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説教#83:「誠実に愛し合う交わり」

『 誠実に愛し合う交わり 』 聖書 創世記4:1-16、Ⅰヨハネ3:11-18 日時 2015年 8月 30日(日) 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【カインの捧げ物とアベルの捧げ物】 エデンの園を追放されたアダムとエバの間に、 2人の子どもが与えられました。 その子どもたちの名前は、カインとアベル。 創世記4章は、この兄弟たちの間に起こった悲しい事件を記しています。 兄のアベルは、土を耕す者として働き始めました。 そして、弟のアベルは、羊を飼って生活をしていました。 ある日、このふたりの兄弟は、神のもとへ行き、捧げ物を捧げました。 その時の様子が、3〜5節に記されています。 時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。(創世記4:3−5) 神に捧げ物を捧げた結果、弟アベルの捧げ物は神の目に留まり、 兄カインの捧げ物は神の目に留まりませんでした。 なぜ神は、アベルの捧げ物を目に留め、 カインの捧げ物には目に留めなかったのでしょうか。 アベルは最も良いものを神に捧げたのに対して、 カインは最も良いものを捧げることを惜しんだからでしょうか。 それとも、カインの心の問題なのでしょうか。 とても気になるところですが、 カインの捧げ物に神が目を留めなかった理由について、 創世記の著者は沈黙しています。 著者が注目したのは、 神に捧げ物を受け入れられなかったカインが、 一体どのような反応をしたのか、ということにありました。

説教#82:「神は道を開かれる」

『 神は道を開かれる 』 聖書  創世記3:22-24、ヨハネの黙示録22:1−5 日時 2015年 8月 23日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【喜びの園エデン】 神はかつて、人間のためにエデンという名の園を造られたと、 創世記は証言しています。 エデンから、一つの川が流れ出ていました。 その川は園を潤し、世界中を潤していました。 園の中に目を移すと、そこには神に造られた様々な生き物がいました。 また、そこには見るからに好ましく、 食べるに良いものをもたらすあらゆる木が、神によって置かれていました。 そして園の中央には、命の木と善悪の知識の木という、二本の木がありました。 神は人間を連れてきて、このような園に住まわせました。 彼はそこで、神によって与えられたパートナーと共に生活をしました。 人間はこの園で、神と語り合い、豊かな交わりをもつように、 また、この大地を管理するようにと招かれたのです。 ヘブライ語の「エデン」という単語には、「喜び」という意味があります。 エデンの園とは、まさにその名の通り、 神が造られたこの世界のすべてのものに対する喜びと、 人間を含む他の被造物たちや、神との交わりから得る 喜びが豊かに溢れる場所でした。 聖書の記述を通して、エデンの園を思い描けば思い描くほど、 そこには喜びが溢れていたのだと実感します。 しかしある日、その喜びは園から奪い去られます。 神は、エデンの園から人間を追放する決断をしなければなりませんでした。 その原因は、神の側ではなく、人間の側にあったと聖書は証言しています。

説教#81:「それでも神は探し求める」

『 それでも神は探し求める 』 聖書  創世記3:1-21、ローマの信徒への手紙6:23 日時 2015年 8月 16日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【探しまわる神と、神を避けて隠れる人間】 ある日、風の吹くころ、 神の造られたエデンの園において、神の声が静かに響き渡りました。 主なる神は、人に呼びかけて言われました。 「どこにいるのか」(創世記3:9) 神は園の中を歩き回り、人を探していました。 共に交わりをもつ存在として、神によって造られた人間を求めて、 神は園の中を探して、歩きまわっておられたのです。 しかし、神が求めた人間は、探しまわる神の足音や、 彼らに呼びかける神の声を聴いたとき、 どうしたことか、彼らは神を避けて、園にある木々の間に隠れたのです。 人間は本来、神と交わりを持つ存在として造られました。 そのため、このような行動はとても不自然なものでした。 彼らに一体何があったのでしょうか?

説教#80:「助け手と共に生きる」

『 助け手と共に生きる 』 聖書  創世記2:18-25、エフェソの信徒への手紙5:21-33 日時 2015年 8月 9日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【「彼に合う助ける者を造ろう」】 「極めて良い」(創世記1:31)。 神はこの世界を造られたとき、このように宣言されました。 それは、神が造られたこの世界全体が「良い」ということ。 そして何より、神に造られた個々の存在すべてが「良い」 という宣言に他なりません。 ですから、神は、私たち人間に対しても宣言されたのです。 「あなたは極めて良い」と。 しかし、創世記2章を読むとき、「極めて良い」と宣言された方が、 人間に対して「良くない」と語られたことに気づきます。 神はこのように言われました。 人が独りでいるのは良くない。(創世記2:18) 人間は、神と交わりをもつ存在として人間を造られました。 その意味で人間とは、交わりを求めて生きる存在です。 そのため、神は人間が、孤独のうちに生きることを望みませんでした。 それは人間にとって「良い」状態ではないからです。 しかし、人間にとって、共に生きる対等な関係をもつ存在がいなかった ということが、問題でした。 もちろん人間は、神と交わりを持つことが出来ました。 しかし、神との間に完全に対等な関係を築くことはできません。 神と人間。 造り主と被造物。 この間には越えることのできない壁があるからです。 そのため、神はひとつの決断をされました。 彼に合う助ける者を造ろう。(創世記2:18) ここで語られている「彼に合う助ける者」とは、 「彼に向き合う者としての助け」という意味の言葉です。 それは、人間がお互いに向き合い、お互いの名前を呼び合い、 お互いに支え合い、そしてお互いに仕え合うという、 対等な関係を築くことのできる他者のことです。 私たち人間には、そのような存在が必要だと、神は確信し、 「助ける者」を造られたのです。

説教#79:「人間とは何者なのでしょうか?」

『 人間とは何者なのでしょうか? 』 聖書  創世記2:4b-17、ヨハネによる福音書20:19-23 日時 2015年 8月 2日(日) 礼拝 場所 小岩教会( 日本ナザレン教団 ) 【詩編の詩人が覚えた驚き】 「この世界は、神によって造られた」と 高らかに宣言することから、創世記は始まりました。 神が造られたこの世界は、創世記1章が証言しているように、 実に素晴らしく、美しいもので溢れています。 聖書が語る証言を聞くだけでなく、 絶景といわれる風景を見たり、 夜、満天の星空を見上げたり、 この世界で共に暮らす、動植物たちを見つめることを通して、 私たちは、神が造られたこの世界の素晴らしさを実感することができます。 先ほど一緒に交読しました詩編8篇の詩人は、 この世界を造られた神の創造のわざを見つめたとき、 神を賛美せずにはいられませんでした。 詩人は、このようにうたいました。 あなたの天を、あなたの指の業を   わたしは仰ぎます。 月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは   人間は何ものなのでしょう。 人の子は何ものなのでしょう   あなたが顧みてくださるとは。(詩編8:4-5) 彼は、驚きと不思議を覚え、 「人間は何ものなのでしょう」と声を上げました。 神が造られた世界の素晴らしさに気付けば気付くほど、 自分の存在がいかに小さいことか実感します。 そして、そんな私たち人間を、神が心に留めてくださるという事実に、 詩人は驚きつつも、感謝と喜びを覚えてうたったのです。 「そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何ものなのでしょう」(詩編8:5)と。 神がこの世界を「極めて良い」(創世記1:31)ものとして造られたのは、 神が人間を愛されたからです。 その事実を真剣に受け止めた時、 詩人の心にひとつの疑問が浮かんでたのでした。 「神がこれほどまでに愛される私たち人間という存在は、 一体何者なのだろうか」と。 この疑問は、詩人にとって喜びと感謝であると共に、