しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年12月25日日曜日

説教#147:「居場所を与えるために来られた方」

「居場所を与えるために来られた方」 
聖書 ルカによる福音書2:1-20、申命記10:17-19
2016年 12月 25日 礼拝、小岩教会 

【泊まる場所が見つからないマリアとヨセフ】
皆さん、クリスマスおめでとうございます。
きょう私たちは、この礼拝を通して、 
私たちの救い主である、イエス・キリストがお生まれになったことを 
一緒にお祝いする時間を過ごしています。 
きょう一日、世界中のあらゆる教会で、 
イエス様の誕生が喜ばれ、お祝いされていることでしょう。 
そして、愛する家族や友人たち、また教会の人々と
一緒に楽しいひとときを過ごし、 美味しい食事を食べて、
プレゼントをお互いに交換し合う。 
そのように、日本だけでなく、世界中が喜びに包まれ、 
楽しく、明るい雰囲気になるのがクリスマスの日です。 
そうであるならば、私たちのこの喜びのきっかけとなった 
イエス・キリストの誕生は、さぞかし喜びに包まれ、 
華やかに、多くの人に祝われたのだろうと想像してしまいます。 
でも、どうやらそうではなかったと、 
先ほど朗読していただいた聖書の言葉は私たちに告げます。 
ルカはイエス様の誕生について、このように書いています。 

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7)

イエス様の両親であるヨセフとマリアは、 
当時の皇帝の勅令に従って、住民登録をするために、 
ユダヤ地方にあるベツレヘムの町を訪れていました。 
当時の人々は、旅に出た際、 
行った先々の地に住む親戚や知人を探し出して、
その人の家に泊めてもらったそうです。
7節で「宿屋」と訳されている言葉は、
商業的な宿泊場所ではなく、個人の家の客間を意味しています。
ですから、ヨセフとマリアも、当時の人々の習慣に従い、
一晩泊めてもらえないかと親戚や知り合いの家を尋ね歩いたことがわかります。
しかし、ベツレヘムの町は、自分たちと同じように、 
住民登録をするためにやって来た人々で溢れていました。
恐らく、そのためでしょうが、ふたりがどの家を尋ねても、
家の客間には既に先客がいるため、
彼らを宿泊場所として受け入れてくれる家はありませんでした。
もちろん、宿屋に泊まるという選択肢もありましたが、 
当時の宿屋は、ならず者や強盗も泊まる場所でした。 
そのため、夫婦や子どもを連れて旅する人は、 
宿屋に泊まるのを避けていたようです。 
「個人の家の客間」を意味する言葉を7節で使っていることから、 
ヨセフとマリアも宿屋に泊まることは避けていたことがわかります。
そのようなわけで、なかなか泊まるための場所を見つけることが出来ず、
彼らはベツレヘムの町を宿を探し求めて歩き回ったことが伺えます。
身重の女性には出来る限り、 
身体に負担をかけないようにしなければなりませんから、
ヨセフはマリアの身体のことを気遣って、 
焦りを覚えながら、泊まるための場所を探したことでしょう。 
親戚や知り合いを尋ねても、既に先客がいるために断られる。 
ダメ元で、見ず知らずの家を尋ねたでしょうが、
良い結果は得られませんでした。
そのように、なかなか泊まる場所が見つからない現状に、 
ヨセフもマリアも泣きたくなったかもしれません。 
その上、またひとつ問題が増えます。 
何と、マリアが産気づいたというのです。 
早く泊まる場所を見つけなければとますます焦るばかりです。
ルカは、とても短い報告で留めていますが、 
想像力を働かせて、このときの状況について思い巡らしてみると、 
ヨセフとマリアの置かれた状況が、 
とても深刻な状況であったことがわかります。 

2016年12月18日日曜日

説教#146:「マリアと共に歌え」

「マリアと共に歌え」 
聖書 ルカによる福音書 1:46-56、サムエル記 上 2:1-10
2016年 12月 18日 礼拝、小岩教会

【私たちは歌う】 
皆さんはどのようなときに歌を歌うでしょうか。 
もちろん個人差はあるでしょうが、 
私たちは様々なときに歌を口ずさみます。 
単調な作業を続けているときは、 
その場を華やかに、また楽しくするために、 
口笛を吹いたり、鼻歌を歌ったりします。
子育て中の方は、子どもと一緒に遊んだり、 
子どもをあやしたりするために歌います。
「いろは歌」や「アルファベットの歌」など、 
歌を用いて、必要な知識や教養を身につけることは、 
恐らく多くの人たちが経験してきたことでしょう。 
また、単純に歌うことが好きだから歌う人もいれば、
ストレスを発散する目的で、大声で歌う人もあるでしょう。 
このように、私たちは生活の様々な場面で歌を歌ってきましたし、 
きっとこれからも歌い続けます。 
楽しいときも、悲しいときにも、 
嬉しいにも、苦しいときも、
その時、その瞬間の自分の気持ちに寄り添ってくれる歌を 
私たちは選び、歌を口ずさみます。 

2016年12月11日日曜日

説教#145:「そして、世界は喜び躍る」

「そして、世界は喜び躍る」
聖書 ルカによる福音書 1:39−45、イザヤ書 61:10−11
2016年 12月 11日 礼拝、小岩教会

【マリア、エリサベトのもとへ挨拶へ行く】
「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)と天使から告げられた、
イエス・キリストの母となるマリア。
彼女はその後、親戚のエリサベトに会うために、旅に出たそうです。
マリアが住んでいたナザレから、
エリサベトのいるユダまで、およそ150kmあります。
当時の移動手段は徒歩ですので、
移動のために3,4日は必要です。
決して近くはないこの道のりを旅することを、
どうやらマリアは「急いで」(ルカ1:39)決断したそうです。
マリアをこのような行動へと駆り立てたのは、神ご自身でした。
神は、ご自分が遣わした天使を通して、
マリアが男の子を産むことを伝えた後、このように語りました。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。(ルカ1:36−37) 
「不妊の女」と呼ばれていたエリサベトが、
お腹に子を宿してから、もう6ヶ月になる。
この事実は、「神に出来ないことは何一つない」ことを、
マリアに確信させるものでした。
それと同時に、子どもを身ごもるはずがないのに、身ごもるという、
あり得ない出来事が起こったエリサベトは、
自分と近い境遇にあるとマリアは感じたのでしょう。
だから、是非とも、早い内にエリサベトに会いたい。
そのような願いが、自分の内側から沸き起こり、
その思いに促されて、マリアはエリサベトのもとへ行く決意をしました。
この物語の語り手のルカも、エリサベトのもとへと急ぐマリアに引っ張られ、
どこか急ぎ足で話を進めているようにも感じます。
旅のための身支度や、マリアの旅の様子など全く描くことなく、
物語は一気にエリサベトの暮らす家へと移ります。

2016年12月4日日曜日

説教#144:「神に出来ること、出来ないこと」

「神に出来ること、出来ないこと」
聖書 ルカによる福音書 1:26-38、創世記 18:9-15
2016年 12月 4日 礼拝、小岩教会

【サラとマリア】
きょうは、ふたつの物語を一緒に朗読して頂きました。
このふたつの物語には、
同じような状況に立たされている女性の姿が描かれています。
ひとりの女性の名前は、サラ。
彼女は、神によって遣わされた人を通して、
神が自分の夫のアブラハムに告げた言葉を聞きました。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(創世記18:10)
この話をこっそりと聞いていたサラは、ひそかに笑いました(創世記18:12)。
というのも、彼女はこの時すでに89歳でした。
常識的に考えれば、89歳の女性に子どもが生まれるはずありません。
では、もう一人の女性はどのような人物だったのでしょうか。
ルカによる福音書に登場した女性の名前は、マリア。
彼女のもとにある日、ガブリエルという名の天使がやって来て、
その天使は彼女にこのように告げました。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33)
この天使の言葉に、マリアは戸惑い、恐れを抱きました。
そして、反論します。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。」(ルカ1:34)
彼女がこのように戸惑い、反論する理由はとてもよく理解できます。
というのも、彼女は婚約期間中ではありましたが、
男性と性交渉をした経験などなかったのですから。
彼女が、子どもを身ごもるわけなどありません。
そんなのあり得ない話なのです。

2016年11月27日日曜日

説教#143:「おめでとう、恵まれた方」

「おめでとう、恵まれた方」
聖書 ルカによる福音書 1:26-34、創世記 18:9-10
2016年 11月 27日 礼拝、小岩教会 

【天使ガブリエルの挨拶】 
ある日、神がガブリエルという名の天使を、ナザレという田舎の村にいる
ひとりの女性のもとに遣わしたことから、きょうの物語は始まります。
マリアという名の女性のもとに天使ガブリエルは現れて、
このように言いました。 

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28)

「おめでとう」と訳されている言葉は、
「喜び」という意味をもつギリシア語が使われています。
ただ、この言葉はごく普通の挨拶の言葉で、
出会ったときにも、別れるときにも用いられるものでした。
そして、「主があなたと共におられる」という表現も、
当時のユダヤの人たちにとっては慣用的な挨拶です。
ですから、ギリシア語聖書を読むと、
天使ガブリエルはマリアに単に挨拶をしただけのようにも受け取れます。
しかし、突然、自分のもとに現れた天使が語り始めたこの言葉を、
マリアは単なる挨拶とは受け取ることが出来ませんでした。
まさにこれらの挨拶が本来持っていた意味として、
彼女はこれらの言葉を受け取ったのです。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカ1:28)

突然、神の使いから祝福の言葉を告げられたのですから、それは当然驚きます。
ですから、「マリアはこの言葉に戸惑い、考え込」んでしまいました。
「いったいこの挨拶は何のことか」(ルカ1:29)と。

【「おめでとう」とは決して言えない状況に立つマリア】 
「なぜ神は天使を遣わして、自分に祝福の言葉を語るのだろうか」と、
マリアが考え込んでいると、天使ガブリエルは
神から預かったメッセージを彼女に告げました。

あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(ルカ1:31)

婚約期間中であるマリアは、ガブリエルの語ったこの言葉を聞いた後、
「わたしは男の人を知りません」(ルカ1:34)と答えました。
彼女はどう考えても子どもを身ごもるわけがないのです。
いや、それどころか、ガブリエルの語った言葉通りに
彼女が身ごもるならば、婚約者のヨセフや周囲の人々から
「マリアは他の男性と関係をもったのではないか?」と、
あらぬ疑いをかけられることは目に見えています。
それは、「おめでとう」と祝福されるどころか、とても迷惑な話です。
そのため、マリアはガブリエルにこのように語りました。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)

ガブリエルの言葉を聞いたマリアは、あれやこれやと、
天使が語る言葉を受け入れられない理由や、
受け入れるための条件を考えたことでしょう。
婚約者であるヨセフと結婚して、1年くらい経つ頃であれば、
この天使が語る言葉を快く受け入れることが出来るだろう。
そのように、自分にとって身ごもることが自然な時期、自然な状況ならば、
心から喜んで「おめでとう」という言葉を受け入れられるだろう、という具合に。
このような自分の思い描く、都合の良い条件にピッタリと合うならば、
彼女は「どうして、そのようなことがありえましょうか」などとは言わずに、
ガブリエルの語った言葉を素直に受け入れたと思います。
しかし、現実は全くと言っていいほど違っていました。
彼女は不自然で、その上、面倒な状況に置かれてしまったのです。
婚約期間ではあったが、結婚前の時期に子を宿す。
そして、男性と関係を持っているわけでもないのに身ごもる。
これが天使ガブリエルがマリアに告げて、
マリアのその身に実際に起こった出来事です。
マリアが立たされたのは、
「おめでとう」などとは決して言えない状況でした。

【神の恵みは既に注がれている】
そのため、マリアは当然不安な思いや恐れを抱えたことだと思います。
自分の身に起こることや、ヨセフや周囲の人々との関係など、
不安な要素はたくさんあります。
だからこそ、神はガブリエルを通して語り掛けたのです。
「マリア、恐れることはない」(ルカ1:30)と。
そして、恵みが既に与えられているという現実に、
目を向けるようにと促すのです。
「あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1:30)と。
この言葉を直訳すると、「あなたは神のもとで恵みを見出した」となります。
つまり、「あなたがどのような存在であるか関係なしに、
あなたは神の目から見れば、神の恵みを受けている現実に生かされている」と、
マリアは告げられているのです。
それは、マリアが「恵まれた方」と呼ばれていることから明らかです。
ここで「恵まれた方」と訳されているギリシア語に注目すると、
時制が現在完了の形を取っていることがわかります。 
現在完了ということを意識して「恵まれた方」を訳し直すと、
「神から恵みを既に与えられていて、今も受け続けている者」となります。
つまり、マリアは、主イエス誕生の告知を受ける以前から、
神からの恵みが既に与えられている
「恵まれた者」であると宣言されているのです。
そのため、マリアが神から受けている恵みとは、
神に生命を与えられ、日々必要な糧を与えられていること。
そして、御言葉を語り掛けられ、
神によって日々の歩みを導かれていることといえるでしょう。
そうであるならば、神はマリアと同じように、私たちに対しても、 
「おめでとう、恵まれた方」と語り掛けてくださっています。
それは、神が私たちに既に恵みを与えてくださっているという
神の恵みに溢れる現実に、私たちが生かされているからです。
神の恵みは、すべての人に絶えず与えられています。
私たちに生命を与え、私たちに日々必要な糧を与え、
私たちの人生を導くことを通して、
神はその恵みを私たちにいつも与え続けてくださっています。
そして、神の恵みの究極の現れとして、
神はご自分の独り子であるイエス様を与えてくださいました。
イエス様を通して、私たちに罪の赦しと復活の希望、
そして永遠の生命を与えてくださいました。
それゆえに、私たちは既に神の恵みを受けていて、
今もその恵みを受け続けている「恵まれた者」なのです。

【苦難の中を歩む】
しかし、「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけられているにも関わらず、
私たちは決して「おめでとう」とは言えない状況に置かれることがあります。
仕事や勉強で疲れて、毎日クタクタになって家に帰ってくる。
争いやトラブルに巻き込まれることもある。
なぜかわからないけども、涙がこみ上げてくることだってある。
「おめでとう」と宣言させない現実は、
私たちの周りに様々な形で広がっています。
マリアだって、神の恵みが既に与えられている現実に気付かされたとしても、
相変わらず恐れや不安は彼女に伴いました。
その上、彼女はイエス様の母親として生きたわけですから、
自分の息子であるイエス様の生涯の終わりに起こった出来事を通して、
その後、大きな悲しみを経験しました。
イエス様は奇跡を行い、病人を癒やし、悪霊を追い払い、
教えを語ることを通して、人びとからの尊敬を受けた一方で、
最終的には、イエス様は人々から非難され、
ムチを打たれ、その両手と足に釘を打たれ、
苦しみながら十字架の上で死んでいきました。
そのような姿を見つめたマリアにとって、
イエス様の母として生きるということは、喜ばしいこととは、
決して手放しでは言えなかったと思います。
しかし、このような出来事が起こることを知った上で、
神はマリアに「おめでとう、恵まれた方」と語り、
イエス様の母として生きるようにと招いたのです。
私たちは、一体それをどのように理解すれば良いのでしょうか……。
それはきっと、神の恵みを与えられて生きている私たちは、
神の御手に導かれて、苦難の中を歩まされることがあるということなのでしょう。
では、なぜ神は、「おめでとう」とは手放しでは言えない場所へと
私たちを連れて行くのでしょうか。
それは、神がそのような場所を放っておけないからだと思います。
私たちを祈りへと導くために、
また、私たちを用いて、必要な手を差し伸べるために、
神は私たちが決して手放しでは喜べない場所へと、私たちを導かれます。
もちろん、私たちがそこで経験する苦しみや悲しみの一つ一つを見て、
神は「おめでとう」とは決して言いません。
共に悲しみ、泣いてくださいます。
しかし、神は最終的に、私たちを恵みのうちに取り扱ってくださいます。
私たちが予測不可能なことも、私たちが嘆き苦しむこともすべて、
恵みと憐れみに満ちている神の御手のうちにあるのですから。
それが、マリアを通して、私たちに明らかにされている希望です。
確かに、彼女はイエス様の母として生きる苦しみを経験しました。
しかし、すべての人の希望とつながる出来事が、
イエス様を通して起こったということを知ったとき、
彼女は慰めを受け、神の恵みを見出したのだと思います。
神の恵みが溢れているとは決して思えない現実や、
「おめでとう」とは言えない出来事は数多くあります。
しかし、恵み深い神の御手の内にあって、
その一つ一つは必ず正しく取り扱われていきます。
私たちが経験する苦難は、私たちから神の恵みを
完全に奪い去ることなど決して出来ません。
ですから、神が私たちに向かってその御手を伸ばし、
私たちの現実に恵みと憐れみに満ちた救いを与えてくださることを、
私たちは心から信頼して、神に向かって祈ることが出来るのです。
たとえ「おめでとう」とは言えない状況に置かれたとしても、
それでも、神が伸ばされる救いの御手を求めて祈ることが出来るのは、
神が私たちに与えてくださった大きな恵みだと言えるでしょう。

【神の恵みは決して変わらない】
ですから、私たちは、さきほど一緒に交読した詩編27篇を歌った
詩人と共に、希望を抱いてこう告白するのです。
「主はわたしの光、わたしの救い」(詩編27:1)と。
実は、この詩編27篇という詩編は、
信頼の歌の後に、嘆きの祈りがなされるという構造を持っています。
それは私たちの信仰の現実をよく表していると思います。
私たちは神に信頼をしているからこそ、
神の前で嘆き、悲しむことが出来るのです。
手放しでは喜べない、決して「おめでとう」とは言えない状況の中で、
神の救いの御手が伸ばされることを信じて、
「主よ、わたしの光、わたしの救い」と叫ぶ。
これこそ、私たち信仰者の現実なのだと思います。
私たちがそのように告白し、祈り続けることが出来るのは、
神の恵みが決して変わることがないからです。
天使ガブリエルを通して、神がマリアに告げたように、
神は私たち一人一人に「おめでとう、恵まれた方」と宣言されています。
現実を見つめると、決して「おめでとう」とは言えない現実が
私たちの周りに広がっているかもしれません。
しかし、神はあなたがたに恵みを与えてくださっています。
これこそ、私たちが拠って立つべきところです。
この変わらない神の恵みが、すべての人に注がれているという
喜びのメッセージは、私たち一人ひとりに委ねられています。
ですから、この喜びの知らせを携えて出て行こうではありませんか。
「おめでとう」という声が聞こえない場所に、
「おめでとう、恵まれた方」と告げ知らせる者へと
私たちは神から任命されているのですから。
主キリストにあって、既に実現している恵みの現実を、
この世界に告げ知らせようではありませんか。
さぁ、主キリストの恵み、神の愛、聖霊の親しき交わりを携えて出て行きなさい。

2016年11月20日日曜日

説教#142:「人生の土台は何ですか?」

「人生の土台は何ですか?」
聖書 マタイによる福音書7:24-29、イザヤ書54:9-13
2016年 11月 20日 礼拝、小岩教会 

【私たちの土台は簡単に崩れ去る】
「あなたの人生の土台は何でしょうか。
何を日々の喜びとし、生きる糧としているでしょうか。」
もしもこのように問い掛けられたならば、
改めて自分自身の土台が何なのかを確認することだと思います。
何を人生の土台としているかは、きっと人それぞれ違うと思います。
家族や友人たちから、毎日たくさんの支えや助けを受けながら、
私たちは日々の生活を送っています。
毎日生きていくのに必要な分のお金や食べ物も必要ですし、
少し余裕があれば、ちょっとくらい贅沢をする。
それは生活の中で味わえるひとつの喜びともいえるでしょう。
また、社会的な地位が与えられているから、 
自分の役割を見出し、相応しく働くことが出来るのだと思います。
そんな今の自分たちの生活のあり方を見つめると、
自分という存在は様々なものに支えられていて、
自分を支える大切なものが土台となっていることに気付かされます。
そんな大切な土台の上に、私たちは毎日の生活を通じて、
知識や財産、人間関係など、様々なものを積み重ねているのです。
だからこそ、私たちが日々積み重ねてきたものが、
その土台から崩れ去っていくことは、
すべての人にとってあってはならないことですし、
何とかして避けなければいけないことと言えるでしょう。 
しかしそれにも関わらず、私たちが積み上げてきたものが、
あまりにも脆く崩れ去り、
土台から根こそぎ奪い去られる出来事が時として起こります。
阪神・淡路大震災や、まだ記憶にも新しいであろう東日本大震災など、
自然の脅威は、私たちが当たり前に思っていた生活を、
簡単に押し流し、私たちの土台を揺り動かします。
また、2011年9月11日起こった、アメリカでの同時多発テロ以来、
世界はテロリズムの脅威に怯えています。 
人間の悪に晒されるとき、
私たちがこれまで当然と考えていたことは、
あまりにも簡単にも揺り動かされ、土台は崩れ、
そして失われてしまうのだということを世界中の人々が痛感しました。

2016年11月13日日曜日

説教#141:「主の御名によってなすべきこと」

「主の御名によってなすべきこと」
聖書 マタイによる福音書 7:21-23、出エジプト記20:7
2016年 11月 13日 礼拝、小岩教会

【神の御心を行え】 
「誰が天の国に入ることが出来るのだろうか」。
このような議論が私たちの間でなされるために、
イエス様はきょうの言葉を語ったわけではありません。 
そうではなく、イエス様の言葉を聞いた私たち一人ひとりが、 
私たちの天の父である、神の御心を行う者となるようにと願って、
イエス様はこのような厳しい言葉を語られたのです。 
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、
天の国に入るわけではない。 
わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」 (マタイ7:21)と。
では、天の父である神の御心を行なうとは、どのようなことなのでしょうか。 
それは、神の言葉を聞いて、その言葉に従って行動することです。
「山上の説教」と呼ばれている、マタイによる福音書の5−7章の
この文脈で読むならば、イエス様が語った言葉のひとつひとつを
真剣に受け止めて、行動することだと言えるでしょう。
イエス様が語られる神の言葉を聞いて、感謝しているだけでは、
生きた信仰とは言えません。
新約聖書の時代、使徒ヤコブはこのような言葉を教会の人々に書き送りました。
行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。(ヤコブ2:17)
イエス様の言葉を聞いて、それを行なうときにこそ、
信仰者は信仰者らしく生きることが出来ます。
ですから、イエス様は「わたしの天の父の御心を行う者だけが
(天の御国に)入るのである」と言って、
イエス様が人々に語った一つ一つの言葉を思い起こし、
それらの言葉を真剣に受け止めて生きるようにと促されたのです。
この言葉をもう少し広く捉えるならば、「聖書に立ち帰り続けなさい」
というメッセージとして受け止めることが出来るでしょう。

2016年11月6日日曜日

説教#140:「良い実が豊かに結ばれる日」

「良い実が豊かに結ばれる日」
聖書 マタイによる福音書7:15-20、創世記5:1-5
2016年 11月 6日 礼拝、小岩教会

【偽預言者を警戒しなさい】
イエス様は人々に警告をすることから、きょうの言葉を語り始めています。
偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。(マタイ7:15)
旧約聖書の時代から、偽りの預言を語る人々は何度も現れています。
たとえば、預言者エレミヤの時代に現れた偽預言者たちは、平和がないのに、
「平和、平和」と語り(エレミヤ6:14)、人々を惑わしました。
イエス様はそのような人々が、これからあなた方の交わりの中にも
現れるだろうから注意するようにと促しておられるのです。
実際、イエス様が天に昇られた後、初期の教会の中では、
何度も偽預言者と呼ばれる人々が出てきたようです。
それを見据えていたため、イエス様は人々に警告したのでしょう。
「偽預言者を警戒しなさい」(マタイ7:15)と。
そのように人々を惑わす偽預言者たちの見分け方について、
イエス様は15-16節でこのように語りました。
彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。(マタイ7:15-16)
偽預言者と呼ばれる人々は、外見や語る言葉から判断するなら、
同じ信仰をもち、神に養われる羊のひとりのように思えました。
しかし実際のところは、内面は神に背いている、
「貪欲な狼である」と、イエス様は指摘します。
でも、その外見は自分たちと同じように、
羊の皮を身にまとっている者であるため、
誰が偽預言者なのかを判断することは難しいことでした。

2016年10月30日日曜日

説教#139:「命に通じる門を目指せ」

「命に通じる門を目指せ」 
聖書 マタイによる福音書7:13-14、エレミヤ書21:8-10
2016年10月30日 礼拝、小岩教会 

【門をくぐり、道を歩む】 
私たちの人生は、何かを選び取ることの連続です。 
きょうの夕飯は何を食べようか。 
勉強をしようか、それとも遊ぼうか。 
などというような、日常的に繰り返している軽い選択もあれば、 
進路のことや、どこで誰と暮らすかなど、 
人生を左右するような重要な選択もあるでしょう。 
イエス様はきょう、私たちの前に、 
「狭い門」と「広い門」という、ふたつの選択肢を示しておられます。 
ふたつの選択肢を示されたイエス様は、好きな方を選びなさいとは言わず、
「狭い門から入りなさい」と勧められました。 
イエス様によれば、狭い門こそ、命に通じる門だからです。 
ところでイエス様は、門について語るのと同時に、 
道について語りました。 
「滅びに通じる門は広く、その道も広々として」いる。 
しかし「命に通じる門は狭く、その道も細い」というように。 
それでは、門と道は、どちらが先にあるものなのでしょうか。 
門が最初にあって、その後に、道が続いているのでしょうか。 
それとも、道が続いていて、最後に門があるのでしょうか。 
想像してみると、門も道も、
どちらも先にある可能性があると言えるでしょう。 
「狭い門から入りなさい」という言葉からは、
最初に門をくぐる印象を受けます。 
門とは、ある領域に入るためのものです。
町の門をくぐれば、人々の生活の領域である町の中に入ることが出来ますし、
神殿の門をくぐれば、神を礼拝する聖なる領域へと入ることを実感できます。
つまり、狭い門から入るならば、命の領域に入り、
その後、命に通じる道を歩んでいくことができるという意味で、
イエス様の言葉を読むことが出来るでしょう。
それは、キリスト者の存在のあり方の一つの側面をよく表していると思います。
神を信じ、イエス様に従って歩む者とされた者は、洗礼を受けます。
それは、神と共に歩む道が、
その人の人生のうちに開かれていくための門のようなものです。
洗礼を通して門をくぐるとき、神と共に歩むことができるのですから、
その道には命が溢れているのです。

2016年10月23日日曜日

説教#138:「天からの贈り物」

「天からの贈り物」
聖書 マタイによる福音書7:7-12、サムエル記 下 12:13-23
2016年 10月 23日 礼拝、小岩教会

【希望と期待と同時に、失望を与える言葉】
きょうのイエス様の言葉は、聖書に記されている数ある言葉の中で、
多くの人々に期待と希望を与えてきたのと同時に、
失望を与えてきた言葉でもあると思います。 
イエス様はこのように語られました。 
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(マタイ7:7-8) 
私たちは、この言葉に希望を抱いて、神に祈り続けてきました。 
また、求め続けてきましたし、探し続けてきました。
そして、神が天の門を開いて、私たちに祝福を与えてくださると、
信じて、門をたたき続けてきました。
それなのに、一向に神は私たちの祈りに応えてくださらず、
神は私たちの祈りに沈黙しているように感じることがあります。
また時には、全く望んでいなかったものを与えられることもあるでしょう。 
そのようなとき、「求めなさい。そうすれば、与えられる」という
イエス様のこの言葉を前にして、私たちは神に裏切られたように感じます。
いや、自分の祈りが不完全だったのか?
自分の信仰が弱く、浅かったのが問題だったのか? 
と、自分自身の信仰者としての姿勢を疑い出すこともあるでしょう。
喉から手が出るほど必要なものがあるときに、私たちに希望を与える一方で、
時には、このように失望を与えるこの言葉を、
私たちは一体どのように理解すれば良いのでしょうか。 

2016年10月9日日曜日

説教#137:「あなたのもとに返ってくるもの」

「あなたのもとに返ってくるもの」
聖書 マタイによる福音書7:1-6、イザヤ書33:22、
2016年 10月 9日 礼拝、小岩教会

【「人を裁くな」と主は言われる】 
自分の語った言葉が、ブーメランのように自分にそのまま返ってくる。 
きっと、そのような経験は誰にでもあると思います。 
誰かの過ちを指摘したとしても、実は、
自分も同じ過ちを犯していることさえあります。
また、他人の欠点に気づき、それを指摘したとき、 
それが自分の欠点であることだってあります。 
もしも私たちが誰かのミスや弱さといったものに対して、
強烈な批判や攻撃をするならば、
その言葉が自分のもとに返ってきたときに、
私たちが受ける痛みは相当なものです。 
このように、自分の語った言葉がブーメランのように
自分のもとに返ってくることは、よくわかっているのに、
私たちは、人の弱さにつけこんだり、欠点や足りない部分、過ちなどを、 
必要以上に指摘し、傷つけることを、なかなかやめられずにいます。 
だから、イエス様は私たちにこのように語りかけられたのです。 
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。(マタイ7:1)
ここでイエス様が語っていることは、裁判における法的な裁きではありません。
イエス様は、私たちが日常的に周囲の人々に対して行なう裁きに対して、
「人を裁いてはいけない」と命じているのです。
イエス様がこのような命令を私たちに語るのは、当然のことだと言えます。
というのも、私たちは、目の前にいる人のすべてを知ることが出来ないのに、
気に入らないことや欠点などを見つければ、指摘したり、
影で裁いたり、ときには直接、攻撃的に批判したりもします。
その上、そのように人を裁く一方で、
私たちは人間は、すべての人を公平に裁くことなどできません。
先入観や感情の変化などで、その裁きの内容はころころと変わってしまいます。
いや、そもそも、他人を裁くことが出来るほど、
完璧で善い人間など一人もいません。
ですから、本来、私たちが人を裁いても良いという正当な理由などないのです。
だから、イエス様は「人を裁くな」と命じられるのです。

2016年10月2日日曜日

説教#136:「思い悩むときこそ、神を見よ」

「思い悩むときこそ、神を見よ」 
聖書 マタイによる福音書6:25-34、イザヤ書43:1-7
2016年 10月 2日 礼拝、小岩教会 

【「思い悩むな」と主イエスは言われる】 
私たちの日常に、悩みはつきものです。 
悩みなどなくなれば良いなと願っても、私たちはよく悩みます。 
今晩の夕飯は何を食べようかから始まり、 
明日から始まる仕事のことや人間関係のことで思い悩んだり、 
過去の失敗で後悔して、心が沈み込んだり、 
将来のことで不安になったりします。 
私たちが抱えるその悩みが大きければ大きいほど、 
心配事が増えれば増えるほど、悩みや心配事で心が一杯になってしまいます。
そうなってしまうと、そのことばかりが頭の中を絶えず駆け巡り、
他に何もできなくなり、夜も眠ることができなくなってしまうでしょう。
イエス様の生きた時代の人々も、現代に生きる私たちと同じように、 
様々な悩みを抱えていました。 
この時代、その日一日生きていくだけのお金を
手に入れるだけで精一杯の人々がほとんどでした。
ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと、 
人々はいつもいつも思い悩んでいたのでしょう。 
人間関係のトラブルに巻き込まれることもあれば、 
人に言えない悩みも、当然あったことでしょう。 
このように様々な悩みを抱える私たちひとりひとりに、 
イエス様は「思い悩むな」(マタイ6:25)と語り掛けられました。 
イエス様が私たちに「思い悩むな」と語り掛けることから始まった
イエス様のこの言葉は、慰めと励ましに満ちています。
ですから、この言葉は、世界中の多くの人びとから最も愛されている
聖書の言葉のひとつといえるでしょう。 
でも、注意深く読んでみると、この言葉を
素直に励ましの言葉として受け取るのは、少し難しいようにも思えてきます。
というのも、イエス様はここで
「あなたがたは思い悩む必要などありませんよ」と言っているのではなく、 
「あなたがたは思い悩むな」と命令しているのですから。 
でも、そんなこと言われたって、悩んでしまいますし、
悩みや心配事が全くなくなるわけでもありません。

2016年9月25日日曜日

説教#135:「まことの礼拝者であるために」

「まことの礼拝者であるために」 
聖書 マタイによる福音書6:24、列王記上18:30-40 
2016年 9月 25日 礼拝、小岩教会 

【初期の教会の人々は、誰のしもべとして生きていたか?】
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)。
初期のキリスト教会の人々にとって、 
このイエス様の言葉はとても衝撃的な言葉だったと思います。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」というイエス様の言葉は、 
特定の誰かを自分の主人にしているということが前提となっています。
それがなぜ衝撃的なことだったかというと、 
初期のキリスト教会の時代に奴隷制度は一般的なものであり、 
教会の中にも当然、奴隷の身分である人々もいたからです。
そのため、イエス様の言葉を聞いた人々は、改めて考えたと思うのです。 
「私の主人とは一体誰なのだろうか?」 
つまり、「私は一体誰のものなのだろうか?」と。 
古代世界において、人々は基本的にその家の家長である
父親の所有物であると考えられていました。
人権についての考え方が確立されている現代において、 
それは到底受け入れることのできないものですが、
当時の人々にとって「私は父親のもの」であることが常識でした。
また、当時、どの国にも王がいました。
王がいるということは、その国の人々は、王のしもべ、
つまり、王の所有物ということです。
ただ、イエス様の生きた時代や、初期の教会の時代に、
ユダヤの人々が置かれていた状況はもう少し複雑なものでした。
当時、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありました。 
ということは、「ローマ皇帝カイザルこそが、自分の主人である」
と告白することがすべての人々に求められていました。
そのような状況下で、イエス様を信じる人々は、
「イエスこそ主である」と信仰告白しました。
ですから、この信仰告白は、とても政治的な言葉だといえます。
「私は王のしもべではない。 
まして、ローマ皇帝のしもべでもない」と宣言しているのですから。
神と自分の主人である王やローマ皇帝の、
そのどちらかを選んで生きることは、とても難しいことでした。
もしも、自分の主人に「私の主人はあなたではありません。
わたしの主人はイエス様です」などと言えば、
痛い目にあうのは目に見えています。
ですから、黙って、キリストに従いつつ、自分の主人にも従う。
そうやって、ふたりの主人に従うことが、賢い生き方でした。
そんな生活をしているとき、イエス様の言葉が耳に届いたのです。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)。
それは、衝撃的な言葉でした。
そのため、「私の主人とは一体誰なのだろうか」
「私は一体誰のものなのか」と、
人々は改めて自分自身に問いかけることになったのでしょう。

2016年9月18日日曜日

説教#134:「憐れみの火を灯せ」

「憐れみの火を灯せ」 
聖書 マタイによる福音書6:22-23、箴言22:9 
2016年 9月 18日 礼拝、小岩教会 

【「体のともし火は目である」】 
「体のともし火は目である」(マタイ6:22)。 
何だか、わかるようで、よくわからない言葉です。 
これが「体の窓は目である」だったなら、理解することが出来るかと思います。 
目を通して、私たちは外の光の明るさを知り、 
体の窓である目から、外の光を取り込んで、体全体は明るくされるのだ、 
という諺として受け取ることが出来るでしょう。 
しかし、イエス様はそのようには表現されませんでした。 
イエス様は「体のともし火は目である」(マタイ6:22)と語られました。
一体どのような意味なのでしょうか。 
イエス様のこの言葉は、まるで、私たちの目そのものがともし火として、 
自分自身を光り照らして、からだ全体を明るくし、 
私たちの周囲に光を放っているものであるかのように、私たちの耳に響きます。 
イエス様が語っているとおり、「目」がともし火であるならば、 
私たちの目は、私たちの体全体を明るくもし、
暗くもするものだということです。
イエス様が言うように、「体のともし火は目である」ならば、 
目こそが、私たちの体全体を明るくも、また暗くもする、 
重大な鍵を握っているものだといえるでしょう。 

2016年9月11日日曜日

説教#133:「心の置き場所」

「心の置き場所」 
聖書 マタイによる福音書 6:19-21、申命記 8:1-10 
2016年 9月 11日 礼拝、小岩教会 

【所有することについて】 
「何かを所有することは、良いことだ」という価値観は、 
いつの時代も変わらずに、
私たち人間の考えを支配している考え方といえるでしょう。 
確かに、自分が必要だと思うもの、心から欲しいと思うものを手に入れると、 
私たちの心は満たされ、喜びが沸き起こります。 
しかし、私たちは喜びを覚えるその一方で、 
自分の心の中に、もう一つの感情があることに気付かされます。 
それは、「まだ他のものも欲しい、これだけでは足りない、
もっともっと必要だ」と願い求める、貪欲な心です。 
イエス様は、私たちが心で抱くそのような思いを感じ取られたのでしょう。 
そのため、イエス様は人々にこのように語り掛けました。 
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。(マタイ6:19) 
イエス様は、私たちの貪欲さに直接目を向けるのではなく、 
自分のために地上に富を積み続けることが、
私たちに悩みを起こさせることを指摘されました。
富とは、金貨と銀貨(ヤコブ5:3参照)
のことだけを指す言葉では、もちろんありません。 
当時の人々にとっての富とは、
贅沢な衣服(ヤコブ5:2)や、 食物の蓄え(ルカ12:16-21)、
また、高価な香料(マタイ2:11)などを意味していました。 
ここでは、虫食いについて語っているので、 
イエス様は高価な衣服を意識して語っているのでしょう。 
高価な衣服こそ、虫食いの被害に遭うのを何としても避けたいものです。 
ですから、イエス様の時代の人々は、 
高価な衣服が虫食いの被害に遭わないようにと、 
家の外に自分の服を干して、虫食いを防止しました。 
しかし、外に高価な衣服を干したら、当然人の目につきます。 
そのため、その高価な衣服は、多くの人々の目に留まり、
「あの家の人は、高価な衣服を持っているのだから、
たくさんの財産を持っているのだろう」と、
人々の間で噂になってしまいます。
その結果、その家にある財産は、
盗人たちに狙われてしまうことになるのです。
そうなってしまうと、大変です。
衣服の虫食いを心配するだけでなく、
家の中にある財産が盗まれて、奪われてしまうかもしれない
という心配までしなければならなくなってしまうのです。
何ということでしょうか!
このように、私たちが自分のために地上に富を積み続けると
どのような結果を及ぼすのかを、 
イエス様はこの短い言葉で、実に的確に表現されたのです。 

2016年9月4日日曜日

説教#132:「衣ではなく、あなたの心を引き裂け」

「衣ではなく、あなたの心を引き裂け」 
聖書 マタイによる福音書 6:16-18、サムエル記下 12:13-23 
2016年 9月 4日 礼拝、小岩教会 

【現代人にとっての「断食」】
「人間にとって最も良いのは、
飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること」(コヘレト2:24)と、
旧約聖書の「コヘレトの言葉」に記されているように、
聖書の時代の人々にとって、食べることは何よりも喜びでした。
「断食」というものは、人々にとって喜びであり、
そして、自分の生命を保つために欠かすことの出来ない、
食事を一時的にやめることでした。
断食をするたびに、人々は気付かされたことでしょう。
私たちが日々飲み食いしているものは、実のところ、
「神の手からいただくもの」(コヘレト2:24)であるのだ、と。
つまり、自分自身の力によって、自分の生命を支えているのではなく、
日々食べるものを備えてくださる神によって、
私たちの生命が保たれているのだ、と断食をする毎に人々は気付かされ、
神に感謝を捧げたことでしょう。
このような信仰的な気づきを私たちに与える断食というものは、
当時の人々にとって、信仰深い行いのひとつでした。
この断食について、イエス様は、このように語りました。
断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:16)
イエス様は断食そのものを禁止することはしませんでしたし、
実際、イエス様自身もかつて、荒れ野において
40日間の断食を行っていましたが(マタイ4:2)、
その一方で、イエス様は人々の行う断食の姿勢を批判したのです。
「あなたがたは、人に見てもらおうとして、断食を行っている」と。
しかし、そもそも現代に生きる信仰者のひとりである、私たちにとって、
断食をすることそのものが、無意味なことのように思えるかもしれません。
そのようなことをしなくても、
神は私たちの祈りを確かに聞いてくださる方なのですから。
でも、そのように思いつつも、自分自身の生活を思い返してみると、
実は、食べ物を食べないこと自体は、経験していることに気付かされます。
ある時は、忙しすぎて、食べるのを忘れてしまいます。
またある時は、お昼ごはんを食べてしまうと、
昼過ぎに眠くなってしまうから、という理由で、意図的に食事を抜きます。
前日の夜に食べ過ぎたため、翌日になっても何も食べられないこともあります。
そして、病気で食欲がなかったり、体重を落としたかったりなど、
健康上の理由から、食事を控えることさえあります。
そのような理由で、私たちはしばしば食事を抜きます。
その意味で、現代人が日常的にする「断食」といえば、
信仰上の理由ではなく、自分自身のためだといえるでしょう。
自分がしたいことに集中するために、
私たちは食事を摂らないことがあるのです。
このように、食事を摂らないこと自体は、
私たちにとっても意外と身近なことだといえます。

2016年8月28日日曜日

説教#131:「何を祈るべきなのか?」

「何を祈るべきなのか?」 
聖書 マタイによる福音書6:11-15、創世記50:15-21 
2016年 8月 28日 礼拝、小岩教会 

【一体何を祈るべきなのか?】 
私たちはいつも神との祈りの交わりに招かれています。 
しかし、その祈りにおいて、一体何を祈れば良いのでしょうか。 
イエス様は、「だから、こう祈りなさい」と言って、 
「主の祈り」を通して、私たちに祈りの模範を示してくださいました。 
イエス様によれば、私たちは「父なる神よ」と
神に向かって呼びかけて、祈り始めることが出来ます。
また、私たちが心で抱く願いや思いよりも、 
神のみ心、神の計画こそがなされることを祈り求めるようにと、
イエス様は主の祈りの前半部分で教えてくださいました(マタイ6:9-10)。
しかし、そのように神の計画が実現することを願う一方で、 
私たちが日々感じる思いや、心で抱く悩み、悲しみが 
蔑ろにされているわけでは、当然ありません。 
私たちが自分自身のために祈り、
また、共に生きる愛する人々のために祈るとき、 
何を祈るべきなのかを、イエス様は主の祈りの後半部分で教えてくださいました。 

2016年8月21日日曜日

説教#130:「神の名を呼ぶ」

「神の名を呼ぶ」 
聖書 マタイによる福音書 6:9-10、創世記 28:10-19 
2016年 8月 21日 礼拝、小岩教会 

【神を「父」と呼ぶこと】 
イエス様は「だから、こう祈りなさい」と言って、 
私たちに祈りを教えてくださいました。 
その祈りは、このような言葉から始まりました。 
天におられるわたしたちの父よ(マタイ6:9a) 
この祈りを、教会は「主の祈り」と呼んで、毎週祈り続けています。 
毎週のように祈り続け、イエス様が教えてくださった祈りの言葉を覚え、 
記憶に、そして心に刻み込んでいます。 
祈りは、神との対話ですから、 
まず初めに、神に呼びかけることから始まります。 
イエス様が教えてくださったこの祈りは、 
神を「お父さん」と呼ぶことから始まっています。 
聖書を読むと、神について、様々な呼び方があることに気付くでしょう。 
全能の神(詩編91:1)、生ける神(ヨシュア3:10)、
恵み深い神(詩編68:11)。 
私の羊飼い(詩編23:1)、私の光(詩編27:1)。 
そして、アブラハムの神、イサクの神(創世記28:13)などというように。 
イエス様は、そのような数ある神への呼びかけ方の中から、 
神を「お父さん」と呼ぶことを選ばれました(マラキ2:10参照)。
この呼び方は、父親と子どもの関係にある親密さが、 
神と私たちとの関係の中にあることを示すものです。 
しかし、それは、自分の父親を通して、
神がどのようなお方なのかを知ることが出来る、という意味ではありません。 
私たちひとりひとりには、血のつながりのある父親がいます。 
しかし、彼らには、理想的で尊敬できる側面もあれば、 
人間的な弱さを抱え、決して喜ぶことのできない一面も持っています。 
そのため、父親との間に良い関係を築けない人も、 
父親から愛情を受けられず、傷付けられてきた人もいます。 
ですから、自分の父親を見つめて、
父親との関係の中で受け取るイメージを神に当てはめるような仕方で、
神を「父なる神」と理解するべきではありません。 
そうではなく、ただ神おひとりが、私たちの父であると、 
私たちは、イエス様が教えてくださった、
この祈りを通して知ることが出来るのです。 
そして、イエス様を通して、私たちは「父なる神」について、
その生涯をかけて学び続けていくのです。

2016年8月14日日曜日

説教#129:「心を神に向けよ」

「心を神に向けよ」 
聖書 マタイによる福音書6:5-8、サムエル記上1:12-20 
2016年 8月 14日 礼拝、小岩教会

【心をどこに向けるべきなのか?】 
日々の生活の中で、私たちは様々なものに目を向け、心を向けています。 
集中して取り組んでいることがあれば、 
周りの声も聞こえず、心をひたすらにその物事に向けます。 
また、悩みがあれば、その悩みの種となっていることが、 
ぐるぐると頭の中を駆け巡り、悩んでいる事柄に心を奪われてしまいます。 
そうなってしまうと、今取り組んでいる物事に対して、 
「心ここにあらず」といったような状態になってしまうことでしょう。 
イエス様はきょうの言葉を通して、私たちが祈るとき、 
私たちの心をどこに向けるべきかを、教えてくださいました。 
イエス様は、ご自分のもとに集まっている人々に、
このように語り掛けられました。 
祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:5) 
当時のユダヤの人々は習慣として、 
毎日3回、朝・昼・夕の決まった時間に祈りを捧げていました。 
祈りの時間になると、人々は祈りを捧げるために、どんなことをしていても
それまでしていたことの手を、一度止めて、祈り始めたようです。
敬虔な、信仰深いユダヤ人たちは、 
一定の祈りの時間には大通りに立って祈り、
一般の民衆に祈りの時間だということを示したそうです。
自分自身の祈る姿勢によって、自分が祈る姿を見ている周囲の人々に、
敬虔な信仰者の姿勢を教えてやろうと思ったのでしょう。
しかし、イエス様はそのような人々のことを、 
「人に見てもらおう」という動機で動いている
「偽善者」であると言われました。 
新約聖書は、もともとギリシア語で書かれているのですが、 
「偽善者」と訳されているもともとの言葉を調べてみると、 
「役者」という意味であることがわかります。 
つまり、彼らは「敬虔で、信仰深い人」を演じているに過ぎず、 
人々から「あの人は信仰深い人だ」とほめられたいがために、 
敬虔な自分という偽りの姿を演じている偽善者なのだ、
とイエス様は指摘しているのです。 
本来、祈るとき、私たちの心は神に向けるべきです。 
しかし、彼らの心は一体何処に向いていたでしょうか。 
彼らの心は、神の方にではなく、周囲の人々の方に向いていました。
また、人々の目に映る自分自身の姿に心が向いていました。 

2016年8月7日日曜日

説教#128:「神から受ける報酬」

「神から受ける報酬」 
聖書 マタイによる福音書6:1-4、列王記上17:8-16 
2016年 8月 7日 礼拝、小岩教会 

【善い行いをする動機を問う主イエス】
報酬を受け取ることは、誰もが喜ぶであろう、嬉しいことです。 
自分の行ってきたことが、正しく評価されたことを
目に見える形で知ることが出来るからです。
イエス様は、私たちの行いとそれに対する報酬について、
このように語り始めました。 
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(マタイ6:1a) 
イエス様がここで言う「善い行い」とは、ユダヤの人々の間で、 
信仰者の義務として受け止められてきた3つの行いのことを指しています。 
その3つとは、施しをすることと、祈ること、そして断食をすることでした。 
イエス様は、ユダヤの人々が信仰者の義務として受け止めてきた、 
これらの善い行ないについて、
2節から1つずつ触れて、人々に教えを語りました。
イエス様はその導入として、3つの善い行いについて語る前に
「見てもらおうとして、 人の前で善行をしないように注意しなさい」
と語られたのです。
もちろん、善い行いの種類によっては、
人の前でしなければいけないものもあるでしょう。
そのため、ここでイエス様が問題としているのは、 
「善いことを決して人前でしてはいけない」ということではありません。
「善い行いをする際に、あなたはどのような動機を抱いていますか」
と、イエス様は問い掛けているのです。
イエス様は言われます。 
人から「見てもらおう」という動機で、
つまり自分が人々から賞賛を受けるために、
人の前で善い行いをしないように注意しなさい、と。
本来、善い行いは、共に生きる周囲の人々にとって、良いことだと思うから、
喜ばれることだと思うからなされるものです。
きれいな環境をつくりたいから、ゴミを拾う。
うずくまって助けを求めている友人がいるから、
声をかけて、一緒に時間を過ごす。
このように、本来善い行いというものは、
共に生きる人々を愛するためになされるのです。
しかし、そのような本来の目的を見失い、
自分が賞賛を受けるという報酬を自分で作り出してしまっている。
そして、自分が賞賛を受けることを目的としてしまいやすい人々の姿を見つめて、
イエス様は嘆き、悲しみを覚えて、このような言葉を語られたのです。
見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(マタイ6:1a) 

2016年7月31日日曜日

説教#127:「神の愛を携えて生きるならば」

「神の愛を携えて生きるならば」
聖書 マタイによる福音書5:43-48、サムエル記 上24:2-7
2016年 7月 31日 礼拝、小岩教会

【「隣人を愛し、敵を憎め」】
旧約聖書に記されている数ある言葉の中で、
最も重要な戒めはどの戒めなのでしょうか(マタイ22:36参照)。
イエス様はあるとき、このような問い掛けを受けたとき、
神を愛することと、隣人を愛することである、
と答えました(マタイ22:37-40)。
イエス様が最も重要な言葉であると語った「隣人を愛する」ことについて、
先ほど朗読していただいた箇所でも、イエス様は触れています。
しかし、一体どういうことでしょうか。 
43節に記されているイエス様の言葉には、「隣人を愛しなさい」の後に、
「敵を憎め」と、もうひとつ命令が加えられています。 
「あなたがたも聞いているとおり、
『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と。
イエス様はこれまで4度も、人々の間で広く受け入れられている、
旧約聖書の律法やその解釈などを取り上げた後、
「しかし、わたしは言う」と言って、人々に教えを語りました。
『隣人を愛し、敵を憎め』も、当時のユダヤの人々に
広く受け止められていた言葉のひとつです。
しかし、旧約聖書のどこを探しても、「隣人を愛しなさい」はありますが、
「敵を憎みなさい」とは記されていません。
恐らく、「敵を憎め」とは、「隣人を愛しなさい」の解釈なのでしょう。
イエス様が語る以前から、ユダヤの人々にとって、「隣人」とは、
自分たちの同胞であり、同じ信仰を共有する仲間たちのことを指す言葉でした。
そのため、彼らにとって「敵」とは、
同胞のユダヤ人以外の人々のことを意味していました。
たしかに、ユダヤの人々は同胞以外の人々から、
長い間苦しみを受けてきました。 
そして、イエス様に従う人々は、 
同じユダヤ人からもいじめられ、馬鹿にされていました。
そのため、「隣人を愛しなさい」という命令を、
「敵を憎め」という意味も含む言葉として、彼らは受け取ってきたのでしょう。
しかし、イエス様は「隣人を愛しなさい」という言葉について、 
「しかし、わたしは言っておく」と語り、その場にいた人々を諭されました。
「そのような理解であってはいけない」と。