説教#63:「最も大切なことをあなたがたに」

最も大切なことをあなたがたに
聖書 コリントの信徒への手紙 第一 15:1-11、イザヤ書53:8-10
日時 2015年4月5日(日) 礼拝
場所 日本ナザレン教団・小岩教会

【何を大切なこととして生きているのか?】
私たちは、何を「大切なこと」として生きているでしょうか?
家族の絆。
愛情深くあること。
挨拶をすること。
人に誠実であること、など。
きっと、人それぞれ色々な答えが返ってくるでしょうが、
誰もが、何らかのものを「大切なこと」として生活していることでしょう。
私たちが考える大切なことが、他の人から大切にされないとき、
私たちは失望や危機感、不快感といった感情を覚えることがあります。
しかし、私たちは常に正しいとは限りません。
常に「大切にすべきこと」を大切に出来ているとも限りません。
たとえば、愛情深くあることは、すべての人にとって共通の大切なことでしょう。
しかし、私たちは、打算的に、自己中心的に生きることが多くあります。
思い違いによって、間違えることもあれば、
自ら進んで、大切なことを大切にしないこともあります。
「大切なこと」。
それは、教会やクリスチャンにとってもあります。
では、教会にとって「最も大切なことは何か?」と問われたら、
一体何と答えるべきなのでしょうか?
パウロは、コリントの教会に送った手紙の15章で、この問いに答えているのです。
教会にとって、そして、クリスチャンにとって、最も大切なことについて、
彼は力強く語っているのです。

【最も大切なことである「福音」を伝えるパウロ】
パウロは言います。
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(1コリ15:1-3a)
彼が、最も大切なこととして、コリントの教会に伝えたこと。
それは、「福音」です。
この福音こそ、キリストを信じる者たちが、生活の拠り所としているものであり、
最も大切なことであると、パウロは述べています。
パウロは、その福音を「もう一度知らせます」とコリント教会の人々に言っていますが、
なぜ再び語らなければいけなかったのでしょうか?
もちろん、大切なことは何度も何度も確認するだけの価値があります。
少しズレが生じたら、軌道修正をするという具合に。
しかし、コリントの教会にとって、事情は違っていました。
というのは、コリント教会の人々は、生活の拠り所とすべき福音をまるで忘れているかのように振舞っていたからです。
そこには、性的不道徳や法的な争い、そして主の晩餐の悪用がありました。
それは、「信じたこと自体が、無駄になってしまう」とパウロが警告しなければならないほどのものだったようです。
ですから、パウロはコリント教会の人々に切実に願ったのです。
「最も大切なことを、最も大切なこととして受け止めて生活して欲しい」と。

【福音~最も大切な3つのこと】
では、パウロが最も大切なこととして伝えている、この福音とは、一体どのようなものなのでしょうか。
3節以下に注目してみると、パウロは、福音について3つのことを述べています。
それは、「キリストが私たちの罪のために死んで、葬られたこと」、
「キリストが3日目に復活したこと」、
そして、「復活の主キリストが、多くの人々の前に現れたこと」です。
この3つの大切なことは、パウロの思いつきでは決してありません。
というのは、彼は、当時のクリスチャンたちが用いた信仰告白を引用する形で、
福音について説明をしているからです。
そのため、福音は、パウロ自身が他の使徒たちから伝えられ、受け取ったものです。
そして、福音は最も大切なこととして、かつてコリント教会に伝えられたものなのです。

【主イエスの十字架上での死と、葬り】
では、なぜこれら3つのことが、最も大切なことなのでしょうか?
なぜ「キリストが私たちの罪のために死んで、葬られたこと」が大切なことなのでしょうか。
それは、イエス様の十字架上での死が、私たちの救いに関わっているからです。
イエス様が、私たちに罪の赦しを得させるために、十字架に架かり死なれたことを、私たちは信じています。
罪。
それは、神の御心から遠く離れた生き方です。
私たち人間は、神によって造られました。
そう、神と交わりをもって生きるように造られたのです。
その本来のあり方を拒絶する生き方を、神を拒絶する生き方を、聖書は罪と呼びます。
イエス様は、私たちが抱えるこの罪を赦し、
私たちを本来あるべき姿へと回復させるため、
十字架に架かり、死んで、葬られたのです。
私たちは、イエス様の十字架上での死によって、罪を赦され、
神の子と呼ばれる者とされたのです。
もちろん、コリント教会の人々はそのことを知っていたことでしょう。
しかし、彼らはこの最も大切なことを、ただ知識として知っているだけでした。
自分のものとして心でしっかりと受け止めて、
行いにも、言葉にも、思いにおいても、福音に基づいて生きることを彼らはしなかったのです。
コリント教会の中には、争いがありました。
神に罪赦されたものが、人を赦すことが出来ない、という現実です。
最も大切なことである福音を、最も大切にしない生き方が、
コリントの教会の中で蔓延していたのです。
パウロは、その報告を聞いたとき、決して諦めることはしませんでした。
神の赦しの下に、教会がひとつとなる。
様々な違いをキリストにあって乗り越えることができると、
パウロは確信していたからこそ、この手紙をコリントの教会へ送ったのです。

【主イエスの復活】
さて、パウロは主イエスの復活も、最も大切なこととして述べています。
なぜイエス様の復活が重要なのでしょうか。
それは、イエス様の復活がなければ、十字架は罪への敗北となってしまうからです。
神は、イエス様を死者の中から復活させることによって、
死と罪への勝利を宣言されたのです。
そして、私たちはキリストの復活を通して、確信するのです。
死は最終的な勝利者ではない、ということを。
私たちにとって、死が最終的なゴールではなく、
その先に、復活と永遠のいのちがあるということを。
神の恵みによって、それらのものが与えられているということを。
パウロは、この確信をこの手紙の15章で力強く宣言しているのです。
これこそ、福音。
すべての人々にとっての良き知らせである、と。

【復活の主が共にいてくださるという恵み】
さて、パウロが最も「大切なこと」と述べた、これら3つのことはすべて大切なことです。
しかし、彼はここで明らかに3点目を強調しています。
「確かに、復活の主イエスは私たちの前に現れたのだ」と。
5-8節を見てみましょう。
ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。(1コリ15:5-8)
ここでパウロは、必要以上に多くの人の名前を挙げています。
それは、パウロがこの手紙を読む全ての人々に伝えたかったからです。
復活の主イエスは、信じるすべての者、あなたがたの前に現れ、共にいてくださる、と。
事実、私たちは、主キリストと出会い、彼を信じています。
聖書の語り掛けと祈りを通して、
礼拝を通して、
教会での兄弟姉妹との交わりを通して。
復活の主イエスは、信じるすべての者に現れ、共にいてくださる。
これは、私たちの確信です。

【福音に堅く立つ】
パウロが最も大切なこととしてコリントの教会に伝えたことは、
私たちにとっても、最も大切なことです。
これこそ、神が私たちに与えてくださった福音の本質なのですから。
時代を越えても、国を越えても、民族が違っても、言葉が違っても、
この福音の本質は決して変わることがありません。
しかし、この3つのことを大切にし続けることは、決して簡単なことではありません。
コリントの教会の人々にとってもそうでした。
確かに、彼らは神の前に集い、共に礼拝をしていました。
しかし、そこには分裂がありました。
自分はパウロ派だ、アポロ派だといって、教会の中にいくつかのグループが出来ていました。
彼らは、大切なことを忘れるほどに、他の問題ばかりに目が向いていたのです。
福音を受け取っていないかのように生きるならば、
「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまう」とパウロは強く言っています。
ここで無駄になってしまうと訳されている言葉は、
「成り行きに任せる」という意味をもった言葉です。
成り行きに任せる。
それは、自分自身を支える根っこがない、形だけの信仰になってしまっている状態です。
ですから、信じたことが無駄になってしまわないよう、
パウロはこの福音に堅く立つようにと励ますのです。
動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。(1コリ15:58)
【互いに励まし合いながら歩む】
さて、私たち、教会にとって最も大切なこととは何でしょうか。
そう、それは神が私たちに与えてくださった福音に他なりません。
「キリストが私たちの罪のために死んで、葬られたこと」、
「キリストが3日目に復活したこと」、
そして、「復活の主キリストが、多くの人々の前に現れたこと」です。
これらのことを最も大切なこととし続けることは、私たちにとっても決して簡単なことではありません。
私たちは、福音から引き離そうになることが、数多くあります。
それは困難や、苦しみを経験する時かもしれません。
この世での成功に目が眩んでいる時かもしれません。
憎しみや、妬みといった感情を、隣人に抱く時かもしれません。
最も大切なことを大切にするのは、決して簡単なことではないのです。
しかし、私たちは、たった一人で、自分の力のみで、神を信じているわけではないということを思い出しましょう。
ここに、共に神を見上げる交わりがあるのです。
教会という、最も大切なことを大切にしようと励む信仰者の群が、ここにあるのです。
ですから、最も大切なことを大切にし続けることができるように、
互いに励まし合いながら、私たちは日々歩み続けていきましょう。
キリストを死から引き上げ、復活させてくださった神が、
私たちの歩みを導いてくださるという確信をもって。

このブログの人気の投稿

Macじゃないよ、アルバムだよ

説教#162:「子ロバでありたい」