説教#118:「それでも、大いに喜びなさい」
「それでも、大いに喜びなさい」 聖書 マタイによる福音書 5:10-12、ミカ書 6:6-8 2016年 5月 22日 礼拝、小岩教会 【義のために迫害を受ける】 「義のために迫害される人々は、幸いである」。 たぶん、この言葉は、イエス様が語った8つの幸いの中で、 最も受け入れがたい言葉だと思います。 「義のために迫害される」。 それは言うならば、自分は正しいことをしているのに、 人々から疎まれ、虐げを受けることです。 正直、それが「幸い」だと、誰が思うでしょうか。 寧ろ、それは不憫なこと、悲しむべきことです。 それなのに、なぜイエス様はこのように語ったのでしょうか。 「義のために迫害される人々は、幸いである」と。 このとき、イエス様が語った「義」という言葉は、 自分の義ではなく、神の求める義のことです。 私たちと神との間に、神が望む正しい関係が実現すること。 そして、私たちが各々に正しいと考えることではなく、 神が正しいとすることが実現することが、神の義なのです。 信仰者は、このような神の義の実現のために生きるようにと招かれています。 神の義を実現するために生きるということは、 決して、心の問題で終わるものではありません。 私たちの生活と存在のすべてにおいて、そしてこの世界に、 神の義が実現することに飢え渇くように招かれています。 そうであるならば、私たちが神の義のために生きるとき、 この世界との間に摩擦や衝突を経験することは、当然のことだといえるでしょう。 神が望むことと、この世界が掲げる義が、 対極にあることが多くあるからです。 そのため、この世界と神の義に生きる私たちとの間に起こる、 摩擦や衝突のひとつの形として、「迫害」という出来事があるのです。 つまり、迫害されることは、信仰者が神の義に生きたときに現れる、 ひとつの目に見える結果でもあるといえるでしょう。 もちろん、迫害されることばかりというわけではありません。 しかし、イエス様は、信仰者が迫害されないはずはないと考えました。 だから、義のために迫害される人々に、慰めと希望の言葉を語ったのです。 天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10) この言