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説教#103:「衝突を乗り越えて歩む」

「衝突を乗り越えて歩む」  聖書 マタイ4:12-17、イザヤ書8:21-9:1 2016年1月31日 礼拝、小岩教会(ナザレン) 【「異邦人のガリラヤ」】 イエス様が宣教を始めた場所は、ガリラヤという地域でした。 救い主と呼ばれる方が宣教を始めた場所が、ガリラヤであったことは、 多くのユダヤ人にとって、違和感を感じることだったかもしれません。 というのは、イエス様が産まれるおよそ1,000年前から、 ユダヤの中心地はエルサレムだったからです。 エルサレムには、ユダヤ人たちの礼拝の場である聖なる神殿がありましたし、 ユダヤの宗教的指導者も、ユダヤ議会のメンバーもいました。 ですから、もし効率の良い宣教を考えるならば、 イエス様はエルサレムで宣教を始めたことでしょう。 エルサレムにいる地位の高い人や優秀な人を選び、  彼らに大きな影響を与え、彼らを用いて、宣教を行うことは、 とても賢く、効率の良い方法に思えます。 しかしイエス様はエルサレムで宣教を行うのではなく、 エルサレムから100kmほど北にあるガリラヤで宣教を始めました。 ガリラヤは、預言者イザヤの時代から、 「異邦人のガリラヤ」と軽蔑を込めて呼ばれていた地域でした。 それは、ガリラヤにはたくさんの文化が入り混じり、 ユダヤ人だけでなく、多種多様な人々が住んでいたからです。 ガリラヤは、ユダヤの国と他の国の境界線にあったため、 他の国から攻めこまれて占領されることもあれば、 他の国の人々が移り住んでくることもありました。 そのため、この地は、他民族も含めて、多種多様な人々で溢れ、 絶えず異文化が雪崩れ込んでくる危険に晒されていました。 イエス様が宣教の始まりの地として選んだこのガリラヤという地域は、 ユダヤの文化と他の国の文化が衝突する場所だったのです。

説教#102:「神は私たちを離さない」

「神は私たちを離さない」  聖書 マタイによる福音書4:1-11、申命記5:7 2016年1月24日 礼拝、小岩教会  【試練を受けるために荒れ野へ導かれた主イエス】 それは、イエス様が洗礼者ヨハネから バプテスマを授けられた直後のことでした。 イエス様は悪魔から誘惑を受けるために、 聖霊によって荒野へと導かれたとマタイは報告しています。 この出来事は、とても興味深いものです。 というのは、この出来事が起こったのは、 イエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネからバプテスマを受けて、 「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と 神から宣言された直後のことだったからです。 その上、愛する子であるイエス様を、 聖霊によって荒れ野という孤独な場所へと神が導かれたのは、 「悪魔から誘惑を受けるため」(マタイ4:1)だったとマタイは記しています。 悪魔は、イエス様を神から引き離すために、イエス様を誘惑しました。 しかし、悪魔がイエス様を誘惑することを、神が許可したのは、 悪魔とは別の目的があったからです。 1節で「誘惑を受けるため」と訳されているギリシア語は、 「試みを受けるため」と訳すことができます。 そのため、神がイエス様のもとに悪魔を送った理由は、 イエス様を誘惑し、悪い道へと導くためではなく、 イエス様を試みるためだったことがわかります。 イエス様を神の計画に沿う者として、ふさわしく整えるために、 救い主メシアとしてふさわしく整えるために、 神は、イエス様に試みを与えられたのです。 この荒れ野での試みを通して、 人間としてこの地上での生涯を歩み始めた神の子であるイエス様は、 私たち人間が生きる上で、どのような誘惑や試みに直面するのかを、 同じ人間という立場で経験されました。 そして、私たち人間が抱える苦しみや悩みを強く実感したのです。 イエス様が私たちと共に歩む上で、 この荒野での試みは、どうしても必要なものでした。 悪魔は、そのような神の計画を利用し、 イエス様を神から引き離すために、3度イエス様を誘惑しました。

説教#101:「神の義が実現するために」

「神の義が実現するために」  聖書 マタイによる福音書3:13-17、イザヤ書11:1-5 日時 2016年1月10日 小岩教会(日本ナザレン教団) 【主イエスの申し入れを拒むヨハネ】 イエス様が洗礼者ヨハネからバプテスマを受けたという この物語は、すべての福音書に記されています。 4つの福音書を読み比べてみると、マタイにのみ、 イエス様と洗礼者ヨハネの間で交わされた会話の内容が 記録されていることがわかります。 それは、イエス様のバプテスマをめぐって交わされた会話でした。 マタイは、イエス様とヨハネの会話をこのように記しています。 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼[バプテスマ]を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。(マタイ3:14-15)  イエス様がバプテスマを受けることを、 ヨハネが拒もうとしたのには、理由がありました。 それは、救い主として、自分の「後から来る方」は、 イエス様に違いないと、ヨハネが確信していたからです。 ヨハネは、自分とイエス様の関係について、このように述べています。 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼[バプテスマ]を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼[バプテスマ]をお授けになる。(マタイ3:11) このようにヨハネは、イエス様は自分よりも優れている方だから、 自分はイエス様にバプテスマを授ける資格などないし、 自分の方がイエス様からバプテスマを受けるべきだと考えていました。 ですから、バプテスマを授けて欲しいという、 イエス様からの申し入れをヨハネが拒むのも当然です。

説教#100:「立ち帰って、生きよ」

「立ち帰って、生きよ」 聖書 マタイによる福音書3:1-12、エゼキエル書18:29-32 日時 2016年1月3日 礼拝 場所 小岩教会(日本ナザレン教団) 【人々に悔い改めを迫った洗礼者ヨハネ】 洗礼者ヨハネは、預言者イザヤによって、このように預言された人物でした。 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。 『主の道を整え、 その道筋をまっすぐにせよ。』」(マタイ3:3) 主の道をまっすぐに整えること。 これこそ、ヨハネが神から与えられた使命でした。 「主の道」とは、神と私たちとをつなぐ道。 つまり、私たちと神との交わりです。 しかし、どうやら預言者イザヤの時代も、そして洗礼者ヨハネの時代も、 主の道は、決してまっすぐとは言えず、 神と人との関係が生き生きとしたものではなかったようです。 マタイは、ヨハネが「荒れ野」で活動したと記しています。 「荒れ野」という場所は、主の道がまっすぐではない、 その現実が強く映しだされている場所といえるでしょう。 荒れ野という場所は、見渡す限り、死が広がっている場所です。 そこには、草も木もなく、砂だらけの地面が広がっています。 また、道など整っていませんし、当然、まっすぐな道などありません。 まるで、ヨハネが活動していた荒れ野という場所のように、 神と人との関係が生き生きとしたものではなく、荒れ果てていました。 だからこそ、主の道を整えて、まっすぐにするために、 人間と神の交わりがまっすぐになるために、 ヨハネは、人々のもとへと遣わされたのです。 では、主の道を整え、まっすぐにするために、彼は何を行ったのでしょうか。 彼は人々に呼びかけました。 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)と。 そして、人々を「悔い改めに導くために」、 ヨハネは水でバプテスマを授けました。(マタイ3:11) このことから、ヨハネは、 罪の悔い改めを人々に迫る人物だったことがわかるでしょう。 人々の悔い改めを通して、 主の道が整えられ、まっすぐにされていくと強く確信し、 ヨハネは「悔い改めよ」と語り続けたのです。 【神に立ち帰れ】 この「悔い改める」と訳されているもともとの言葉は、 「心を変える」と