説教#65:「神の国を待ち望む」

神の国を待ち望む
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:20-28、イザヤ書65:17-25
日時 2015年4月19日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【変化を切望するとき】
私たちは、生きていく中で、変化を求める時があります。
もちろん、悪い変化ではなく、良い変化です。
辛く、苦しい状況がずっと続いているときは、
そこから抜け出すという変化を求めます。
それは試験勉強であったり、友達付き合いであったり、
仕事や家庭で起こったトラブルであったりします。
困難に直面した時、試練にあう時、
そして、自分の力ではどうしようもできない状況に陥る時、
状況が少しでも良くなってほしいと願い、私たちは変化を求めます。
今が、とても苦しいからです。


【世界は劇的に変化した!】
今日の箇所でパウロは、世界は劇的に変化したと、読者に伝えています。
イエス・キリストが死者の中から復活する前と、それ以後では、
世界のあり方は全く違うのだ、と。
目に見える形で、その変化を実感することはできません。
しかし、劇的に変化した世界で、私たちは生きているのだ、とパウロは伝えているのです。
パウロはこのように語っています。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。(Ⅰコリ15:20-22)
その変化とは、「キリストによってすべての人が生かされることになる」という変化です。
ここで「生かされることになる」と訳されている言葉に注目してみましょう。
ここで使われているギリシア語は、「ゾーオポイエオー」という単語です。
「生命を与える」という意味があります。
この単語は、「生きている」という意味の単語「ゾーオス」と、
「作る」という意味の単語「ポイエオー」が合成されてできた言葉です。
単純にこの単語を訳すならば、「いのちをつくる」です。
そう、つまり、この単語「ゾーポイエオー」は、
死んでいのちを失ったものに、いのちを与えて、生かすという意味を持っているのです。
この単語を、パウロはここで受動態の未来形で使っています。
ですから、22節の言葉は、
「キリストによって、神が、すべての人を生かされる日が必ず来る」
というパウロの確信に満ちた宣言なのです。
神は、この世界を造られた方です。
生命のないところに生命ある被造物を神はつくられました。
その神が、この世界を造られた神が、いのちを失った者たちに、
復活の生命を与えることができない、ということなどありえません。
「キリストによって、神が、すべての人を生かされる日が必ず来る」のです。
これは、私たちにとっての希望の言葉です。
私たちは誰もが必ず、死を迎えます。
しかし、キリストの復活を通して、私たちは確信することができます。
死は私たちにとって最終的な目的地とは違う、と。
キリストが復活したことにより、
すべての人は、神が定めたその日に、復活するという約束が与えられているのです。
死は最終的な勝利者ではありません。
そして、復活のいのちを受け取った私たちは、神の国へと迎え入れられるという約束が与えられているのです。
その意味で、劇的な変化が私たちには、既に与えられているのです。
世界は死や破滅へと向かうのではなく、
キリストの復活を通して、復活へ向かっているのです。
そして、キリストにあって、復活のいのちが私たちに与えられるのです。

【完成に向かって歩む】
しかし、この約束は既に完全な形で実現しているものではありません。
パウロは言います。
ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。(Ⅰコリ15:23-26)
この約束が完全に私たちのものとして与えられるまでには、
順序がある、とパウロは言っています。
順序があるということは、この約束が完成に至る日は必ず来るが、
今はまだその途上にあるということです。
キリストは死から復活することを通して、死に対して勝利しました。
しかし、私たちはまだ依然として死の支配下にあります。
死の支配は、イエス様が再びこの地上に来られる日まで続きます。
その日が来るのを待ち望むことは、
私たちにとって、とても長い時間がかかると感じます。
しかし、既にその変化は始まっているのだ、というのがパウロの主張です。
失望すべきではない、キリストが来られたのだから、と。
パウロは、この約束が完成を迎えるまでの順序のそのはじめに、キリストの名前を挙げています。
「最初に、キリスト」と。
そうです、イエス様が来たということは、約束が成就する日が必ずやって来るという証しなのです。
イエス様が来られるまで、復活の希望をもつことも、それを確信することもできませんでした。
しかし、今は、復活の希望を持つことができるのです。
約束が成就する日はまだ来ません。
しかし、イエス様が来られたことによって、その劇的な変化は既に始まっているのです。

【支配に苦しむ私たち】
このように、私たちは、死に対する勝利を約束されています。
死の支配から解放される日を、私たちは待ち望んでいるのです。
しかし、神は、死の支配からの解放のみを約束されたわけではありませんでした。
パウロは24節で、このように語っています。
次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。(Ⅰコリ15:24)
そうです。神は「すべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼされる」と約束されたのです。
それは、私たちを支配し、押さえつけ、苦しめるすべての支配や、権威、勢力です。
私たちは生きる限り、様々な形で支配を受けます。
自分の思い通りに動くようにと、私たちをコントロールしようとしてくる人々がいるからです。
国家、職場、家族、友人関係と、それは様々な領域に及びます。
人との関係だけではありません。
私たちは、自分自身が抱く感情にも支配されることがあります。
それは、怒りや憎しみ、妬みかもしれません。
不安や恐怖といった感情かもしれません。
このような感情は決して良いものではないことはわかっています。
しかし、このような感情に心が支配されるとき、そこから抜け出すのはとても難しいことです。
また、私たちは支配されるばかりではなく、
支配する側にも立つことがあることを忘れてはいけません。
経済的な搾取や暴力に加担することもあります。
人を自分の思い通りにコントロールしたいという思いをもつこともあります。
このようにして、私たちは支配する側にも、支配される側にも立つのです。
それが、お互いを苦しめているにもかかわらず、支配はやむことはありません。

【神の支配を待ち望む】
これらの支配は、キリストによって終わりを迎えるということを、
私たちは聖書の言葉を通して確信することができます。
しかし、その時は、未だ訪れていません。
だからこそ、私たちは主の祈りを通して、このように祈るのです。
御国が来ますように。御心が行われますように、  天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
これは私たちにとって、切実な祈りです。
御国とは、神の国のことです。
ギリシア語で国という言葉は、厳密に言うと、国家という意味ではありません。
それは、支配を指す言葉です。
ですから、神の国とは、神の支配のことなのです。
人の支配でも、悪による支配でも、死による支配でもなく、
神の支配こそが、私たちのもとにおとずれ、その領域を広げていきますように、という切実な祈りです。
イエス様は、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われました。
ですから、既に神の支配は私たちのもとにやって来ているのです。
私たちが福音を信じ、受け入れ、それに基づいて生きるとき、
神の支配は、私たちの内にあり、私たちの間にあり、
そして、私たちのまわりで広がっていくのです。
そのような方法で、神の国は既に私たちのもとに来ています。
しかし、それは決して完全な形ではありません。
ですから、神の支配が完全に私たちのもとにやってくる日を、私たちは待ち望み、祈るのです。
御国が来ますように。御心が行われますように、  天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
神の領域である天で、神の支配が完全な形でなされているように、
この地上においても、神の支配を完全な形でもたらしてください、と。

【神の国は私たちの間にある!】
このように、私たちは神の国の完成を待ち望みながら生きています。
今はまだ、神の国が完成に至るまでの道の途上です。
預言者イザヤは、神の国の完成を待ち望みつつ、
将来、神が私たちに与えられる神の国について、このような預言の言葉を語りました。
見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとしわたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。(イザヤ65:17-19)
神の支配が完全に私たちのもとに訪れる時、
泣く声、叫ぶ声は、再び響くことがないのです。
そこには、喜びと楽しみがあるのです。
今、私たちは、その喜びと楽しみをキリストを通して、既に与えられています。
復活の希望と確信。
それによって喜びと楽しみを受け取っているのです。
しかし、喜びと楽しみを既に与えられている私たちの側が、
この喜びや楽しみを他の人々に分かち合うのではなく、
支配者となって、喜びや楽しみを奪い、
泣く声、叫ぶ声を、この世界に響かせることが時にあります。
支配を神に明け渡すことは、私たちが神から常に与えられているチャレンジです。
人を愛することもそうです。
プライドや憎しみなどがこの心を支配する時、私たちは人を愛せなくなります。
自らの権威を振りかざして生きるのではなく、
神の支配が私たち自身の心に行き渡るように願いましょう。
神の支配は、私たちの間に既に来ているのですから。
神の国が、私たちを通して、少しずつ少しずつ広がっていき、
最終的に、完成に至る日を待ち望みつつ、
今週も、神に遣わされて出て行きましょう。

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