しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年5月22日日曜日

説教#118:「それでも、大いに喜びなさい」

「それでも、大いに喜びなさい」
聖書 マタイによる福音書 5:10-12、ミカ書 6:6-8
2016年 5月 22日 礼拝、小岩教会

【義のために迫害を受ける】
「義のために迫害される人々は、幸いである」。
たぶん、この言葉は、イエス様が語った8つの幸いの中で、
最も受け入れがたい言葉だと思います。
「義のために迫害される」。
それは言うならば、自分は正しいことをしているのに、
人々から疎まれ、虐げを受けることです。
正直、それが「幸い」だと、誰が思うでしょうか。
寧ろ、それは不憫なこと、悲しむべきことです。
それなのに、なぜイエス様はこのように語ったのでしょうか。
「義のために迫害される人々は、幸いである」と。
このとき、イエス様が語った「義」という言葉は、
自分の義ではなく、神の求める義のことです。
私たちと神との間に、神が望む正しい関係が実現すること。 
そして、私たちが各々に正しいと考えることではなく、
神が正しいとすることが実現することが、神の義なのです。
信仰者は、このような神の義の実現のために生きるようにと招かれています。
神の義を実現するために生きるということは、
決して、心の問題で終わるものではありません。
私たちの生活と存在のすべてにおいて、そしてこの世界に、
神の義が実現することに飢え渇くように招かれています。
そうであるならば、私たちが神の義のために生きるとき、
この世界との間に摩擦や衝突を経験することは、当然のことだといえるでしょう。
神が望むことと、この世界が掲げる義が、
対極にあることが多くあるからです。
そのため、この世界と神の義に生きる私たちとの間に起こる、
摩擦や衝突のひとつの形として、「迫害」という出来事があるのです。
つまり、迫害されることは、信仰者が神の義に生きたときに現れる、
ひとつの目に見える結果でもあるといえるでしょう。
もちろん、迫害されることばかりというわけではありません。
しかし、イエス様は、信仰者が迫害されないはずはないと考えました。
だから、義のために迫害される人々に、慰めと希望の言葉を語ったのです。
天の国はその人たちのものである。(マタイ5:10)
この言葉を聞いた人々は、将来、天の国が与えられることを、
神の揺るがぬ約束として受け止めて、励ましを得たことでしょう。

2016年5月15日日曜日

説教#117:「平和を実現する共同体」

「平和を実現する共同体」 
マタイによる福音書 5:9、ヨエル書 3:1-5
2016年5月15日 礼拝、小岩教会 

【平和の実現を願うにも関わらず……】
平和が実現すること。 
それは、いつの時代も、人々の心からの願いだといえるでしょう。 
平和の実現が人々の願いであり続けているのは、
平和が実現していないと、多くの人が感じているからかもしれません。
また、平和な日々を過ごしていると思っていたとしても、 
いつかそれが自分から奪い去られてしまうかもしれない
という不安があるからかもしれません。 
だからこそ、これまでの人類の歴史を通して、 
平和を求める取り組みは様々な形でなされてきました。 
虐げられ、抑圧されている人々の人権を取り戻すための運動が行われたり、
過去の過ちから学ぶために、ユダヤ人迫害の行われたアウシュビッツや、
原爆を落とされた広島・長崎に記念館が建てられました。
多くの人から賞賛される、このような取り組みがある一方で、
軍事力に頼る形で問題を解決し、経済的な方法で制裁を加えるなど、
非難せずにはいられないような取り組みも数多くなされてきましたし、
今も世界中でなされているのは、否定の出来ない事実です。
誰の心にも平和を求める思いがあるにも関わらず、平和は一向に実現せず、 
世界各地で起こる紛争や差別などによって、
相変わらず、憎しみの連鎖を生み出し続けています。
それらのことは、私たちにとって、決して他人事ではありません。
私たちの身近なところにも、平和とは決して呼べない現実は広がっています。
違いを受け入れあえず、お互いの間に壁をつくってしまいます。
争いや仲間はずれだって、そこら中で起こっています。
誰もが平和を願っているはずです。
それなのに、私たちのごく身近なところでさえ、平和は実現していないのです。
そのような現実に気付くたび、悲しみを覚えることでしょう。
いや、悲しむことが出来ないほど、
私たちの心は麻痺していることさえあります。

2016年5月8日日曜日

説教#116:「神と向き合う日を待ち望む」

「神と向き合う日を待ち望む」 
聖書 マタイによる福音書5:8、出エジプト記19:9
2016年 5月 8日 礼拝、小岩教会

【ただひとつの願い】
「神を見る」ことをイエス様は、将来の希望として語りました。 
この地上においてではなく、将来、神の国に迎え入れられるその日、
「心の清い人々」は、「神を見る」と、イエス様は宣言されたのです。
神と、顔と顔を合わせて、豊かに交わりをもつ日が来ることは、
旧約聖書の時代から今日に至るまで、 
信仰者たちの心からの願いであり、希望です。 
ですから、きょう一緒に声を合わせて読んだ、 
詩編27篇をうたった詩人は、このように祈りました。
ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。(詩編27:4) 
神は目には見えない方ですから、 
神と直接に顔と顔を合わせることは、この地上ではかないません。 
それでも、今このとき、「主の家」である神殿に宿り、
神の言葉を聞き、神に祈ることを通して、
神との交わりをもち、この交わりを心からの喜びとする。
旧約聖書の時代以来、信仰者たちは、神とのこのような交わりを
「ただひとつの願い」と言って、求め続けました。 

2016年5月1日日曜日

説教#115:「憐れみに生きる道を行け」

「憐れみに生きる道を行け」 
聖書 マタイによる福音書5:7、ホセア書6:6
2016年5月1日 礼拝、小岩教会 

【「神の憐れみ」を受けるための条件なのか?】
憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。(マタイ5:7) 
今日のイエス様の言葉には、少し違和感を覚えるかもしれません。 
憐れみ深い人が、憐れみを受けると、
イエス様が語っているかのように感じるからです。
イエス様は、後半の文で用いている「憐れみ」を、 
明らかに「神の憐れみ」と考えて語っています。
ということは、私たちが神の憐れみを受けるようになるためには、 
人を憐れまなければならないのでしょうか。
つまり、神の憐れみを私たちが受けるためには、
条件があるということなのでしょうか。
もしもそうであるならば、それは、私たちがこれまで教えられ、 
信じてきたこととは違うように感じます。
そのような印象を受けるから、
このイエス様の言葉に違和感を覚えるのでしょう。
もちろん、「神の憐れみを私たちが受けるための条件は、
あなたが憐れみ深くあることだ」という意味で、
イエス様はこのように語ったわけではありません。
私たちが憐れみ深くある前から、
神の憐れみは、私たちに注がれているのですから。
しかし、それにしても、
なぜイエス様はこのような物の言い方をしたのでしょうか。
おそらくイエス様は、私たちが既に神から憐れみを受けていることを、 
「大前提」として受け取めて欲しいと願ったのだと思います。