】 物事には、決まって「はじまり」があります。 私たちが誰かと出会う時、そこには、 これから築いていくであろう関係性の「はじまり」があります。 また、世の中の様々な組織には、「はじまり」がありますし、 音楽や物語といった様々な作品にも、「はじまり」があります。 そして、私たちが聖書を開き、その初めから読むとき、 聖書はその初めにおいて、 「はじまり」について語っていることに気付くでしょう。 それは、このような力強い宣言から始まりました。 初めに、神は天地を創造された。(創世記1:1) 新共同訳聖書の翻訳は、決して間違った訳というわけではありませんが、 この箇所は、新改訳聖書の方が良い訳だと思います。 初めに、神が天と地を創造した。(新改訳第三版より) このふたつの訳の間にある決定的な違いは、 新改訳聖書が「神は」ではなく「神が」と訳しているところにあります。 「〈神は〉天と地を創造された」という訳は、 一般的な事柄を説明しているような訳し方だといえるでしょう。 しかし、この箇所は、一般的な事柄を説明しているのではありません。 そうではなく、ここでは、この世界に対する強い宣言がなされているのです。 「初めに、〈神が〉天と地を創造した」と。 「天と地」という表現は、 宇宙全体を指す表現として、聖書では用いられています。 ですから、聖書は、「私たちが宇宙として認識している、 この世界のすべては、神が創造したのだ」 という力強い宣言をもって始まっているのです。 それは「この世界において、神によって創造されなかったものはない」 という主張でもあります。 「神がこの世界のすべてのものを造られたのだ」と。 神がこの世界を造られたということは、 偶然によって、今の世界があることや、 他の神々によってこの世界が造られたという考え

説教#73:「主よ、来てください!」

『 主よ、来てください! 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 16:21−24、ヨエル書4:18-21 日時 2015年6月14日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【パウロが自分の手で書き送る】 いよいよコリントの信徒への第一の手紙の終わりにたどり着きました。 ここでパウロは、自分の手で挨拶を記しています。 パウロは通常、口述筆記という形で手紙を書いています。 つまり、パウロが語った言葉を、他の人に書いてもらうという形で、 彼はこの手紙をこれまで書いてきました。 そんなパウロが、わざわざ最後に自分の手で挨拶を記したのには、 ふたつの理由があります。 ひとつは、これはまさしくパウロからの手紙であるという証拠として、です。 そして、自分の手で書く必要があるほどに、伝えたいことがあったというのが、 ふたつめの理由です。 では、パウロは一体何を伝えたかったのでしょうか。 彼は、22-24節でこのように述べています。 主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。主イエスの恵みが、あなたがたと共にあるように。わたしの愛が、キリスト・イエスにおいてあなたがた一同と共にあるように。(Ⅰコリ16:22-24)

説教#72:「互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う」

『 互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 16:15−20、創世記33:1-11 日時 2015年6月7日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【信仰者の模範を示す】 パウロは最後の挨拶をコリント教会に宛てて書いている中で、 5人の人物の名前を挙げています。 その5人とは、ステファナ、ファルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカです。 彼らは、コリント教会と、とても関係の深い人々でした。 パウロはここで、この5人を「信仰者の具体的な模範」として、 コリント教会の人々に示しています。 パウロが、具体的な信仰者の模範をコリント教会に示したのには、 当然わけがありました。 彼は、14節で「何事も愛をもって行いなさい」と語りました。 何事も、神の愛が行動の動機となるように、と。 しかし、この勧めだけでは不十分だと彼は考えたのです。 そのため、「愛を実際に行動に表したらどうなるのか」ということを、 パウロは具体的に示す必要を感じました。 しかし、パウロは、いつもコリント教会の人々と一緒にいるわけではないため、 彼自身が彼らのそばで生活をして、彼らの模範となることはできませんでした。 ですからパウロは、彼らの身近にいて、 彼らがよく知る人々を、信仰の模範として示したのです。 ステファナ、ファルトナト、アカイコ、そしてアキラとプリスカを通して、 パウロは、「何事も愛をもって行う」ということを、コリント教会に示したのです。

説教#71:「すべてが愛のうちに生じるならば」

『 すべてが愛のうちに生じるならば 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 16:13−14、レビ記19:17-18 日時 2015年5月31日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【「目を覚ましていなさい」】 パウロは、いよいよコリント教会へ宛てた第一の手紙を閉じようとしています。 手紙を閉じるにあたって、彼は5つの勧告をコリント教会に向けて語りました。 それはこのようなものでした。 目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい。(Ⅰコリ16:13-14) 1つ目の勧告として、 「(あなたがたは)目を覚ましていなさい」とパウロは語りました。 パウロの書いた他の手紙を読んでみると、 彼はいつも、イエス様が将来再び来るという文脈の中で、 「目を覚ましていなさい」と言っていることに気付きます。 ですから、「イエス様が再び来られる日を待ち望みなさい」という意味で、 パウロは「目を覚ましていなさい」と言っているのです。 彼はイエス様がすぐに来ると信じていました。 いつかはわからないけども、 近い将来、自分が生きている間にイエス様は再び来ると。 ですから、この言葉を通して、 パウロはコリント教会の人々に緊張感を与えているといえるでしょう。 イエス様がすぐに来るのだから、目を覚ましていなさい、と。 このパウロの言葉は、15章で彼が語った「死者の復活」が深く関わっています。 15章でパウロがコリント教会の人々に伝えたのは、 イエス様が再び来られる時、神の恵みによって死者が復活するということです。 その意味で、イエス様が来られる日を待ち望むとは、 復活の希望をしっかりと握り締めて生きることだと言えます。 この復活の希望に相応しい生き方をして欲しいと願ったため、 パウロは「目を覚ましていなさい」とコリント教会の人々に向けて語ったのです。 あなたたちが与えられている希望に相応しく生きなさい。 「どうせ死んだらすべて終わりなのだから」と言って、 自暴自棄な生活を送るべきではない。

説教#70:「聖霊の風は今日も吹く」

『 聖霊の風は今日も吹く 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 16:1−12、イザヤ書61:1-4 日時 2015年5月24日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【聖霊の風が吹く】 今日私たちは、ペンテコステを祝う礼拝のときをもっています。 今から約2000年前、イエス様の弟子たちに聖霊が与えられました。 その時から彼らは主キリストの証人として生きるようになり、 全世界に福音が宣べ伝えられて、今日に至っています。 そして「その聖霊は今、私たちにも与えられている」と聖書は証言しています。 では、私たちに与えられている聖霊とは、どのような方なのでしょうか。 旧約聖書で「霊」と訳されるヘブライ語「ルーアハ」は「風」という意味があります。 風は、突然吹きます。 何者にも束縛されず、自由に風は吹き荒れます。 また、風は、目に見えず、説明がつかず、逆らうことのできないものです。 その意味で、聖霊の特徴のひとつは、「自由」といえるでしょう。 自由をひとつの特徴としてもつ聖霊が、私たちに与えられ、 私たちの人生に風を起こし、私たちの歩みを導いておられるのです。