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説教#127:「神の愛を携えて生きるならば」

「神の愛を携えて生きるならば」 聖書 マタイによる福音書5:43-48、サムエル記 上24:2-7 2016年 7月 31日 礼拝、小岩教会 【「隣人を愛し、敵を憎め」】 旧約聖書に記されている数ある言葉の中で、 最も重要な戒めはどの戒めなのでしょうか(マタイ22:36参照)。 イエス様はあるとき、このような問い掛けを受けたとき、 神を愛することと、隣人を愛することである、 と答えました(マタイ22:37-40)。 イエス様が最も重要な言葉であると語った「隣人を愛する」ことについて、 先ほど朗読していただいた箇所でも、イエス様は触れています。 しかし、一体どういうことでしょうか。  43節に記されているイエス様の言葉には、「隣人を愛しなさい」の後に、 「敵を憎め」と、もうひとつ命令が加えられています。  「あなたがたも聞いているとおり、 『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」と。 イエス様はこれまで4度も、人々の間で広く受け入れられている、 旧約聖書の律法やその解釈などを取り上げた後、 「しかし、わたしは言う」と言って、人々に教えを語りました。 『隣人を愛し、敵を憎め』も、当時のユダヤの人々に 広く受け止められていた言葉のひとつです。 しかし、旧約聖書のどこを探しても、「隣人を愛しなさい」はありますが、 「敵を憎みなさい」とは記されていません。 恐らく、「敵を憎め」とは、「隣人を愛しなさい」の解釈なのでしょう。 イエス様が語る以前から、ユダヤの人々にとって、「隣人」とは、 自分たちの同胞であり、同じ信仰を共有する仲間たちのことを指す言葉でした。 そのため、彼らにとって「敵」とは、 同胞のユダヤ人以外の人々のことを意味していました。 たしかに、ユダヤの人々は同胞以外の人々から、 長い間苦しみを受けてきました。  そして、イエス様に従う人々は、  同じユダヤ人からもいじめられ、馬鹿にされていました。 そのため、「隣人を愛しなさい」という命令を、 「敵を憎め」という意味も含む言葉として、彼らは受け取ってきたのでしょう。 しかし、イエス様は「隣人を愛しなさい」という言葉について、  「しかし、わたしは言っておく」と語り、その場

説教#126:「それでも、復讐を選ばない」

「それでも、復讐を選ばない」  聖書 マタイによる福音書 5:38-42、創世記 26:12-22  2016年7月24日 礼拝、小岩教会  【際限なく繰り返される「復讐」】 「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)。 とても有名な聖書の言葉です。  聖書の言葉であるとともに、「ハンムラビ法典」にも記されていることから、  古代の人々の間でも広く行き渡っている、有名な法律だったのでしょう。  ただ残念なことに、現代において、 「目には目を、歯には歯を」というこの言葉は、  しばしば誤解されて用いられています。 「やられたら、やり返せ」。 目を潰されたら潰し返してやり、 歯を折られたら、歯を折り返してやる。 そのような報復は許されているんだ、 「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)なのだから、という具合に。 しかし、「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)は、 そのような意味を込めて作られたものではありません。 私たち人間は、もしも復讐や報復が正当化されるならば、 それを際限なく繰り返してしまうでしょう。 奪われたものがあったなら、奪われた以上のものを奪い、 傷つけられたなら、受けた傷以上の傷を負わせたいと望むことさえあります。 「目には目を、歯には歯を」(マタイ5:38)という言葉は、 このように、私たち人間が、憎しみや復讐の思いを抱き、  報復の計画を練り始めたら、 際限なく復讐が繰り返されることをよく知っています。 その復讐や報復の思いが、たとえ小さな火だったとしても、  それは簡単にはなくならないことも、 また、それが燃え続けるならば、 しまいには大きな火事を引き起こすこともよく知っています。 このような復讐の連鎖を断ち切るために、  「目には目を、歯には歯を」という法律がつくられました。 あなたがたは、際限なく、復讐や報復をしてはいけない。 目を奪われたなら、目まででとどめなさい。 歯を折られたならば、歯を折ることでとどめなさい。 それ以上の報復を行って、お互いに傷つけ合うべきではない。 そのような思いを込めて、この法律はつくられ、 古代の人々の間で広まり、広く受け入れられていました。

説教#125:「神の前に誠実に生きる」

「神の前に誠実に生きる」  聖書 マタイによる福音書5:33-37、ルツ記2:10-13 2016年 7月 17日 礼拝、小岩教会  【「偽りの誓いを立てるな」】 私たちはなぜ誓うのでしょうか。  なぜ制約をして、固く約束をするのでしょうか。 それはきっと、自分の誠実さを相手に伝えるためでしょう。  たしかに自分は、このことを果たしますというとき、  その保証として、人は何かの前に誓うのでしょう。  ときには、誓約書にサインをして、その誓いを破った場合は、 何らかの損害を被るというリスクを引き受けることもあります。 また、自分の正しさを証明するために誓うこともあるでしょう。 何か疑いをかけられたとき、人は誓います。 絶対自分ではない、と。 イエス様は「誓い」について、人々に語る際、 昔の人々が命じてきた言葉を取り上げました。  偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ(マタイ5:33)  偽りの誓いを立ててはならない。 聖書を用いてわざわざ語らなくとも、  すべての人が、当然偽って誓うことはあるべきではないと思うことでしょう。  しかし、現に、偽りの誓いはなされています。 他の人を騙して、出し抜くために、または、騙した相手を冷やかすために。 また、自分だけが損をしないために、偽りの誓いはなされます。 ユダヤの社会において、偽りの誓いは、 主なる神に対して行われることがないように、と考えられました。  「主に対して誓ったことは、必ず果たせ」と訳されているギリシア語の原文は、  「あなたの誓いは主に返しなさい」と訳すことができます。  つまり、ここで語られていることは、「誓い」というものは、  神に対して返済すべき義務を負ったことになる、ということです。  神に対して誓ったならば、 その誓いを、あなたの行動を通して返す義務があるのだから、 必ずその誓ったことを果たしなさいということになります。 しかし、もしも、神に対して偽りの誓いをした場合、 誓ったことを神に返すことなど、決して出来ません。 そのため、誓ったことを神に返すことが出来ないのならば、 神に対して返済の義務が果たせない状態になってしまいます。 つ

説教#124:「神が結び合わせたのだから」

「神が結び合わせたのだから」  聖書 マタイによる福音書5:31-32、創世記2:21-25 2016年 7月 10日 礼拝、小岩教会 【離縁状を書けば、離縁は正当なものと認められるのか?】  「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」。  この言葉は、おそらく、旧約聖書の申命記に記されている言葉の要約です。  そこにはこのように記されています。  人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。(申命記24:1)  この言葉を、当時の人々は要約して、こう言ったのです。 「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と。  この言葉が、申命記に記されている言葉の要約だとするならば、 イエス様の時代の人々が、離婚の手続きをすすめる際、  「離縁状を書く」ことが重要視されていたことがわかるでしょう。  つまり、たとえ離婚をするのにまっとうな理由がなかったとしても、 離縁状さえ書いて、妻に渡せば、離婚は正当なものとして認められる、 という理解が一般的に広まっていたのです。 しかし、そのような理解で本当に良かったのでしょうか。  イエス様はそのような理解で良いとは、決して考えませんでした。  そのため、「しかし、わたしは言っておく」と言って、  イエス様は人々の理解を正そうとされたのです。  イエス様は、このように語りました。  不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。(マタイ5:32)  この言葉が男性の視点で描かれているのは、  聖書の時代が男性優位の社会だったためです。  適当な理由をつけて、離婚をすることは、  男性の側からのみ可能なことでした。  では、離縁状を渡されて、離婚をすることになり、 夫のもとから去っていかなければならなくなった女性は、 この当時どうなったのでしょうか。 男性優位の社会が築かれていた、この当時、  女性は結婚をして、男性に養われないと、生きることができませんでした。 離縁状を夫から渡された女性は生きていくために、 何としてでも、再婚しなけれ

説教#123:「だから、主イエスは来た」

「だから、主イエスは来た」  聖書 マタイによる福音書5:27-30、士師記19:15-30 2016年 7月 3日 礼拝、小岩教会  【「姦淫するな」と語られた理由】  モーセの十戒の7番目に記されている言葉について、 イエス様は語り始めました。  「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。(マタイ5:27-28)  旧約聖書において「姦淫」とは、 神が喜びとする結婚生活のあり方から外れた状態を意味します。  既婚の者や婚約中の者と、性交渉を持つことは禁止されていました。  旧約聖書の時代から、 「姦淫するな」と強く禁じられたのには理由がありました。  「結婚は、神の業である」というのが聖書の主張だからです。 その結婚した夫婦の関係が、本人たちの手によっても、  また他の誰の手によっても、傷付けられ、損なわれたりしないために、  旧約聖書の時代、「姦淫」は厳しく非難され、罰せられました。  結婚が尊ばれていたからこそ、  結婚した二人の関係がより豊かなものであり続けて欲しいと 神が願ったからこそ、「姦淫するな」という掟が、 神によって定められたのです。